鮮明な月

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間章 ちょっと合間の話3

間話66.秘密の空間

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「もし、さ?」

学食の片隅で躊躇い勝ちに佐久間翔悟が、源川仁聖に向けて口を開く。
建築学部の平岡正顕教授は失踪当時に片足を骨折していて、ギプスを嵌めて松葉杖をついていた。その状態でキャンパスから公共の移動手段を使わず、自家用車にも乗らず失踪したとされている。そしてその失踪当日に仁聖と翔悟は、平岡教授が建築学部のある校舎の第三講義室で演壇の下に今まで誰も気がつかなかった空間があるのではないかという会話を交わしていた。平岡教授があの時手にしていた設計図通りだとすれば、縦横約1メートル半から2メートル程の空間が演壇の下の床を下げる形で存在していることになる筈だ。

「でもそうするとさ?出入り口は見当たらない訳だよ、…………あそこ。」

佐久間翔梧のいう彼処はいうまでもないが、第三講義室の演壇の下で杉板の下が空間になっているような音の響きがしたことはない。もしこれで本当に空間があるとしたら、かなり確りとした骨組みを組まれて作り上げられているに違いない。そんな場所に何故そんなものを作って隠しておくのか、そこに何を隠すためのものなのか。そう翔悟は以前仁聖に話していて、その執念というものに不気味さを感じるとまで呟いて余り関わりたくないと話していた。だけどそれが教授の行方不明事件と絡まってくるとなると話しは変わってくる。

「もっと早く行方不明の話が分かってたらな……。」

何しろ平岡教授の行方不明は直ぐに発覚したわけではなく、既に1ヶ月が経とうとしている。もし本当に演壇の下の空間に落ちて、頭を打って倒れていたとか言う話だったとしたら。骨折していた平岡教授が何らかの手段で出入り口を見つけて偶々落ちてしまったとしたら……ここは人の出入りで言えば日に百人単位の人間が出入りするのだから、声を上げれば直ぐ見つかりそうな気がすると源川仁聖は思う。それが出来ないとすれば落下の衝撃で…………という可能性も捨てきれなくはない。申し訳ないがそうだったとすれば、開けてみたら遺体発見という事態にもなり得る。ただここまで1ヶ月あったが冬場の暖房器具の下でも未だに異臭もないから、開けても何もないという可能性も高い。幾らなんでも気密性が高い空間を作り上げているかどうかは、開けてみないと分からないという一面もあるのは事実だ。

「それで叡センセに相談してみる気だったんだけど…………。」

秘密基地マニアの文学部教授・勅使河原叡に相談して演壇の下の空間を開いてみようとしたのだが、タイミング悪く勅使河原は休暇をとっていて目下連絡がとれないのだと助手の躑躅森雪にいわれてしまったのだ。

「どうする?二人で調べてみる?」
「…………一応大学の設備だしなぁ…………。」

演壇の下に空間がある筈で外してみて何もなく、設備を壊してしまいましたでは通らないだろうしと翔悟が迷う様子でランチセットの五目焼きそばを頬張る。意図して作られた空間なら確実に出入り口が存在する筈だが、誰にでも分かるのならとっくに見つかっていてもおかしくない。しかもそこに空間があるということ事態が、何度もいうが誤っている可能性だってないわけではないのだ。

「んんん…………。」

構内に入ってもおかしくなくて、しかも少し無理をしても問題がなくて…………



※※※



「で、それが俺だってのか?」

周囲の好奇の視線の中で一体どういう風に俺を見ているんだと秀麗な顔立ちを潜めているのは、言うまでもなく文学部卒業の経歴を持つ鳥飼信哉だったりする。昨今連絡を取り合う必要の増えた榊恭平がいるおかげという訳ではないが、仁聖も漏れ無く信哉と連絡がとれるようになっていたりする。しかも交流してみると信哉は外崎宏太に似ていると仁聖は思うのだが、ハイスペックなわりに気さくだし案外こんな危なっかしい事にも抵抗がない。これで同じような職業と技能がある榊恭平に頼もうなんて事になったら、確実に正座で説教されて話しは終了させられそうな気がする。

一応文句は言うけど、ちゃんとこうやって来てくれるしなぁ…………

そうなのだ、大学構内に勅使河原叡に呼ばれて時々出没することが今もあって自営業なので時間も融通が効くし、ちょっとどころではない危険なことをしても多分絶対に問題がなくて、しかも少し無茶なことをしても何とかなりそうな人物。

「何なんだ、その何とかなるって…………お前なぁ……。」
「いや、なんか昔の武勇伝とか聞いてるとさぁ……、それに警察にも知り合い居るだろ?信哉さん。」
「知り合いって、…………管轄外の奴に期待するなよ。それに失踪だろ?」
「モモの失踪の時、助けてくれたじゃん。」

モモは言うまでもない宇野智雪の彼女・宮井麻希子で、ちょうど1年ほど前に行方不明になったことがある。当時その失踪事件を解決したのは目の前の信哉や土志田悌順を含む数人で、その後の個人的な交流からも信哉がマトモじゃない身体能力の持ち主なのは十分分かった。

「あれは別だろ。雪が居るんだぞ?」
「雪ちゃんさんは、信哉さんのお友達。外崎さんも久保田さんもお友達だろ?」
「それと大学構内は別だ。」

まぁ大学の設備を破損したとなったらそれだけではすまなそうだけれど、その時には大きな荷物を落としたとか何とか上手く誤魔化そうと仁聖と翔悟は考えている。それにもし御遺体発見なら信哉だったら友人の風間祥太にも顔が利くし、何でか他にも顔が利きそうな気がしなくもない。

「偏見。俺は一般人だぞ?」
「まーまー。」

それでも仁聖と翔悟が事の次第を説明すると、何だまだあの『魔の講義室』は改装してなかったのかと信哉が呆れたように言う。文学部の信哉は建築学部には縁がない筈なのだが、どうやら昔から建築学部棟の第三講義室を使わない学部でも有名な話だったらしい。

「よく爺さん連中が足を折るからな、あそこは。」

爺さんというのは恐らくは歴代の講義を行ってきた教授連のことなのはいうまでもないが、その話に翔悟は何か引っ掛かりを感じたように考え込む。聞き直せば大概の転倒で足首や脛を骨折していたようだと信哉も記憶しているのに、翔悟は更にブツブツと呟きながら思案している。

「滑り落ちて、足が折れる…………。」

踏み板が短いのだから仕方ないんじゃないかと仁聖が問いかけると、幅が短くて転げ落ちるなら前に向かって落ちて顔や手首の怪我がいてもおかしくないと思うと翔悟は言うのだ。そう言われれば踏み板は上下の段の幅は異なるそうだが、一枚の左右では踏み幅は均等になっている。それなのに全員が滑り落ちるように踏み外して、足の骨を折っているのだ。

「つまり同じ状況になる理由がそこにあるんだろ?」

流石文筆業。仁聖と翔悟の話を聞いているだけで、概要を理解して上手く纏めてくれたらしい。つまりあの階段に同じ状況を産み出す条件が揃っているということなのだろうし、あの教室で転倒するのは必ず同じ側の階段なのだ。

「何でそんな設計したのかねぇ、昔のお偉いさんは。」

秘密基地マニアの同好の志とはいえ仁聖も翔悟も第三講義室の件に関しては、信哉と同じ疑問はある。何でまたワザワザ人が大勢使うような場所で、そんな危険性の高い設計をしたのか出来ることなら設計者に直に聞いてみたい。もしかしたら設計当時はこんなに被害者が出る前に見つかる予定だったかもしれないし、見つかっていて当然だと思っていたかもしれない。何よりここまで様々な想定をしていても、実は空間は存在しないなんて可能性だってある。

「一先ず、その踏み板っての見てみるのが一番だな。」

本当なら平岡教授の保管している設計図を見ながら現場を確認したいところだが、何分行方不明の平岡教授の教授室に入るには仁聖達にはまだ伝がない。勅使河原が居ればまた違ったかもしれないが、こうなってくるとサラッと眺めた記憶だけが便り。

「な訳ないだろ、設計図なら写真とってる。」
「は?」

記憶に無いの?と翔悟は当然みたいにスマホを取り出して、スイスイと画像を表示してくるのに仁聖はそういえばあの時翔悟は片手にスマホを持ってたようなと唖然としてしまう。それであんなに見えない空間の大きさがハッキリ言えたのかと呆れ返る仁聖に、翔悟はあんな緻密な設計図なら建築学部なら当然画像にでも残しとくだろと笑う有り様だった。



※※※



ふと気にかかるような視線で窓辺を眺めた榊恭平に、正面にいた菊池直人が不思議そうにどうかしましたか?と声をかける。『茶樹』の片隅で仕事の打ち合わせをしていた恭平と編集者の菊池なのだが、真冬の窓の外は何処か何時もより陽射しも弱く薄暗いような気がした。

「いや、降るのかなって…………。」

もしかしたら雪が降るのか窓辺の空気がジワリと温度を下げているのに気がついて、恭平は苦笑いしながら呟くと窓の外を眺める。路地を曲がった奥にある『茶樹』は窓の外だけは、余り良い景色が見えるわけではない。手前には植え込みで綺麗に整えられているのだが、細い路地の向こうは向かいのビルの壁なのだ。だからほんの少し日が陰るとなおのこと暗く見えてしまうのかもしれないと、同級生の旧姓瀬戸・遥の夫でもある菊池が微笑みながらいう。

「そう言えば瀬戸…………奥さん…………とお子さん達お元気ですか?」
「もう大変ですよ、奏多が反抗期でねー。」

昨年に第二子の娘が産まれた菊池家は、目下お兄ちゃんになった菊池奏多君のお父さんへの反抗期が始まり直人は家庭カースト最下位ですよと苦笑いしている。生後8ヶ月になろうという第二子・薫風ちゃんを巡って、何故か奏多と槙山忠志がライバル争いをしているのだと直人は笑う。

「まぁ好かれてるのは良いんですけどね。そう言えば信哉さんのところの双子ちゃんも産まれましたもんね。」

可愛いですよねと和やかに話していると、窓の外にヒラリと花弁のような白いものが舞い始めている。やっぱり降りだしましたねと恭平が呟くと、暫し二人は言葉もなくその音もなく降り落ちるモノを見つめていた。



※※※



人気の無い第三講義室の演壇の脇、その階段を取り合わせの奇妙な三人で揃って眺めながら暫し考え込む。設計図には階段の周囲に註釈は無いというが、ここが良くある骨折の元凶になる理由がある筈だ。

こうして来てみても、見た目では何もない。

それでも一段ずつ手をかけて荷重をかけていた信哉が、この段だけ違和感があると言い出したのに翔悟と仁聖は目を丸くするしかなかった。ほんの僅かだけど板が動いている気がすると言われた上から三段目の段を丹念に調べてみるが、普通に真ん中を押しても何も変化がない。それなのに10センチ程中心から演壇側にズレた場所に手をかけ押し込んだ途端、カコンと音を経てて板が傾いでしまったのだ。

「…………何でこれで気がつかないんだ……?」

それはきっと手を離すと一瞬で元に戻る上に、他の点を押しても板はビクともしないからだ。押してその板が動くのは本当にたった2センチ四方の区域だけで、つまり偶々そこに重みがないと何も変化しない。それはただの階段の踏み板なのだ。それでも何度も歩いて降りている講師が偶々そこを踏み、板が傾斜したのに慌ててもう一方の足を踏み出す。すると講師がバランスを崩して階下に落ちた時には踏み板の荷重が変わっているので、踏み板は元通りになってしまうわけだ。しかも演壇の階段の反対側は講義を受けている学生の正面についているが、こちらは横についているから落ちた姿を見ていても踏み板の変化は学生には見えない。

「…………怪我させたいのか?これ。」

信哉が呆れたように言うのも当然で、これじゃ確かに『罠』だと言われてもおかしくない。それでも更に同じところだけに荷重をかけていくと、その階段の合間は更に大きく開口部を開き始めていた。一ヶ所の荷重だけでまるで組み細工のように階段が動き、スムーズに大きく開くなんて正直呆気にとられてしまう。

「…………何なの……凄くない?なんでこんなの作ってんの?」

少し湿った建築材の持つ匂いが奥から溢れ出すのに翔悟が戸惑うように呟くが、学校の校舎に仕込むには随分と大掛かり過ぎると仁聖も思う。完全に開けば一端は閉じなくなるようで、手を離しても真っ暗な空虚な穴は開ききったままポッカリと音もなくそこにある。

「は…………いる?」

何故か凄く戸惑いを感じるのは、奥から何処と無く湿った土のような臭いがするからかもしれない。古く留まり続けた湿った空気が、暗闇の奥に進むのを拒絶させるものがあるのだ。

「……入らなくていい。それほど奥は深くない。」

横から覗き込むようにして呟く信哉の瞳が何処かからの光を反射して、まるで猫科の動物のように光って見えるのにまで何故か震えを帯びるような恐怖を感じて仁聖は眉を潜める。それに気がついていないのか信哉は入り口の縁に手をかけ、奥を覗き込みながら奥行きは2メートル位先までしかないんだなと呟く。

「2メートル…………良く見えますね……。」
「目は良いんでな。壁に何か書いてあるが、中には誰もいない。」

翔悟と仁聖にはほんの1メートル先も真っ暗な闇にしか見えないが、信哉には先の小部屋の壁がウッスラとは見えるのだという。空間は確かにあるけれど中には誰もいないと断言しているのは、床はちゃんと見えているかららしい。それでも一応は中の確認に入ろうと言わないのは、何となく信哉には中は危険な気がするから入るなと言うことのようだ。

「もし、底が抜けるとか何か起きたら困るしな。あるのは事実として受け止めるけどなぁ…………。」

それに誰かがここに最近入ったなら足跡がつきそうだと信哉に言われて、二人は初めて足元に堆積した埃の層に気がつく。1ヶ月で堆積出来るモノではない埃の絨毯に何故か安堵してしまっている自分に、仁聖も翔悟も気がついてしまっていた。

…………空間に平岡教授が入ってないと分かって安心したし、自分達がここには入りたくなかった…………
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