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4月

閑話78.澤江仁

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ここで暮らすようになって、既に五ヶ月が経とうとしている。記憶喪失のせいで名前以外は全く思い出せないが、身元を引き受けてくれた鳥飼信哉は勿論随分自分は幸運に恵まれているのだ。記憶喪失なのに自分はちゃんと学校にも通わせて貰って、過不足ない程身の回りまで整えてもらっているし今では大勢の友人にも囲まれている。
最初は信哉から困ったことがあったら、宮井麻希子か香坂智美に相談するようにと教え込まれた。後から聞いたら香坂智美は自分が学校に通う前から仁の事を信哉から聞いていたからで、宮井麻希子はちょっとやそっとの事では動じずに対応できるからだという。信哉の弟の真見塚孝もいたのだが最初は喧嘩ばかりで相性が悪そうだったのと、あいつは急な事に対応するのが苦手だから仁の相談には向いていないと信哉は苦笑いしていた。そこは兎も角、宮井麻希子は確かに記憶喪失に関しても全く動じなかった上に、ちゃんとアドバイスまでしてくれ仁にしてみれば心強い相談相手だ。自分の状況が特殊なせいか仁は常識はずれなことをするし、普通の人間なら知っているようなことも分からないことがある。

バスケットとかルールは直ぐ理解できるんだけどな。

何気なく投げたボールは綺麗な放物線を描いて、ゴールリングに当たることもなくポスッと通り抜ける。身体を操作することには何も問題がないのに、その身体の限界点が中々理解できない。担任でもあるし信哉の幼馴染みで時々世話をしてくれる土志田悌順にも宇佐川義人にも、勿論信哉にも槙山忠志にも注意するように言われている。どうやら自分の身体は本来なら次第に心拍数が上がって汗をかいたり、息が切れるという反応が現れにくいらしい。だから、気がつくと限界を振り切っていて、熱を出して倒れたり動けなくなったりするのだと言う。そう言われれば冬場だからかと思っていたが、他の同級生のように汗もかかないんだよなと何度か倒れてから気がついたくらいだ。

オーバーフローして倒れるから、記憶が飛ぶのかもしれないよ?

そう看護師の義人には言われて、普通なら限界だと働くリミッターがついてないようなもんなんだなと信哉にも言われた。お陰でバイトをしようとコンビニ面接にいったら、そこで偶然バイトしていた忠志にお前働かせたら限度なく動くだろと説教されるし、自分の身体の事もちゃんとしてないんだからそこがわかるまでバイト自体を信哉には禁じられる始末だ。部活動にしても限界が分からないからと、朝練は禁止と悌順に言われてしまっている。もう一度何気なく投げたボールは先程と全く同じ放物線を描いて、同じ音をたててゴールリングに吸い込まれた。



※※※



「仁、今日はラーメンな。」
「あのさ、透、これって続けていいもんなのかなぁ。」
「気にするな、透が面白がってるだけだ。」

そうそうと笑っている若瀬透に連れられて、香坂智美と三人で帰途についている。智美と仁のチャレンジメニュー荒らしは最近有名になりつつあるが、本来なら断られてもおかしくない件数をこなしていても何故か断られたことがない。透の交渉術がいいのか、はたまた客寄せ効果が高いのか。智美に聞くとたぶんどっちもというから、社会と言うのは不思議なものだと思う。ちなみに食事量に関しては別段リミッターが効いてないというわけではなく、ちゃんと満腹になる。忠志からは燃費が悪くてカロリーの消費が悪いから量が必要なんだろと笑われるが、そういう意味ではあの四人だってかなりの食事量だから気がつかなかっただけだ。信哉なんか仕事だからって昼間にケーキを三つも食べて帰ってきても、普通に夕食は食べるし量はチャレンジメニュー張りだが太るわけでもない。だから透が連れて行ってくれる店に信哉を連れて行っても、きっと智美と同じくらい平然と平らげると思う。
と、視界の先に最近なにかと目につく背中に気がついた。四月から同じクラスになった五十嵐海翔が少し前を歩いているのに、仁が声をかけると隣の智美が苦い顔をする。どうも智美は五十嵐が麻希子に馴れ馴れしいのが嫌なようだが、仁にしてみれば五十嵐も麻希子の何事にもそれほど動じない性質を感じ取っているだけなんじゃないかと思う。

「五十嵐も一緒にいかないか?」
「はぁ?仁、お前何言って。」
「だって、ラーメン食いにいくだけだし。」

呑気に仁がそう言うのに、五十嵐も智美が苦手なのか少し困惑顔だ。

「五十嵐もチャレンジメニューする?こいつら二人で今からチャレンジメニュー食いにいくとこなんだよ。」

これまた呑気に透が言うのに、その細っこい体でチャレンジメニュー?と五十嵐が呟いたのに智美が眉を潜める。以前の智美と比べると最近メキメキ身長が伸びて、体つきもしっかりしてきた智美としては細いと言われるのは心外だったらしい。慣れてしまうと直ぐ分かるが、智美は綺麗な顔立ちのわりにとっても凄く負けず嫌いなのだ。

「別に無理して参加しなくてもいい、細い僕より食べられなくても問題ないもんな。五十嵐。」
「あ?誰が食べられないって言ったよ?余裕だよ、そんなの。」

あ、五十嵐も案外智美と同じく負けず嫌いなんだなと内心思う。きっとこの二人が反りがあわないのは、真見塚孝が一つ上の宮内慶太郎と似た者同士で仲が悪いのと同じことなのだろう。それにしても負けず嫌いでチャレンジメニューに参加を決めてしまった五十嵐は、智美と自分の胃袋までは知らない筈だけど………。
目の前に運ばれてきたすり鉢に入った巨大ラーメンに、五十嵐が絶句したのは当然かもしれない。ニヤニヤしてる透の前には至って普通のラーメンが来たけど、二人の巨大すり鉢には麺八玉の醤油ラーメン。しかも智美と仁はチャレンジメニューだと言うのに、チャーシュー増しの味玉トッピングの余裕だったりもする。実はこの店で二人は以前チャレンジメニュー六玉をクリアしているので八玉に増量され、五十嵐は六玉にチャレンジなのは言わないでおく。

「食べきれなかったら1500円な、五十嵐。」

透が笑いながら言っているが、このラーメン屋の凄いところはチャレンジメニューが1500円で何時でもチャレンジできるところだ。麺が玉二桁になったら500円増しだそうだが、食べきってしまえばそこら辺は大きな問題じゃない。しかも制限時間は三十分で食べきったら、キャッシュバックつきだったりする。つまり食べきれればお代は無料な訳だ。

「これ……食べきるわけ?」
「あ、お前の六玉ね、僕と仁は六玉はクリアしてるから、八玉だから。」

黙っておいてやろうと思ったのに、平然と言う智美に苦笑いしながら仁は丁寧にいただきますと頭を下げる。何でかここのラーメン屋の親父さんとおかみさんが楽しそうに自分達を眺めているのはさておき、正直なところここの店の醤油ラーメンはあっさりで旨い。手製のチャーシューと味玉も絶品なのだ。

「ご馳走さまでした。」

残り時間は五分と言うところだが、スープまで綺麗に完食して頭を下げる仁に五十嵐が残り半分という辺りで箸が止まって呆然としている。そりゃそうだと思うのは横で智美が炒飯を食べているからで、仁がラーメンを食べ終わったからではないと思う。智美が何で炒飯なのかって?十五分経過して智美が炒飯を注文したからだけど。

「何なんだ、お前も香坂も。」

呆れ声で言われたのに仁は俺もなのと言いたげだ。流石に智美のようにチャレンジメニューを二十分で終わらせて、物足りないと炒飯までは食べないんだけど。

「兄ちゃん、今度十玉だけど余裕そうだなぁ。」
「美味しいから、たぶん全然平気だと思います。」

賑やかにそう言う智美に五十嵐はポカーンとしているし、何時もの事に透は爆笑している有り様だ。今のところ苦戦した事もなければ、ただただ美味しくいただいているだけの気がしなくもないのだが。結局食べきれなかった五十嵐をやり込めたのに満足そう智美に、仁は苦笑いしながら声をかける。

「智美ってこんな奴だから、気を使わなくてもいいだろ?」
「は?何いってんだよ、仁。」
「だって、麻希子が仲良くして欲しそうだったから。」

仁の言葉に智美の表情が少し曇る。智美も理解してはいるが、何となく気に入らないというところなのだろうし、五十嵐の方もほぼおなじなんじゃないかと思うのだ。



※※※



夕方の事をベットに寝転びながらボンヤリと考える。人の気持ちって言うのは一筋縄じゃいかなくて、どんなに上手く行ったと思っても、結果としては簡単にはそうならない。
麻希子が皆と上手くやって欲しいと考えているのは見るだけもでわかることだし、案外麻希子はそこを上手く繋げてしまうことができる。仁には同じようには上手く出来ないが、彼女はそこができてしまうのだ。

凄いな、麻希子は。

結局麻希子のようには出来ないから智美と五十嵐は友達とはいかなかったし、五十嵐は実質食べきれなかったのだけど何故かお前に負けた訳じゃないからなと捨て台詞を残して去っていった。まあ、確かに負けたのはラーメンにであって、智美にではないか。

俺の昔は、どうだったのかなぁ……。

記憶にはないが両親や兄弟や、親戚なんかはいたのだろうか。友人はいたのだろうか?好きな子や喧嘩をするような相手はいたのだろうか。そんなことを考えながら、ボンヤリと夜の闇を見つめる。もし記憶が戻ったらどうなるのかと義人に問いかけたら、もしかしたら今の事を忘れてしまうのかもしれないと答えられて愕然としてしまった。思い出すかわりにここで暮らしたことを忘れてしまうのかもしれないと思ったら、思い出すのが怖くなったとはまだ誰にも言えないでいる。ここでの暮らしが楽しすぎてこれを忘れるくらいならと考えてしまう自分に、仁は一人で夜空を横切る流星を眺めながら一つ溜め息をついていた。
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