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地の崖の妖精の村
20.ロウ・フォード
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開いた扉の先は、やはり明け方に暗がりでマダムと話した家屋のあの簡素な室内ではなかった。
目の前に広がっているのは広大な薄い紅色に色づく大空と険しく剣のように切り立った岩山で、道は真っ直ぐ岩山の中に延びている。辺りを見回しても他に向かう道は見当たらず、周囲は乗り越えるにも難しい巨大な岩だらけだ。道はどう見ても、真っ直ぐ山に向かえといっているようにしか見えない。唖然としながらロウは眼鏡越しに険しく切り立つ岩山を見上げて、溜め息をつくとポケットに手を突っ込んだ。稀人が若い女だとしてどれくらい先に進んでいるかは知らないが、この山を乗り越えるとは大したものじゃないかと呟く。
「しかし、これを登れと言うことか。」
長々と見上げていても空を飛び上がれるわけでもないと、諦めの吐息を溢してロウは渋々と道を進み始める。次第に険しくなっていく道の先が唐突に途絶えたかと思うと、視線を上げると岩壁に鉄杭が打ち込まれている。そして岩の壁には、手で擦られ磨きこまれた鎖が一本垂れ下がっていた。試しに手で鎖を手繰ると軋む様子もなく、鎖はロウの体重でもビクともしない。渋々と岩壁に足を着けて鎖を手繰り、ロウは慎重に辺りを伺いながら壁を登り始める。やっとの事で岩壁を登りきると、そこには板を渡した細い小道が更に上に向けて道を形作っていた。
「まだ登る、か。」
溜め息混じりに呟くロウが目を細めると、唐突に横の岩壁がモコモコと動き出す。壁から沸き出したように見えるそれは道を塞ぎ、やがてそれが体を丸めた何かだと気がつく。それはロウの目の前で、膝を抱えていた不格好でボコボコとした腕を伸ばす。異形の出現に思わず一歩下がろうとして、ロウは背後には道がなく足元が崖なのを思いだした。小さく舌打ちをしながらロウは、一端は手を離した岩壁に下がる鎖を相手に見えないよう後ろ手に掴んだ。
岩壁から這い出した小山は、醜い疣だらけで灰色の肌をした小鬼としか言い様のない容姿をしていた。
『オマエ、探求者のナカマだろう?』
片言にも聞こえるダミ声で小鬼は、聞き取りにくい言葉を話す。腰に下げていた棍棒を振り回しながら、小鬼はギザギザに尖った鮫のような歯をむき出しジリジリと足を進めた。
「探求者とは何者だね?教えてくれたら何処ぞで出会ったか考えてみようじゃないか。」
ロウの足元が靴一個分しか残っていないのを知って、小鬼はニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべる。手にした棍棒で両側の岩壁をガツンガツンと殴りながら、にじりよるように前に進み出て小鬼は一端足を止めた。
『こたえ必要ナイ、オマエ、ここでオワリ。』
奇声をあげながら棍棒を振りかぶった小鬼が躍りかかってきた瞬間、ロウは思いっきり飛び上がった。目の前にいた筈のロウの姿が消えて、目測を誤った小鬼が前のめりにつんのめり手を振り回す。咄嗟にロウはその背中を踏み、力一杯蹴りつけた。片手で鎖にぶら下がったロウの足元で、小鬼が情けない悲鳴をあげながら手足をバタつかせ不様な姿で崖下に転げ落ちていく。それを鎖にぶら下がりながら暫く見下ろしたロウは、安堵の息をつきながら再び鎖を手繰り岩山の道に足を下ろした。
愚鈍な小鬼で助かったな。
ふと小鬼が立っていた場所に光るものを見つけて、ロウは歩みより屈みこむ。そこには金色に光る一本の針が落ちていて、拾い上げたロウは指で摘まむと空に翳す。思い出したようにポケットから金の懐中時計を取りだし、文字盤のネジを緩めると金の針を嵌め込む。針は元からそこにあったかのように、違和感なく嵌まりカチカチと秒針と共に動き始める。しかし、見下ろす懐中時計の針は、長針と秒針だけなのは変わりがない。シュミートが話していたもう一つの仕掛けとやらは、まだ手がかりもないのだ。
短針が揃わないと仕掛けとやらは分からんか?
手の中で懐中時計を眺め回していたロウは、開いた蓋の裏にウッスラと文字が刻まれているのに気がついた。月日が経ちすぎて薄れてしまった文字は、現実とは色の違う光の下で僅かに透けて見えたようだ。
《F》
文字を見下ろしロウは眼鏡を光らせて、目を細めるとその文字を指でなぞった。以前はもう少し長く文章か単語が彫りこまれてあったようだか、他の文字は磨りきれて読み取れそうにもない。
「ここでもFか。」
思わず苦い声で呟く。ロウに写真入りの不思議な仕掛けつきの手紙をよこした依頼主のF。ハッグに拐われた子供の一人ロニ・フリンもFだ。そしてシルキーもグウレイグもロウの物だと言った懐中時計に刻まれたF。シュミートが言っていたフリン一家の生き残りの祖母も恐らくフリンであればFだろう。もしかして手紙を出してきたのはフリンの祖母なのだろうか?
偶然なのだろうが、ロウもロウ・フォードでFであり、そして島の集落もヴィレッジ・フォートでFなのだ。偶然にしては随分とFだらけで、逆におかしいとすら感じるのは間違いだろうか?
溜め息混じりに先を見ると、いつの間に現れたのかヴァイゼ・ズーハーが板敷きの道に音もなく佇んでいた。
『見事なお手並みで、ゴブリンを退けましたね。ミスター。』
「勝手に向こうが落っこちただけだ、足場が悪い山のようだからな。どうせなら扉とやらの出口を山頂にしたらどうかね?ヴァイゼ。」
微かに仮面の奥がロウの皮肉に、笑みを浮かべた気配を滲ませる。海の底でも思ったが、無表情に見える仮面の割には案外ヴァイゼは感情の起伏が大きいようだ。黒檀の杖に置かれた白手袋の手が、キュと音をさせて杖を握り直す。その姿を眺めながら、ロウは先程のゴブリンとやらの言葉を思い浮かべる。
「ヴァイゼ、探求者とは何者だ?」
『はて、何の事か私には分かりかねます、ミスター。』
それが本当の言葉になのかどうかは、ロウの目では仮面の奥までは判別するのは難しい。兎も角分かりかねるとヴァイゼが答えたからには、これ以上の返答は望めないだろう。ロウは質問の矛先を稀人に変えることにする。
「稀人はどれくらい先に扉を潜ったんだ?ヴァイゼ。」
『どれくらいとは?』
ヴァイゼが不思議そうに問い返したのに、ロウが既に二晩前に壊れて止まったままの腕時計の硝子盤を指でコツコツと叩く。
「時間的にだ、どれくらい先に進んでる?」
二晩とも大人の男の足で、結局追い付けなかったのだ。相手は若い女だとして追い付けない理由の一番は、恐らく時間差だろうとロウは踏んでいる。例えば四時間も時間差があれば、この険しい山の中でも未だに追い付けないのも当然だと言えるのではないか。しかし、ヴァイゼは戸惑うように、首を傾げたままロウの手首の時計を不思議なものを見るように眺める。
『時間とは、一体全体なんの事でしょう?ミスター。』
ヴァイゼの様子にロウは目を丸くして、考え込みながら顎に手を当てた。どうやら、ヴァイゼは時間という概念自体を持っていないのだ。それでは、ロウが何をどう聞いても、稀人がどう進んでいるのか適切な答えは帰ってこない。ロウは諦めて質問を変えた。
「ハッグの娘は何故戻ってきた?」
これはさっきの会話で聞かれるのを予想していたのだろう、ヴァイゼは淀みなく答えた。
『申し上げました通り、ハッグは一度狙った者を諦めますまい。』
「では、何故ハッグは自分の娘を狙ったんだ?」
その言葉にヴァイゼは暫く黙りこむと、微かな困惑に近い気配で中折れ帽を指で押し上げた。この質問は予想していたのだろうが、ヴァイゼの中には答えが無いのかもしれないとロウは心の中で感じとる。ヴァイゼはやがて頭を微かに横に振りながら、溜め息をつくように呟く。
『ハッグの娘…だから、としか私にも答えられません。ミスター。』
コツリと黒檀の杖をつく音をさせて、ヴァイゼは細い道を通い慣れたように歩き始める。ロウはヴァイゼの後に従うように、手をポケットにいれ懐中時計を握りながら慎重に歩き出す。
ハッグの娘だから島に呼び寄せられ、ハッグに狙われている。狙われる理由がハッグの娘だからとは、なんとも奇妙な捻れだ。卵が先が鶏が先がのような捻れに、ハッグが娘を態々呼び寄せ狙う程の理由は今のロウには思いつかない。
魔女の思考は予測しようもないか。
呟き混じりにヴァイゼの背中を眺め、ヴァイゼが何をさせようとロウを導いているのか考える。最初に出会った時、ヴァイゼはロウにある人に頼まれたと言ったが、ロウを呼び寄せた依頼主を知っているのだろうか? ヴァイゼは稀人が先に進むのを止めるようにと、最初からロウに告げていた。と言うことはハッグの手先ではないか、ハッグの手先だとしても魔女には従いたくないということになる。
「お前さんは、稀人が進みすぎては危険だと言ってたな。稀人自身と後何が危険なんだ?ヴァイゼ。」
『稀人は知らずに奥に進んで、ゲデヒトニスの扉を開ける可能性があるのです。』
ゲデヒトニスの扉?と問い返したロウに、ヴァイゼは振り返りもせずに足を進める。コツコツと杖のつく規則正しい音をさせて、ヴァイゼは仮面の奥で微かに溜め息を溢す。
『ゲデヒトニスの扉は妖精の世界の底の底に繋がっております。ミスター。』
「そこに稀人が行くと問題なのか?」
『ええ、そこは古くから妖精の世界と人間の無意識とか言う世界がヘルツとよばれるの扉で繋がっているという言い伝えがあります。』
無意識とはまた大層な言い種だとロウが呟くと、ヴァイゼは自分にはよくは分かりかねますがと前置きをして自分の肩越しにロウを見つめた。
『ヘルツの扉は誰も見たことがございません。しかし、聞けば人間の無意識の世界を妖精の世界のモノが侵食したら、人間は人間としては生きていけなくなるのだそうで。』
唐突なその言葉にロウは眉を潜め、ヴァイゼの言葉の先を待つ。
『私の主から伺っておりますが、無意識は多くの人間にとって失ってはいけない生命の根元を意味するのでしょう?無意識に危険を避ける等と、人間は無意識に過分にも依存して生きているらしいではありませんか。違いますか?ミスター。』
ヴァイゼの言葉に思わずロウは押し黙る。確かに無意識の領域とは人間なら誰しも持っているものだが、それを妖精の世界に侵食されたとしたらどうなるか。奇妙な現実的でない異界の住人が支配する無意識に、人間は抗う方法を考えることすらできない。無意識とは意識されない本能的な部分なのだから、無意識と人間は呼ぶのだ。となると人間の本質が変容してしまい、今のままの世界ではなくなってしまう可能性もある。下手すると先程の小鬼のようなモノが無意識から人間を支配するとしたら、とんでもない事になりかねない。
「稀人が底に辿り着くと、必ず侵食は起こるのか?」
『私には分かりかねますが、私の主はあなたに稀人を追って頂きたいと申しております。稀人を追うのが何かあなたでなければならない理由が、主にはあるのでしょう。』
ロウでなくてはならない理由が、意図は分からないが届いた手紙と金の懐中時計にある気がして思わず目を細める。そう言えばとロウは眼鏡越しに、ヴァイゼの背に向かって口を開いた。
「ヴァイゼ、お前さんの主とは誰だ?」
『申し訳ないが、私の口からは申し上げられない事になっているのです、ミスター。』
予想外に心から申し訳ないという気配を全身から滲ませるヴァイゼに、呆れ混じりの声でロウが呟く。
「稀人を止めれば、お前さんの主とやらにも会えるわけか?ヴァイゼ。」
『恐らくとだけ申しておきましょう、ミスター。』
クルリと振り返ったヴァイゼが、先にある扉を示し立ち止まる。山の頂きはいつの間にか先程より随分と迫ってきていて、山を越えるのはあと少しのようにも見えた。山の頂きからは、所々硫黄の臭いがする煙が立ち上っている。
「ヴァイゼ、扉を潜る事が出来るのは稀人だけか?」
『いいえ、稀人とご覧の通り稀人の従者となれば潜ることは可能です。後は妖精の世界の住人となっても潜ることは可能でしょう。』
「ハッグとやらは稀人か?妖精か?」
魔女の立ち位置は人間なのか妖精なのか、判断に迷う所だが狙うほどであればこの世界に入ってこれないとならない筈だ。
『半妖精というところでしょう、ミスター。』
今日は随分と雄弁なヴァイゼが、道を譲るように壁際に寄る。しかし、耳慣れない言葉にヴァイゼの仮面を、間近で見返す。
「半妖精?」
『説明は難しい存在です。稀人の成れの果てもおりますし、自然となるものもいますのでね。おいおい説明の言葉を探しておきましょう、ミスター。』
今は説明ができないと頭を下げたヴァイゼに、ロウは溜め息混じりに先を急ぐことに決める。少なくともまだ、山の中にハッグの娘がいる可能性はあるのだ。促されるままにロウは、ヴァイゼの示す岩壁のドアを開くと足を踏み入れた。
目の前に広がっているのは広大な薄い紅色に色づく大空と険しく剣のように切り立った岩山で、道は真っ直ぐ岩山の中に延びている。辺りを見回しても他に向かう道は見当たらず、周囲は乗り越えるにも難しい巨大な岩だらけだ。道はどう見ても、真っ直ぐ山に向かえといっているようにしか見えない。唖然としながらロウは眼鏡越しに険しく切り立つ岩山を見上げて、溜め息をつくとポケットに手を突っ込んだ。稀人が若い女だとしてどれくらい先に進んでいるかは知らないが、この山を乗り越えるとは大したものじゃないかと呟く。
「しかし、これを登れと言うことか。」
長々と見上げていても空を飛び上がれるわけでもないと、諦めの吐息を溢してロウは渋々と道を進み始める。次第に険しくなっていく道の先が唐突に途絶えたかと思うと、視線を上げると岩壁に鉄杭が打ち込まれている。そして岩の壁には、手で擦られ磨きこまれた鎖が一本垂れ下がっていた。試しに手で鎖を手繰ると軋む様子もなく、鎖はロウの体重でもビクともしない。渋々と岩壁に足を着けて鎖を手繰り、ロウは慎重に辺りを伺いながら壁を登り始める。やっとの事で岩壁を登りきると、そこには板を渡した細い小道が更に上に向けて道を形作っていた。
「まだ登る、か。」
溜め息混じりに呟くロウが目を細めると、唐突に横の岩壁がモコモコと動き出す。壁から沸き出したように見えるそれは道を塞ぎ、やがてそれが体を丸めた何かだと気がつく。それはロウの目の前で、膝を抱えていた不格好でボコボコとした腕を伸ばす。異形の出現に思わず一歩下がろうとして、ロウは背後には道がなく足元が崖なのを思いだした。小さく舌打ちをしながらロウは、一端は手を離した岩壁に下がる鎖を相手に見えないよう後ろ手に掴んだ。
岩壁から這い出した小山は、醜い疣だらけで灰色の肌をした小鬼としか言い様のない容姿をしていた。
『オマエ、探求者のナカマだろう?』
片言にも聞こえるダミ声で小鬼は、聞き取りにくい言葉を話す。腰に下げていた棍棒を振り回しながら、小鬼はギザギザに尖った鮫のような歯をむき出しジリジリと足を進めた。
「探求者とは何者だね?教えてくれたら何処ぞで出会ったか考えてみようじゃないか。」
ロウの足元が靴一個分しか残っていないのを知って、小鬼はニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべる。手にした棍棒で両側の岩壁をガツンガツンと殴りながら、にじりよるように前に進み出て小鬼は一端足を止めた。
『こたえ必要ナイ、オマエ、ここでオワリ。』
奇声をあげながら棍棒を振りかぶった小鬼が躍りかかってきた瞬間、ロウは思いっきり飛び上がった。目の前にいた筈のロウの姿が消えて、目測を誤った小鬼が前のめりにつんのめり手を振り回す。咄嗟にロウはその背中を踏み、力一杯蹴りつけた。片手で鎖にぶら下がったロウの足元で、小鬼が情けない悲鳴をあげながら手足をバタつかせ不様な姿で崖下に転げ落ちていく。それを鎖にぶら下がりながら暫く見下ろしたロウは、安堵の息をつきながら再び鎖を手繰り岩山の道に足を下ろした。
愚鈍な小鬼で助かったな。
ふと小鬼が立っていた場所に光るものを見つけて、ロウは歩みより屈みこむ。そこには金色に光る一本の針が落ちていて、拾い上げたロウは指で摘まむと空に翳す。思い出したようにポケットから金の懐中時計を取りだし、文字盤のネジを緩めると金の針を嵌め込む。針は元からそこにあったかのように、違和感なく嵌まりカチカチと秒針と共に動き始める。しかし、見下ろす懐中時計の針は、長針と秒針だけなのは変わりがない。シュミートが話していたもう一つの仕掛けとやらは、まだ手がかりもないのだ。
短針が揃わないと仕掛けとやらは分からんか?
手の中で懐中時計を眺め回していたロウは、開いた蓋の裏にウッスラと文字が刻まれているのに気がついた。月日が経ちすぎて薄れてしまった文字は、現実とは色の違う光の下で僅かに透けて見えたようだ。
《F》
文字を見下ろしロウは眼鏡を光らせて、目を細めるとその文字を指でなぞった。以前はもう少し長く文章か単語が彫りこまれてあったようだか、他の文字は磨りきれて読み取れそうにもない。
「ここでもFか。」
思わず苦い声で呟く。ロウに写真入りの不思議な仕掛けつきの手紙をよこした依頼主のF。ハッグに拐われた子供の一人ロニ・フリンもFだ。そしてシルキーもグウレイグもロウの物だと言った懐中時計に刻まれたF。シュミートが言っていたフリン一家の生き残りの祖母も恐らくフリンであればFだろう。もしかして手紙を出してきたのはフリンの祖母なのだろうか?
偶然なのだろうが、ロウもロウ・フォードでFであり、そして島の集落もヴィレッジ・フォートでFなのだ。偶然にしては随分とFだらけで、逆におかしいとすら感じるのは間違いだろうか?
溜め息混じりに先を見ると、いつの間に現れたのかヴァイゼ・ズーハーが板敷きの道に音もなく佇んでいた。
『見事なお手並みで、ゴブリンを退けましたね。ミスター。』
「勝手に向こうが落っこちただけだ、足場が悪い山のようだからな。どうせなら扉とやらの出口を山頂にしたらどうかね?ヴァイゼ。」
微かに仮面の奥がロウの皮肉に、笑みを浮かべた気配を滲ませる。海の底でも思ったが、無表情に見える仮面の割には案外ヴァイゼは感情の起伏が大きいようだ。黒檀の杖に置かれた白手袋の手が、キュと音をさせて杖を握り直す。その姿を眺めながら、ロウは先程のゴブリンとやらの言葉を思い浮かべる。
「ヴァイゼ、探求者とは何者だ?」
『はて、何の事か私には分かりかねます、ミスター。』
それが本当の言葉になのかどうかは、ロウの目では仮面の奥までは判別するのは難しい。兎も角分かりかねるとヴァイゼが答えたからには、これ以上の返答は望めないだろう。ロウは質問の矛先を稀人に変えることにする。
「稀人はどれくらい先に扉を潜ったんだ?ヴァイゼ。」
『どれくらいとは?』
ヴァイゼが不思議そうに問い返したのに、ロウが既に二晩前に壊れて止まったままの腕時計の硝子盤を指でコツコツと叩く。
「時間的にだ、どれくらい先に進んでる?」
二晩とも大人の男の足で、結局追い付けなかったのだ。相手は若い女だとして追い付けない理由の一番は、恐らく時間差だろうとロウは踏んでいる。例えば四時間も時間差があれば、この険しい山の中でも未だに追い付けないのも当然だと言えるのではないか。しかし、ヴァイゼは戸惑うように、首を傾げたままロウの手首の時計を不思議なものを見るように眺める。
『時間とは、一体全体なんの事でしょう?ミスター。』
ヴァイゼの様子にロウは目を丸くして、考え込みながら顎に手を当てた。どうやら、ヴァイゼは時間という概念自体を持っていないのだ。それでは、ロウが何をどう聞いても、稀人がどう進んでいるのか適切な答えは帰ってこない。ロウは諦めて質問を変えた。
「ハッグの娘は何故戻ってきた?」
これはさっきの会話で聞かれるのを予想していたのだろう、ヴァイゼは淀みなく答えた。
『申し上げました通り、ハッグは一度狙った者を諦めますまい。』
「では、何故ハッグは自分の娘を狙ったんだ?」
その言葉にヴァイゼは暫く黙りこむと、微かな困惑に近い気配で中折れ帽を指で押し上げた。この質問は予想していたのだろうが、ヴァイゼの中には答えが無いのかもしれないとロウは心の中で感じとる。ヴァイゼはやがて頭を微かに横に振りながら、溜め息をつくように呟く。
『ハッグの娘…だから、としか私にも答えられません。ミスター。』
コツリと黒檀の杖をつく音をさせて、ヴァイゼは細い道を通い慣れたように歩き始める。ロウはヴァイゼの後に従うように、手をポケットにいれ懐中時計を握りながら慎重に歩き出す。
ハッグの娘だから島に呼び寄せられ、ハッグに狙われている。狙われる理由がハッグの娘だからとは、なんとも奇妙な捻れだ。卵が先が鶏が先がのような捻れに、ハッグが娘を態々呼び寄せ狙う程の理由は今のロウには思いつかない。
魔女の思考は予測しようもないか。
呟き混じりにヴァイゼの背中を眺め、ヴァイゼが何をさせようとロウを導いているのか考える。最初に出会った時、ヴァイゼはロウにある人に頼まれたと言ったが、ロウを呼び寄せた依頼主を知っているのだろうか? ヴァイゼは稀人が先に進むのを止めるようにと、最初からロウに告げていた。と言うことはハッグの手先ではないか、ハッグの手先だとしても魔女には従いたくないということになる。
「お前さんは、稀人が進みすぎては危険だと言ってたな。稀人自身と後何が危険なんだ?ヴァイゼ。」
『稀人は知らずに奥に進んで、ゲデヒトニスの扉を開ける可能性があるのです。』
ゲデヒトニスの扉?と問い返したロウに、ヴァイゼは振り返りもせずに足を進める。コツコツと杖のつく規則正しい音をさせて、ヴァイゼは仮面の奥で微かに溜め息を溢す。
『ゲデヒトニスの扉は妖精の世界の底の底に繋がっております。ミスター。』
「そこに稀人が行くと問題なのか?」
『ええ、そこは古くから妖精の世界と人間の無意識とか言う世界がヘルツとよばれるの扉で繋がっているという言い伝えがあります。』
無意識とはまた大層な言い種だとロウが呟くと、ヴァイゼは自分にはよくは分かりかねますがと前置きをして自分の肩越しにロウを見つめた。
『ヘルツの扉は誰も見たことがございません。しかし、聞けば人間の無意識の世界を妖精の世界のモノが侵食したら、人間は人間としては生きていけなくなるのだそうで。』
唐突なその言葉にロウは眉を潜め、ヴァイゼの言葉の先を待つ。
『私の主から伺っておりますが、無意識は多くの人間にとって失ってはいけない生命の根元を意味するのでしょう?無意識に危険を避ける等と、人間は無意識に過分にも依存して生きているらしいではありませんか。違いますか?ミスター。』
ヴァイゼの言葉に思わずロウは押し黙る。確かに無意識の領域とは人間なら誰しも持っているものだが、それを妖精の世界に侵食されたとしたらどうなるか。奇妙な現実的でない異界の住人が支配する無意識に、人間は抗う方法を考えることすらできない。無意識とは意識されない本能的な部分なのだから、無意識と人間は呼ぶのだ。となると人間の本質が変容してしまい、今のままの世界ではなくなってしまう可能性もある。下手すると先程の小鬼のようなモノが無意識から人間を支配するとしたら、とんでもない事になりかねない。
「稀人が底に辿り着くと、必ず侵食は起こるのか?」
『私には分かりかねますが、私の主はあなたに稀人を追って頂きたいと申しております。稀人を追うのが何かあなたでなければならない理由が、主にはあるのでしょう。』
ロウでなくてはならない理由が、意図は分からないが届いた手紙と金の懐中時計にある気がして思わず目を細める。そう言えばとロウは眼鏡越しに、ヴァイゼの背に向かって口を開いた。
「ヴァイゼ、お前さんの主とは誰だ?」
『申し訳ないが、私の口からは申し上げられない事になっているのです、ミスター。』
予想外に心から申し訳ないという気配を全身から滲ませるヴァイゼに、呆れ混じりの声でロウが呟く。
「稀人を止めれば、お前さんの主とやらにも会えるわけか?ヴァイゼ。」
『恐らくとだけ申しておきましょう、ミスター。』
クルリと振り返ったヴァイゼが、先にある扉を示し立ち止まる。山の頂きはいつの間にか先程より随分と迫ってきていて、山を越えるのはあと少しのようにも見えた。山の頂きからは、所々硫黄の臭いがする煙が立ち上っている。
「ヴァイゼ、扉を潜る事が出来るのは稀人だけか?」
『いいえ、稀人とご覧の通り稀人の従者となれば潜ることは可能です。後は妖精の世界の住人となっても潜ることは可能でしょう。』
「ハッグとやらは稀人か?妖精か?」
魔女の立ち位置は人間なのか妖精なのか、判断に迷う所だが狙うほどであればこの世界に入ってこれないとならない筈だ。
『半妖精というところでしょう、ミスター。』
今日は随分と雄弁なヴァイゼが、道を譲るように壁際に寄る。しかし、耳慣れない言葉にヴァイゼの仮面を、間近で見返す。
「半妖精?」
『説明は難しい存在です。稀人の成れの果てもおりますし、自然となるものもいますのでね。おいおい説明の言葉を探しておきましょう、ミスター。』
今は説明ができないと頭を下げたヴァイゼに、ロウは溜め息混じりに先を急ぐことに決める。少なくともまだ、山の中にハッグの娘がいる可能性はあるのだ。促されるままにロウは、ヴァイゼの示す岩壁のドアを開くと足を踏み入れた。
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