鮮明な月

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第十五章 FlashBack

165.

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濃いサングラスをかけた盲目の外崎宏太が白木の杖をつきながら道場に姿を見せた時、中に居た者達に奇妙な緊張が走った。そんなことはこの外崎宏太には目が見えなくても、この場所の空気の変化だけで分かる。何しろここにいる古株の師範代の何人かは過去に鳥飼道場で宏太や鳥飼澪と鍛練を重ねていて、鳥飼千羽哉の死を境に道場が閉じられ同じ流派の系統にある真見塚道場か宮内道場に移った人間なのだ。過去の外崎宏太が道場にいた頃の凛々しい容貌を知っている者は、彼の痛ましい程の変容に驚きと哀れみの視線を向ける。そして後の残りは今まで完全に失われたと思われていた抜刀術の使い手がまだこうして生きていて、しかもこの目で見れると思って集まってきたら、盲目の足の不自由な男がやって来て落胆したというところだ。だが、そのあからさまな落胆の気配を一瞬で塗り替えて張り詰めさせたのは盲目の筈の宏太が、当然のようにグルリと辺りを見渡すように顔を動かし何処にどう人が居るかを認識しているような動きをしたからだ。

盲目なのにただ者ではない。

一瞬でそれを示したのは、見えない筈なのに人混みの中にいる榊恭平に顔を向け宏太が名前で声をかけたからだ。ここに来ていることは知っていたとしても、何も声をあげなかったし近寄ろうともしていない恭平の居場所までは分かる筈がないし、当の恭平ですら驚いた顔をしたのだ。当人にはあとは誰が居るかは分かっていない筈だが、道場にユックリ足を踏み入れた身に付いた研ぎ澄まされた礼儀作法に則って座して頭を下げた。

「外崎さん、これ。」

歩み寄った鳥飼信哉に手渡された抜刀術用の模造刀を確かめるように握ると、静かな声で宏太は半径五メートルと指示するように呟く。それはこれから自分を中心に五メートル以内には誰も入るなと言う意味で、辺りの人が指示に従って動くのが分かった。宏太がどれだけ長身で手足が長いとはいえ、流石に刀を持った腕を伸ばしても半径は三メートル程。それでも五メートルまでは、下手をすると抜刀の先が届く可能性があると言うのだ。

「…………では、お願いします。」

やがて僅かに人波が少し引いて真見塚成孝にかけられた声に、自分の周囲にポッカリと空間があるのが言われずとも肌で分かる。

久しぶりだな………………

手の中の模造刀の柄の設えを確めると、記憶と重なって思わず宏太はそう心の中で呟く。模造刀とは言え重みは確りと手の中にあって柄や鍔の感触を指で探ってから、一度ユックリと抜き出した刀身は丁寧に手入れがされて滑るように抜き出された。

ちゃんと手入れしてある…………信哉がマメに手入れしてるんだな、澪。

澪が抜刀術のために設えた模造刀。抜刀術用の太刀は個人的に設えるしかなくて、自分の物は恐らく何処かにしまいこまれたまま油も注して貰えずに錆び付いている筈だ。これは自分よりも数ヵ月先に澪が設えたもので、白と銀糸の柄、そして白銀の鍔と鞘に刀身の波紋は直刃、澪のように美しい佇まいの太刀の記憶が蘇る。

借りるぞ?澪。

あんたのは?と冷ややかな澪の声が聞こえる気がしながら、ユッタリとした動きでヒュと剣を振るいシャンと音をたてて鞘に納める動きには躊躇いもなく、目が見えないとは思えないしなやかさだ。そうして剣自体を確め終えた宏太は、鞘に納めた剣を一端傍らに置くと深々と息をついてから上座に頭を下げた。

「………………お願いします。」

息の詰まるような空気の中で、道場の真ん中に独り座す。そうして始まったのは、もう何十年も全く道場に足を向けるどころか鍛練をしたことはないというのが嘘だと感じるほど、正に見事な演舞というのが相応しい完璧な美しい抜刀術だった。
指南された抜刀の技術を身に付け、完璧に我が物にした手足や刀身の捌きのしなやかさ。
盲目であることも歩行に障害があることも完全に忘れ誰もが息を飲む程の腕前で、しかも宏太の抜刀は刀身を人の目で追うことがほぼ出来ない。視界には刀の描く光の筋だけが一瞬視界に残るだけの凄まじい速度で、何度もシュンッと模造刀が空間を一直線に切り裂く鋭い音だけが道場に響く。
よくある居合道は壱の太刀で抜刀し弐の太刀で敵に手傷を負わせる動きをするため、大概は弐の太刀で型は終わる。時には抜刀した後に竹や藁の居合台に当てるものは参の太刀に近いが、鳥飼流の抜刀術はここからがまるで異なるのだ。他にはない筈の参の太刀になってからは同時に滑るように片膝をたて、その長い腕の撓りは鞭のように優美な光の筋を描きあげる。

凄い…………

先日偶々だが宏太の体を見ることがあって彼の体の障害を十分に知ってるだけに、これが宏太の全盛期でないということに気がついて恭平は息をのんで見つめる。これで怪我をしていなければ刀でなく棒切れ一本持たせただけで、昔の宏太はほぼ無敵だったのではないだろうか。
鳥飼の抜刀術は余りの速度で身に付けると銃弾を正中で真っ二つに分断し鉄砲玉も当たらないと戦時中にいわれたと、道場に通っていた頃に宮内慶恭から冗談めかして教えられもしていた。恭平ですらそれは冗談と聞き流していたが、この抜刀術にはこの異常な速度のまま太刀筋の型が伍の太刀まであるのだ。ただダラダラと振り回すのではなく、太刀毎に握り手や降りにも違いがある。しかし、それすらまともには目で見抜くのが難しい程の速度。

弐の太刀で集中を途切らせることなく、伍の太刀迄……

模造刀とはいえ刀としても設えは、日本刀と変わらない。刀にはそれなりの重さがあって、それを目にも見えない速度で抜刀し軌道を描きはじめてから伍の太刀までを終えて再び鞘に納めるまでの胆力。抜刀された後の剣の軌道が星を描く様だと称される鳥飼の抜刀術は、とてつもない集中力と技術が必要で難易度が高すぎた。何しろ宮内慶恭も真見塚成孝も指南は受けたが、参の太刀か肆の太刀迄が限界で免許皆伝に至らなかったのだ。
空気が震えるような気配の中で、シャンと鈴の音をたてて最後に剣が鞘に納められチンッと涼やかな音色をたてる。
抜刀術の合間には宏太の呼吸音すら雑音と言いたげに周りの息をのんで見つめる人間と同じく息すらしていないように見え、深い溜め息のように終わったと言いたげに吐息をついて宏太は深々と頭を下げた。



※※※



その後実際に鳥飼信哉も抜刀術をして見せたのだが、僅かに足捌きに癖がついていると宏太に指摘されて鍛練が始まったのを横目に恭平はその場を辞して帰途についていた。
並みいる師範代達は盲目で片足に障害がある宏太の余りの見事な抜刀術に息をのんだ上に、足捌きの音を聞き分けるその耳にも驚かされている。抜刀術には視力は必要ないと思うかもしれないが、実際には手元が見えなければ鞘から抜くことも鞘に納めることも大怪我をしかねない。模造刀ですら殺傷力があるとされ、キチンと刃先をどの角度で振るかどう軌道を描くかを視覚でも確認しながら行うものなのだ。足捌きを気にしたせいで伍の太刀で刃先がぶれたと指摘された信哉は、足捌きの音どころか太刀筋の音まで聞き取っている宏太に敵わないなぁと素直に集中がそれたのを認めた。お陰で師範代達の驚愕は更に広がって宏太は大騒ぎの中だ。難易度の高い抜刀術をあそこまで完璧に出来ると言うことは、宏太が骨身に染み付くほどに鍛練をしてきたと言うこと。

凄いな…………

子供の頃からあれほど合気道が好きだったのに、恭平は母親のことで簡単に切り捨てて辞めてしまった。そんな自分のことを思うと、正直情けないとすら思う。
幼い頃に聞いた外崎宏太が、合気道を辞めたのは確か高校になったばかりのはず。中学で辞めた恭平と殆ど変わらない年代に辞めているのに、三十年も経っても宏太はあれほどまでに見事に抜刀術を使える。と言うことは何らかの形で、密かに鍛練を続けていたに違いない。それに同じように鳥飼信哉だって表立っては合気道は辞めたと言っても密かにずっと鍛練を重ね続けていて、ここに来て新たな道として鳥飼道場を再興して立ち上げるつもりなのだと言うのだ。そのために信哉自身が古武術全てをキチンと正しく身に付けているかどうかを、こうして伝を頼り確認しているのだという。

俺は…………何も出来ないし、何もしようとしていない…………。

そう考えながら恭平は溜め息混じりに空を見上げて、目を射すような陽射しに眩しげに目を細める。少しずつ変わっていく周囲と、変われないでいる自分を比べるのは良くない事だと最近では思えるようになっては来た。他人とどんなに比べても結局自分は自分だし、そういう自分だって少しずつではあるが前に進んでもいる。それでもこうして考えると、自分は本当は何をしたかったのだろうと考えもしてしまう。何か他にも出来たことが・出来ることが、自分にも何かあるのではないかと考えてしまうのだ。

仁聖だって自分なりに、なりたいものややりたいことに向かっているのに…………

エッセイを書いてみて一番に感じたのは、榊恭平という人間の視野の狭さだった。閉じた世界で狭い視野で物事を見て暮らして、それが当然だと考えながら生きていたから、世界の広さも鮮やかさも知らないまま。仁聖が恭平を引っ張り出してくれなかったらあのまま貝のように閉じ籠ったままに、独りで過ごしたに違いない。

…………不思議だ…………

それを仁聖が恭平に気がつかせてくれたら一気に二人の周囲は大きく変化して、連鎖しているように世界が広がりつつある。このまま仁聖と暮らしていく日々の先には、また何か新しいことがあるのかもしれない何てことを考えもするのだ。

「すみません、榊、さんですよね?」

思考を断ち切るようにかけられた声に、恭平は何気なく振り返りその声をかけた相手の顔を真っ直ぐに見つめる。そこにいたのは恭平には全く見覚えのない人間で、相手は穏やかに見える笑顔を浮かべていた。



※※※



「おっそいなぁ…………。」

リビングのテーブルで頬杖をつきながら呟いた仁聖は、時計に訝しげに首を傾げていた。外崎宏太が映画俳優ばりに抜刀術なんて妙なものが出来ると鳥飼信哉から聞いた恭平は、興味があったのかソワソワしっぱなしで観に行くなんていって珍しく出掛けたのだ。子供の頃から好きだった合気道や古武術を辞めてしまった理由は仁聖も知っているが、今でも本当はヤッパリ好きで興味があるようで恭平が密かに関連の書籍を集めたりしているのは分かっている。

でも恭平は頑固なとこあるからなぁ、もう一回やったらって言ってもやらないだろうなぁ……。

そんなに好きならもう一度とは簡単にはならないのが榊恭平らしくて、恐らくどんなに好きで見ていてもこの間のような理由がなければ道着に袖を通すどころか道場にだって足を向けないはず。それを曲げても見たかった抜刀術とやらなら、仁聖も一緒に行って見てみたら良かったかなと思ってしまう。でも、前回の恭平の道着姿がとっても色っぽくて破壊力抜群すぎて盛ってしまったので、正直同じ場所に行って思い出さないとは言えない。因みに盛って汚してしまった道着をそのまま返すのは気が引けて、あの後地味に新品の道着を買って信哉に返却したのだが。

お前………………まあいい…………

新品の道着を手にした信哉が言葉をそこで止めてもらえ説教にならなかったのには少なからず安堵した恭平だったが、信哉からもう一度合気道はやらないのかと問われてやることは考えてませんとその場で即答したのだ。それを覆す程の材料は鳥飼信哉にも仁聖にもないから、その話は少なくともその場では終わりだった。
それにしても一度するのを見てくるだけだからそんなに遅くならないと言って昼過ぎくらいに恭平は出ていったのに、既に夜の八時過ぎ。夕飯も出来上がっている上に冷めてしまい始めている。久々の顔合わせで盛り上がってそのまま飲みに行ったりなんてことはあったとしても連絡もなくなんてことは絶対恭平はしないし、もし何かあったのならあったで恭平は連絡してくれる筈だ。

「おっかしいなぁ…………。」

何回か電話をしてもLINEをしても音沙汰がないまま、眺めていてもLINEなんか既読にすらならない。心配でもあるし今までこんなことなかったから、仁聖は戸惑いながらスマホを頬杖のまま覗きこむ。鳥飼信哉とか宏太に連絡をとるという方法も無いわけではなし、それでも恭平がそんなことをする方が珍しく何だか気になる。

迎えに行った方がいいのかなぁ?

出歩いて途中ですれ違ってしまう可能性もなくはないが、こうして全く連絡がとれないままなのには流石に痺れがきれそうで仁聖は徐に立ち上がっていた。
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