西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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十章 神々の系譜

46話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年



 ミィラスが玉座に近づくと、そこへ辿り着くには目の前に横たわる溝を越えて行かねばならないことに気がついた。溝は地平の奥から反対側の地平の先へと蛇行しながら続いていて、橋や切れ目もない。よく見ると底の地形が波打っていた。

「これは……干上がった川の跡?」

 彼の呟きを耳に拾ったのか、玉座にいるザーヴ神がぴくりと身じろぎする。

『我が愛しの番いであり妻。もういない。奪われた』

 冥府の神は、乾ききったアシェラを抱いて、虚ろな声を発した。

『だが、我が妻がいたという証。それを一歩でも踏んだならばお前を八つ裂きにしてくれる』

 ミィラスは立ち止まり、川岸にあたる場所に膝をついた。ここを越えねばあの場所には行けない。だが声なら届く。

「ザーヴ神」

 呼びかけたが、玉座の主は応じない。
 ミィラスは、声を掛けはしても、語るべき言葉を持たなかった。この神は永劫のような時間を、滅んだ神々の残骸とともに過ごしてきたのだ。この自分がどの口で、いったい何が言えるというのか。

 言葉でないなら、何ができる?

 為す術なく空を見上げた。暗黒の虚空が果てしなく空だ。
 しかし突如として、漆黒の中に不似合いな金色の流星が生じた。

「あれは?」

 素晴らしい速度で、ぐんぐん近づいてくる。
 ミィラスは自分に向かってまっすぐ飛び込んできた流星を受け止めた。

「!」

 手の中を見ると、またしても黄金の二枚貝だ。リィンはいったい何個作ったのか。
 しかし、これは今まで目にしたどれとも違う。
 その秘された内側に、とてつもない力が隠されている。固い殻をもってしても溢れ出るほどの。

 しかし開くのは今ではないと、直感が告げていた。
 上を見上げたときにミィラスは、黒い空の一点に、ぽつんと生えた緑色の葉を見つけていた。
 あの葉には見覚えがある。
 ミィラスはそっと《豊饒》を唱える。その〝力ある言葉〟が小さな葉に触れると、緑色の色艶が増して勢いよく繁り、枝葉を伸ばし始めた。
 ぐんぐんと伸びると、やがてミィラスのもとに一本の長い蔓が届く。
 蔓からは瑞々しく、すんと爽やかな匂いがしていた。ミィラスはそれを手に取って、細かい産毛に覆われた表皮や、はち切れそうなほどの水分を含んだ茎、滋養を作り出す葉の感触を楽しんだ。

 ミィラスは蔓の先にある葉を一枚、ちぎり取る。
 たちまちのうちに、その緑色の裂傷から水がほとばしり、溝の中に流れ込んだ。
 奔流だった。透き通った水が、植物の茎を通って冥府に滴ってくる。
 ミィラスはそれが、此岸の川辺に芽吹いた植物の一部であると知っていた。他ならぬ彼が、芽吹かせた植物だからだ。
 そしてその植物が根から吸い上げた水こそ、此岸と彼岸を隔てる川の水である──もとはここ冥府に流れていたものがドリード神の世界に統合されたのだと洞察した。

 ザーヴ神は玉座から立ち上がっていた。翼を広げて飛翔すると、自らミィラスの側へ降り立った。
 ミィラスは水が溢れ出る茎を、ザーヴ神に差し出す。
 冥府の神は茎を食むと、喉の中に清らかな水を流し込んだ。

『嗚呼』

 神は潰れた目を見開いた。

『我が妻』

 ザーヴの身体から、アシェラがずるりと滑り落ちた。ミィラスが受け止めると、抜け殻のように軽い。
 アシェラはもはや何も感じなくなったようで、ぼんやりとミィラスを見上げていた。生ける屍。いや、生きてすらいないかもしれない。
 ミィラスはザーヴ神を見上げた。

「どうか、お頼み申します」

 ザーヴ神は彼の嘆願に一言『許す』と言った。
 ミィラスは蔓の葉をまた一枚ちぎる。豊かな水を含んだそれを、アシェラの口元へ運んだ。
 だが、彼女は全くの無反応で、水に触れても嚥下することはなかった。

「アシェラ、生きなければならない、もう一度」

 ミィラスは滴り落ちる水を自らの口に含んだ後、アシェラの唇に自身のそれを合わせ、干涸らびた身体の中へ注ぎ入れた。
 闇に浸かって渇ききった少女は、己にもたらされた慈雨の味を甘美に受け入れた。何もかもが空っぽだったアシェラの心を、唯一埋めていたザーヴ神から解き放たれ、あとに残された空洞に染み込んでいく清らかで心地よい愛。
 アシェラが瞬きし、今度は意思を持ってミィラスを見つめ返した。

「アシェラ」

 彼は語りかける。

「返してくれるね?」

 アシェラはゆっくり頷くと、自らの細い指を喉に差し込んで、奥に隠し持っていた星の光を取り出した。
 その光は再会を喜ぶかのように瞬いたかと思うと、すぅっとミィラスの中に吸い込まれていく。
 幾千、幾万もの〝力ある言葉〟が、流星群のように彼の中に降り注いだ。彼の肉体の周囲には火花が散り、目の前がくらくらとした。

『芽吹かせる者よ』

 ザーヴ神が口を開いた。その醜悪だった姿は、妻である川の水に触れたことで、艶やかな羽を持つ美しい鴉に変わっていた。

『この冥府を救えるか?』

 その問いに、ミィラスは手の中のずっしりと重たい二枚貝に目を落とす。
 彼は顔を上げた。

「はい」

『その貝を開けば、二度と戻れぬかもしれぬぞ』

「はい。私はドリード神のしもべであり、また自らに従います」

 ザーヴ神はくくっと笑う。
 ミィラスはもう一つ、ザーヴ神の分身が閉じ込められた二枚貝を取り出して、蓋を開いた。黒真珠となった分身は、流れ落ちた水が溜まっている溝の中に落ちていき、底のほうで心地よさげに転がる。その様子を見下ろしながら、冥府の主は言った。

『我が妻は川そのものであり、化身は渡し守だ。黒く愛らしい水鳥の姿をしている』

 ミィラスは彼を見上げ、頷いた。

「はい。私の先輩を、見事に向こう側へ送っていくのをこの目で見ました。あれがきっとそうだと思います」

『そうか』

 ミィラスは天から伸びる蔓を更に呼び寄せ、沢山の水を引き込んだ。冥府の川は往時のようにひたひたと波打って、岸辺に飛沫を散らす。
 ぱしゃっと水音が鳴った。
 波紋の中央を見ると、豊かな水の中から何かが顔を出している。
 まるで小魚を追いかけていた鵜が上がってきたかのように見えた。一羽の黒い鳥。そのつぶらな瞳がミィラスとザーヴ神を見つめた。

『この我にも迎えが来た! 冥府を閉じ、我は先へ行く』

 嬉しそうに叫ぶと、ザーヴ神は飛び立った。黒い水鳥もまた飛び立ち、彼を先導して飛んだ。二羽はミィラスが呼んだ蔓を道しるべにして、空の彼方へ消えていった。
 残されたミィラスは二柱の神を見送ると、手元の二枚貝を開く。

 儀礼に用いる荘厳な香の香りと、まばゆい光が溢れ出た。
 儀礼神ドリード。
 原初の姿で、その存在はミィラスの前に降り立った。
 もはや神とは言えない、あのザーヴ神の分身と似たものだ。しかし決定的に異なっているのは、ここに降臨したのは本来の神から切り離された根源であって、本質であることだった。

 儀礼の神。主となる神の傍らに佇む神。
 であるならば、その神によって側に立たれた者はどうなるか?

 ミィラスの身体はすうっと軽くなり、生きている人間としての実感が急速に失われていった。

 だが同時にどこまでも生に溢れ、生そのものだった。

 土の香り、種子の芽吹き、花の蜜、ついばまれる実、生まれ出る卵、食われる獣の子、飛び交う羽虫、土に還る骨、そこから再び芽吹く瑞々しい葉が、根を張り、枝を伸ばす。

 それは生きる全てに分け与え、自らも与えられる円環であった。

 底を欠いた器は、尽きることのない満たされた環の形となった。

 ミィラスの意識は一個の人間としての形を失い、その姿は緑の大地に変わっていく。赤い砂は彼によって根に覆われ、命の苗床となる。その中で蠢いていた亡霊たちや、旧き神の残滓となった存在は、にわかに生命力に溢れた植物にすくい上げられた。

 ドリード神は、彼を一柱の神に変えてしまった。
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