西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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十章 神々の系譜

43話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《ザイル》
太鼓の聖典楽師
《フルーバ》
笛の聖典楽師
《ミオリア》
踊り子



 ミィラスは目を開けた。
 彼がいるのは一面暗黒の世界だった。何も無い。町も木も動物も、風も温度も。
 己が倒れ伏している地面だけが唯一目に見えるもので、血のような赤色をしている。ミィラスは身体の下から手ですくい、それが鉱物的なきらきらとした粒子であることを見て取った。

 身体を起こすと、広い平原にたった一人である。頭上は真っ暗で星の類いは無く、そもそも光を発するものが何一つ存在しないようだ。どういった原理か、暗くとも視界は良好で、遠くまで見渡せた。それでも赤い地形が果てしなく続くだけであったが。
 つまるところ、ここが冥府なのだろう。

 ミィラスは砂の上を歩いた。ざく、ざく、と足が少し埋まりながらも、踏みしめる感覚は本物だ。
 ふと気づいて、己の心臓に手を当ててみる。
 弱々しいながら、鼓動がある。どうやら死んでいるわけではないらしい。生きながら冥府にいるというのも妙な心地だ。

 突然、彼の目の前に赤い影が立ち塞がった。砂の中から這い出でて、崩れた手を伸ばしてくる。ミィラスは驚いて飛び退いた。
 その拍子に、彼が懐に抱いていた竪琴に手が当たって、弦を弾いた。

「……」

 それは小さな音だったが、目の前の赤い影は見る間に崩れ去り、地面へ戻っていく。
 ミィラスは目を丸くしてそれを見つめていたが、他にも赤い影がいくつもこちらに忍び寄って来ているのに気づき、試しに竪琴をかき鳴らす。
 彼らは非常に弱々しい存在のようで、竪琴の音が響くだけで形を失い、崩れていった。ミィラスはそれを哀れむべきものなのか迷い、じっと視線を注ぐ。

「おや、リィンの音がしたと思ったが、人違いだな」

 突然の人の声に、ミィラスは顔を上げた。
 三人の人間が忽然と立っていた。二人の男と一人の女だ。彼らは赤い影ではなく、しっかりとした実体があるように見える。ようやく自分以外の、人間らしき者に出会い、ミィラスは嬉しくなった。

 思わず声を掛けようとして、声帯を潰されたことを思い出す。
 仕方ないとがっかりしながら、非礼に当たらぬよう、ミィラスは喉を軽く押さえてみせたあと、彼らに向かって丁寧に一ゆうした。
 一人が「おお」と腕を広げる。

「どうやら我らの後輩のようだな。ようこそ友よ。しかし声が出ぬとはな! まあまあ、気を落とすな!」

 恰幅の良い彼は、豪快にミィラスに腕を回して抱擁し、ばんばんと背中を叩いた。そこに体温は無かったし、叩かれて結構痛かった。ミィラスは目を白黒させた。

「これこれ、若者を驚かせているではないか。全く、これだから太鼓の者はがさつじゃ大雑把じゃと言われるのじゃ」

 女がたしなめると、男は「すまんな、わっはっは」と笑う。

「しかし、てっきりリィンの奴だと思ったがな」
「音色がよく似ておるせいじゃ。若い身空で、よくその境地に至ったものよのぅ」

 女はたおやかな容姿でほっそりとしており、歳の頃はよく分からない。若くも見えるし、年かさにも見える。着ている衣装が古風な舞踊手のものであることだけが分かった。
 それまで黙っていたもう一人の男が、ぼそりと呟く。

「そなたら、じゃれておらんで、この若者の困りごとを助けてやらんか」

 彼は地味で目立たない容貌だが、眼光だけが鋭く険しく見える。彼に睨まれたなら思わず震え上がりそうだ。
 しかし他の二人は彼にじっと見据えられてもちらとも動じず、むしろ楽しげだった。

「おお、そうだな。すまなんだ」
「若者よ、そこでしばし待つがよい」

 男たちは懐から楽器を出し、女は袖をゆるやかに振った。
 タタタタタンッと太鼓が鳴ったかと思うと、笛──口で吹かず蛇腹状のふいごで鳴らすものである──が長々とした旋律を奏でた。男たちは演奏しながら、その喉から朗々とした歌声を響かせる。

 それは、まぎれもなく見事な〝聖典の詩〟だった。

 女は音楽に合わせて優雅に舞い、赤い砂を蹴散らしもせぬ見事な足運びで、踊り子そのものの動きをした。
 だが彼らはすぐに「ううむ」と唸った。

「やはり少し物足りぬ」
「さすがに我ら三人では力が及ばぬか」

 そこでミィラスが竪琴を構え、演奏に合わせて弦を弾くと、彼らは愉快そうに声を上げて笑った。

「良い良い! 上手いではないか!」
「逆にそなたら、久方ぶりで身体が鈍っているのではないか?」
「ほお、言ったな。笛のお前こそ、音が小さいぞ!」
「黙りゃ男ども。集中して奏でぬか」
「黙ったら歌えんではないか!」

 やいのやいのと言いながら、一曲弾き終わる頃にはミィラスの喉は不思議と声を取り戻していた。

「感謝申し上げます、先輩方。ミィラスと申します」

 ミィラスは彼らに心からの礼を言い、頭を下げた。〝聖典の詩〟の合奏が、実はこれほど楽しいものだとは知らなかった。かようにおおらかで、和やかな気持ちになったのは初めてだ。

「ほほほ、後世の後輩に出会うとはなぁ、妾たちもついぞ思わぬゆえ、はしゃいでしまったのじゃ」

 女は涼しげな目元をにっこりと細めた。

「して、新しい亡者が冥府に来ることは長らく途絶えておったはずじゃ。今は彼岸へ渡って行くように、理がなったと思うたがのう。まあ、ここわずかな数日で再び亡者どもが増えた気がするが……妙なことに」
「いや待て。彼はどうやら生者のままここに来たようだが」
「ほう? それもまた奇っ怪な」

 彼らはじろじろと三方向からミィラスを眺め回した。するとあることに気づいたようで、揃いも揃って笑い始める。一人は大口を開けて、一人は皮肉を込めて、一人は愉快そうに。

「あーっはっは! リィンめ、あいつちゃっかりしすぎだぞ!」
「食えない奴だ、まったく。先に一抜けするとは」
「ほほほ……しかしまあ、あやつよりこの若者のほうが妾は好きじゃがのぅ。ホレこの顔を見よ、なかなか愛いではないか」

 彼らがひとしきり笑って落ち着くまで、ミィラスは待たねばならなかった。
 三人の腹筋が震えを収めてから、ミィラスは「あの……」と口を開く。

「リィンというのは、私が思い浮かべている人物のことでしょうか。〝リィンの竪琴〟の……あと此岸の川辺で……」

 どう説明したものかと考えあぐねている青年に、彼らは「うんうん」と物知り顔で頷く。
 女は言った。

「あやつと会ったのであろう? そなたの中に、かの名リィン《生命》の加護が込められておる。そのおかげで命が繋がっておるのであろうな。まあここでは、どうせそう長くはもたぬ。曲がりなりにも死を司る神の領域じゃ」
「リィンはどうだった? 元気にしていたか?」

 死者に対して元気とはこれいかに──
 ミィラスは此岸の川辺で彼と出会ったときのことを話して聞かせた。

「ふむ、一足先にドリード神の御許へ参ったか」
「であれば、我らの役目もじきに終わるだろう」

 んじゃ、とあっさり踵を返して立ち去ろうとした彼らを、ミィラスは慌てて引き留めた。

「お待ちください、先輩方。今、現世にこの冥府が溢れ出ているのです。それを止めるために私はここへ参りました」

 ミィラスは彼らをまっすぐに見つめた。

「どうか、力を貸してください」
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