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8月
閑話21.須藤香苗
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土志田先生が帰った後、両親と話し合うつもりだったけど正直話し合い自体にならなかった。母親は泣き続けるし父親は呆然としていて、香苗が意見を言うような会話にすらならなかったのだ。疲れきって自分の部屋に戻ってスマホを手にLINEを見ると、確かに今まで香苗が麻希子に打ったメッセージに全部既読マークがついているのに気がつく。
《マキ、ありがとう》
スタンプも何にもない香苗らしくない味気ないメッセージだと思うけど、それ以外に言葉にならなかった。また麻希子と仲良くできるかな?前みたいではないかもしれないけど、改めて友達として付き合えるようになれるのかな?との心の中で呟くとそれが伝わったみたいに麻希子からメッセージが届いた。
《また、友達になれるかな?》
既読のマークのついた香苗のメッセージの後に、麻希子のメッセージが音もなく浮かんでいるのに泣きたくなる。
《そうだと、嬉しい。》
素直な心のままの言葉を返してから、香苗はベットの上で声殺しながら泣き出していた。
その後何度も両親と顔を付き合わせたけど、話し合いは何も形にならなかった。それはそうだと香苗も自分でも思う。高校生の娘が愛し合ったわけでもない男との子供かも分からない赤ん坊がいるのを、このまま育てるのか中絶するのか考える。両親ともそれに適切な答えを出すには、まだ時間が足りない。それに、香苗自身も簡単に中絶するのか問われると、実は答えにならないのだ。自分の身勝手で出来た生命を殺してしまって良いのだろうか?悩み続ける香苗の手の中でスマホが震えた。
《香苗、一緒にプール行かない?》
LINEを開くと麻希子の暢気なメッセージに、既読マークがついたけど答えられない。麻希子は普通の高校生らしい夏を過ごしているんだって考えると、香苗は正直に少し羨ましい。行きたいと思うのと同時に、分かる人にはわかってしまうんだって心が呟くのが分かって香苗は目を伏せた。
《誘ってくれてありがと、ごめん、風邪ひいてて。》
きっと麻希子も香苗に気を使ってもくれてるんだって分かってる。
《分かった、また誘うね!お大事に!》
それ読んで凄く安堵している自分に苦笑してしまう。麻希子は香苗の状況知らないで、普段の高校生として関わろうとしてくれるのが今はありがたかった。母親のように腫れ物みたいに下手に気を使われるより、この方がずっと楽だ。
「香苗、あのね、お母さんね。」
ドア越しの声が今にも泣き出しそうで辛い。自分がしたことなのに、答えもでないこの状況から今すぐ逃げ出したかった。ドアを勢いよく開いて駆け出した香苗を、背後から戸惑う母親の声が追いかけてくる。思いきり走る陽射しの下で、締め付けるような下腹部の違和感を感じながら香苗は構わず駆け続けた。自分はまだ子供で親になれる自信なんかない、そんなことは充分に分かっているのだ。高校生の自分が親なんて無理に決まっているって考えた瞬間、脳裏に子供の頃の自分が閃いた。
※※※
小学生の麻希子が香苗に自信に満ちた瞳で、当然のように告げた。
「私ね、雪ちゃんのお嫁さんになるの!」
それは子供にしては酷く大人びた自信に溢れる声で、香苗は戸惑った。お嫁さんになるなんて子供の頃の夢にはよくあるけど、目の前の麻希子は夢見勝ちな少女ではない。お菓子も上手に作ってみせたり、香苗より幾つも女の子らしいものを持っているのに香苗は気がついている。しかも、一人先にお嫁さんになるだなんて、先に行きすぎるにも程があるだろう。彼女の言う雪ちゃんは、従弟だと麻希子が教えてくれたのを香苗は覚えていた。大体にして自分の従兄達を思い浮かべるが、あいつらのお嫁さんになるなんて考えるだけでも気持ち悪い。
「従兄なのにベッタリなんて気持ち悪い。」
香苗の言葉に凍りついた麻希子に、香苗は安堵する。これで、麻希子にお嫁さんの夢を諦めさせる事が出来るんだと理解した。
「血が繋がってるんでしょ?結婚出来ないんだよ?それなのにベッタリ何時もくっついてて気持ちわるーい。」
凍りついただけでなく青ざめた麻希子の顔に、香苗は言い過ぎたかなと戸惑う。でも、間違ってないと香苗は自分の心に言い聞かせて、記憶を忘れるように蓋をした。
※※※
鮮やかに思い出した言葉に、子供じみた嫉妬と愚かな優越感を見つけて香苗は涙が溢れるのが分かった。従兄のお嫁さんになるんだと嬉しそうだった麻希子の傷ついた顔に、自分の言葉が正しかったのだから自分は悪くないと自分に言い聞かせていた。麻希子はあの後どうしたのかすら記憶にない。沢山傷つけてしまってきたのに、もう一度仲良くなんて虫がよすぎるんだと香苗は、息を切らせながら自分があの公園まで駆けてきていたのに気がつく。矢根尾に淫らな事をされたあの木立は工事用の囲いの中に消えているのに気がついて、香苗は呆然と立ち尽くした。
自分だけが置き去りになってるみたい。
世の中の全部が自分を置き去りにして、変わっていくみたいに感じて香苗は木立のあった場所を見つめながら公園を歩き出す。沢山の子供の声とそれを見守る母親の声に溢れる公園の中は、矢根尾に木立の暗闇で無理矢理犯された場所とは別世界だった。それに香苗は嗚咽が込み上げそうになる。
全然違う。私があいつに乱暴されたのと同じ公園なのに、ここにいる人は皆眩しくて綺麗で私と違うんだ。
目眩がして思わずベンチに腰かけると、眩い陽射しの中に白磁のようなマンションがそびえているのに今更気がつく。そのマンションはついこの間手を引かれ足を踏み入れた、ファミリー型マンションなのに今更香苗は気がついた。公園からこんなに簡単に見えるなんて、気がつきもしなかったと香苗は息を飲む。
先生がこの子のパパなら。
あの時の思いがもう一度甦る。何で、そんなことを考えてしまうのか、と香苗は自分に問いかけた。子供じみた空想だとわかっているけど、彼がこの子供の父親だとしたら。自分を抱きしめて守ってくれた腕の暖かさと逞しさは、鮮やかに記憶の中に浮かび上がる。揺るぎもせずに自分を抱きしめて、暴力から庇ってくれた胸の暖かさも分かっている。かけてくれたジャージの暖かかったことも、今でも思い出せる。あんなとこで颯爽と姿を見せて、助けてくれたからって勘違いしてるんだろうか。ポケットのスマホが突然震えて、香苗はLINEを開く。
《香苗、今何処?》
既読になったからか、麻希子は直ぐ様メッセージを打ち込んでくる。
《どうかしたの?おばさんと喧嘩でもした?おばさん慌てて探してたよ?》
メッセージは直ぐ様既読。だけど、香苗は何て答えていいか分からなかった。喧嘩をしたわけではないが、逃げ出してきたのは事実だ。先生に泣いてもいいから話し合えとあれ程念をおされていたのに、そう考えると再び土志田先生の顔が頭に浮かぶ。矢根尾と違って短髪の髪は毛質が固そうで、その目は穏やかだけど綺麗な切れ長の瞳だ。
《麻希子、好きな人っている?》
唐突に自分が問いかけた言葉に、麻希子はお嫁さんになると言った従兄のお兄ちゃんがまだ好きなのかなと考える。何処か今の麻希子は同級生の香坂にも惹かれているようだけど、本心はどうなんだろう。
《香苗、会って話さない?今何処?》
既読の後に暫くの無言は、思うのと違う麻希子の反応に香苗が戸惑ったからだ。麻希子がもし従兄でない人が好きだと答えたら、香苗があの時麻希子の大事な恋心を潰した事になるんだろうか。だとしたら、香苗は本当に意地悪な子供で、人の気持ちなんか考えもしない人間なのだろう。
《マンションの近くにある工事中の公園にいる。》
それだけで麻希子は場所が分かったみたいで、暫くすると公園の入り口に走って姿を現した。麻希子がさっきの自分と同じてゼエゼエしなから駆け寄ってくるものだから、香苗は少し驚いたみたいに目を丸くする。
「何で、そんなにあわててんの?麻希子。」
「だ、だって、香苗どっか行きそうかなって焦った。」
麻希子の声に驚いて目を丸くしながら香苗は膝の上に顎をのせて少し笑った。息を整えながら隣に座ると、香苗は同じ体勢のまま麻希子の姿を眺める。麻希子は確かに大きくなったけど、やっぱり子供の時と変わらずに純粋な麻希子のままに見えた。
「日曜、プール行けなくて残念だったね、また今度行こうね?楽しかったよ。後ずっと前に約束してたスイーツバイキングもね。」
「うん、そうだった。あの時約束してたのにね、すっぽかしてごめんね。」
凄く素直にごめんが口から出てくる。あの時は矢根尾に会うのに必死で、麻希子の事なんて考えもしなかった。ずっと前から楽しみにしてたのに、麻希子は凄く残念だったに違いない。
「香苗、前に気に入らないって言ってたけど、早紀ちゃん凄くいい子だよ。きっと仲良く出きるから、一度一緒に行ってみよう?ね?」
「うん、そうだね。」
以前香苗が麻希子と話した時は、志賀は何処か浮世離れして香苗にとっては邪魔な存在だった。でも、志賀は頼んだわけでもないのに、香苗を麻希子と一緒にあの好奇の視線から助け出してくれたのだ。少しの無言の後に躊躇いながら香苗が口を開く。
「あのね、ホントは麻希子と志賀さんが、あの時助けてくれたの嬉しかった。」
「そっか。」
香苗の言葉に麻希子は心から嬉しそうに笑う。そんな風に笑える麻希子は、本当に優しいんだと気がついて香苗は言葉につまる。
「香苗?」
「うん。」
「何か悩んでる?」
麻希子の言葉に香苗は黙りこんで、公園の木立の向こうに見える高いマンションを眺める。あのマンションには土志田先生が住んでて、お腹にいる赤ちゃんの父親だったら良かったなんて考えてる。暑苦しい蝉の声がするのに、木立の影になったベンチは何処と無く温度が下がって冷たい風が抜けた気がした。
「可愛いね、小さい子って。」
唐突な香苗の言葉に麻希子もつられて、遊具で母親に見守られながら遊んでいる子供達を眺める。何で唐突にそんなことを言い出したのか麻希子は戸惑っていると思うのに、香苗の瞳は涙に濡れていく。
「あたし、赤ちゃんが出来ちゃったの。」
震えながら言う声に麻希子は驚いたのだろう言葉を失った。
「あの人と結婚するの?」
震える声が香苗に問いかけ、香苗はその言葉に深い後悔に包まれる。その言葉に香苗は泣き笑いしながら、私の事を見つめ首を横にふる。
「あの人、私の事好きな訳じゃなくて、玩具が欲しかっただけだったの。この間麻希子が連絡して助けてくれた時ね、やっと、わかったの。」
矢根尾の告げたことを改めて口にすると、胸が鋭く痛むのを香苗は感じた。愛しているからではなく愛されていなかった事に、見ないふりをした自分が分かるから香苗は大粒の涙を溢す。ハンカチを差し出して涙を拭ってくれる麻希子に、香苗はありがとと小さく呟く。
「赤ちゃん、どうするの?」
「この子お父さんが誰か分かんないの。自分が馬鹿であんな人に好きなようにさせたのが悪いんだけど。だから、私もどうしたらいいか、まだ分かんないの。」
麻希子が再び絶句してしまうのは、当然の事だと香苗も思う。父親が分からない不特定多数との性行為なんて、高校生がするはずないのが普通だ。そんなことがあり得るなんて事すら、麻希子は考えもしないに違いない。麻希子は少し怯えたように見える視線で、それでも真っ直ぐに香苗の事を見つめる。
「あの人知ってるの?赤ちゃんの事。」
「うん、出来たって話したら俺の子供の証拠なんかないだろって。他の奴の子だろって。」
香苗の告げた矢根尾の言葉に、香苗以上に麻希子は傷ついた表情をした。それに香苗の方がはるかに驚き、目の前で泣き始めた麻希子を戸惑いながら見つめる。
「何で泣くの?」
香苗に言われて初めて自分が泣き出していたのに気がついたみたいに、麻希子は更に顔をクシャクシャにして泣き出す。麻希子が唐突に香苗に抱きついてしがみつくみたいにして泣き出すから、香苗まで我慢できなくなって泣き出した。暫くそうして2人で肩を寄せて辺りも気にせず泣いていたら、ふと頼りない足音がして2人とも顔をあげる。2人の目の前に1歳越したばかりくらいの小さな男の子がクリクリの目を丸くして、泣いていた私達を見上げた。
「ねぇね、たい?かな、たい、ウエーンすゆ。」
カナ?思わず香苗と私が顔を見合わせると、その子は言葉が通じなかったのも気がつかないで必死にポケットを探る。小さな手に同じくらい小さな飴玉を乗せて差し出した子供に2人は目を丸くした。この年頃の子供って自分の大事なものをあげる事が出来るのかと呆然とする。
「ウエーンに、しんにぃくれるの!かな、あげゆ!」
ああ、この子のお兄さんは泣いてるこの子を慰めるのに飴玉をくれるんだ。だから、この子は泣いてる私達を同じように慰めようとしてるんだ。と、思うと香苗は余計に涙が溢れる。自分のお腹の中にも、こんな子がいるのかもしれないのだと改めて考えたのだ。
「あい、たいないない!」
思わずその小さな紅葉みたいな手から飴玉を受けとる。
「奏多、あらやだどうしたの?」
「おかしゃねぇねウエーンの、かな!ないないのー!」
その力一杯の男の子の満足げな微笑みに、思わず泣きながら2人は顔を見合わせる。お腹の中に同じような命が育ってると考えながら、お母さんに手を引かれて香苗と似た名前のカナタ君が元気にバイバイと手を振る。麻希子と2人で手をふりながら、香苗はその小さな背中を見送っていた。
※※※
家に帰ると告げたのに家に帰る気にもなれずに、香苗は夕暮れまでそのベンチに腰かけていた。先生に見つかって怒られるかなと考えながら、同時に見つかりたいと考えている。日が暮れてからは公園はよい思い出がないから離れはしたけど、駅の反対側に家があるのに高架を越えることすらしなかった。スマホには何度も繰り返し母親から電話が来ていて面倒になって電源を切って、ネットカフェで時間を潰し明るくなるのを待って公園に向かう。
ここで見つかったら先生に怒られるかな?
朝日が登ってから直ぐ、小学生が朝のラジオ体操なんかするよりもっと早い。もしかして学校に行く前の土志田先生が出てくるのが見えるかもなんて考えてしまう自分は何だろう。
「香苗!」
朝日の中でいつの間にか麻希子が直ぐ傍に立っていて、香苗は驚いたように目を見開いて麻希子を見上げる。
「おばさん、心配して探してるよ?ここに探しに来なかった?」
「今、ここに来た。麻希子、何でここに?」
「何となく?」
その答えに麻希子らしいと思わず笑いが溢れる。香苗は小さく笑ってマンションを見上げ、麻希子もつられたようにマンションを見上げた。代わり映えのない何処にでもありそうなファミリータイプのマンションは、朝の光の中で穏やかな日常が始まっているみたいに見える。
「夜どうしてたの?」
「ネットカフェ」
「お家帰るって行ったのに!帰んないなら私の家来ればよかったよ!」
心配したんだからと麻希子が不貞腐れたように頬を膨らませるのに、香苗は少し可笑しそうに笑いながら次はそうすると答えた。そしてまたついマンションを眺めるから、麻希子が不思議に思って一緒に横に座りながらマンションを眺める。
「あのマンション何?」
「お腹に他の人の赤ちゃんがいるのに、別な人好きになるっておかしいよね?」
唐突だと分かっているのに言葉にしたら、凄く納得できた。自分はいつの間にか本気で、土志田先生の事が好きになってしまったのだ。麻希子は土志田先生があのマンションに住んでいるのは知らないで、香苗の言葉の意味が分からない様子だ。香苗は少し自嘲気味な溜め息をついて俯く。
「自分でもよく分かんないの、お腹の赤ちゃんの事考えなきゃって思ってるし考えてる。でも、一緒にずっと頭にその人の事ばっかり浮かんでて、気がついたらここで見てるの。」
何度もお腹の赤ちゃんの事を考えるのに、お腹の赤ちゃんの父親が先生だったらなんて考えてしまう。赤ちゃんの事もあるけど一緒に先生の事も考えて、気がついたらここに来てしまっているなんて説明のしようがない。それでもこれ以上お家に心配かけるのはよくないっと麻希子に諭され、素直に香苗は頷いて立ち上がった。隣で麻希子が自宅に電話して怒られるのを聞きながら、家の母親も同じように怒っているのかなとうっすら考えた。
「好きな人って香苗の気持ち知ってるの?」
無言が辛かったのか、麻希子が小さな声で問いかける。香苗は素直に小さく首を横にふった。矢根尾と付き合っていたのとは違う、先生は生徒としてしかみていないのなんか分かりきってる。それでも、自分は問題ばかりの厄介者なのに、先生はちゃんと助けてくれた。
「そんな気持ちじゃなかったと思ったんだけど、気がついたら凄く好きみたい……。」
ポツリと呟いた言葉は、凄く心の中を素直に言葉にしていた。矢根尾の気を惹こうとしていたのとは違う、相手に無理強いしたいわけではない好きだと言う気持ち。
そんなことを考えながら2人でポツリポツリと会話しながら駅前の街に差し掛かった時、不意に香苗の名前が呼ばれた。一瞬その声を聞いた途端、走って逃げたい衝動に刈られる。
「カナ!なんでLINEスルーしてんの!?」
「カナちゃん、矢根尾さん知らねぇ?」
何でこんな朝早くにと思ったけど、どう考えても梓と茂木達がラブホテル帰りなのは目に見えていた。何が気に入ったのか梓は3人でホテルに行くのが楽しいらしく、何度も茂木達とつるんでいる。その上、まるで売春の斡旋みたいに同級生の女の子を呼び出して、茂木達にあてがいまでしてお小遣いを貰っていた。
暫くLINEを無視していたから、昨日の梓の動向まで香苗も気にしていなかったのだ。つい今しがたホテルを出たのだろう3人とも同じ強いシャンプーの臭いがして香苗は吐き気を感じながら俯き、自分の腕をとった麻希子がジリジリと後退るのを感じた。
「何で宮井と仲良くしてるわけ?カナの親友はあたしでしょ?どういうつもりよ?」
親友って自分から言うものじゃないし、あんたは親友だなんて思えない。
矢根尾の言葉で梓が性行為の最中だけでなく調子にのって、何度も香苗を奴隷扱いしたのを忘れられるはずがない。しかも、麻希子は怯えているのにしっかりと香苗の腕をとって、大事なものを守るように腕を抱き締める。その暖かさは土志田先生の腕と良く似ていて、香苗は微かに微笑んだ。香苗はその暖かさに背を押されるように、彼らをその視線で真っ直ぐ見つめた。
「もう、嫌なの。」
香苗の小さい呟きは、まだ朝早い街並みに奇妙なくらい綺麗に響いた。思いもよらない言葉だったのか、梓と男達が眉をあげるのが見える。
「何がやなのよ?喜んでた癖に!」
突然梓が怒鳴りつけ香苗の肩を突き飛ばす。麻希子が腕を掴んでなかったら、香苗はそのまま道路に尻餅をついただろうが香苗は怯まないで大きな声で口を開く。
「喜んでなんかない、嫌だったけどずっと我慢してた!我慢してきたけど、もう嫌!私はもう嫌!!」
鋭い言葉に梓が逆に怯んで後退る。梓の姿に茂木がまぁまぁと割り込んで前に出てくるのに、香苗は思わず言葉を続けるのを躊躇った。茂木が腕を抱き締めている麻希子に目を向けるのが分かる。
「あれぇ、誰かと思ったら最初の合コンの時の処女かぁ?」
茂木のあからさまな表現に、麻希子の顔が赤くなる。茂木がニヤニヤしながら近寄って、麻希子が怯えながら必死に睨む。
「丁度いいじゃん、カナちゃんに矢根尾さんの話聞きたいし。処女貫通してみたかったんだよな、オレ。」
グイと麻希子の腕を掴んだ茂木の言葉に、麻希子が青ざめるのが分かる。街中なのに相手は慣れたように麻希子と香苗を引き離しにかかっていて、香苗は何とか麻希子を逃がさないとと心が呟くのを聞いた。
「やめてよ!茂木さん!麻希子は関係ないじゃない!」
香苗が必死に叫び茂木の手を、麻希子の腕から払い落とし背中に庇う。誰かに助けて欲しくても、今までの事で他人が助けてくれたことなんかなかった。だって皆だって乱暴な男に関わりたくなんかないし、尻軽な女子高生なんかどうでもいいんだ。
「まぁまぁ、カナちゃん、オレらの仲じゃん?いい子にしてなよ、そしたら何時もみたいに気持ちよくしてやるから。」
「嫌って言ったでしょ!耳聞こえないの?!」
その言葉に一瞬で貞友の顔色が変わるのが視界に見えて、香苗は危機を感じていた。矢根尾と同じくらい貞友はキレやすくて、痛いことを平気でする男だって香苗も知っていた。何とかこの場から逃げようと思案するつもりで、相手が腹をたてるような言葉を放ってしまったのだ。貞友の動きは早く気がついた時には、香苗の下腹部に黒の厚ゾコ靴がめり込んでいた。麻希子ごと蹴り飛ばされ道路に転げると、痛みで視野が一瞬暗くなるのが分かる。
「あーあ、貞友を怒らせたら駄目だよ、カナちゃん。」
茂木が笑う声がするのに、麻希子を守ろうにも下腹部に痛みが弾けて身動きがとれない。茂木に乱暴に腕をとられた麻希子が、ジタバタしながら泣き出しそうになってるのが分かる。その時視界に大きな背中が入り込んだと思うと、もう一撃蹴りつけようとしていた貞友が綺麗に弧を描いて宙を舞った。しかも路上で袖をとったまま首に腕が回ったかと思うと、貞友の顔色がみるみる青くなって行く。それをしている人が、香苗の頭上に向かって声をあげた。
「雪、頼むから大怪我させるなよ?」
「知るか、クズは死ねばいいんだ。」
視界に見える土志田先生は、貞友が失神したのを確認して腕を離すのが分かった。そう言えば土志田先生は柔道部の顧問だったっけとボンヤリ考えながら、真横を見上げると香坂君にどことなく似た背の高い青年が無造作に茂木の股間を蹴りあげる。茂木が苦痛に呻きながら踞るのに氷みたいな目で見下ろして、更に足を降りあげる姿はこっちまで蹴られそうで正直怖くなった。呆然としている麻希子も、目の前で何が起こっているのか分かってないみたいだ。
「ゆーき!お姫が見てるぞ!お姫が泣く!!」
延びている貞友の袖を掴んだだけの土志田先生が、変な言葉を投げるとその人は我に帰ったように麻希子を振り返った。骨折れたりしてない?と過保護に麻希子に詰め寄る顔は、さっきまで氷のような目をしてたとは思えない変わりようで、麻希子も反応に困ってるのが分かる。
ああ、この人が麻希子の言ってた従兄の雪ちゃんなんだ。なんだ、私の言ったことなんて何も2人の事引き離した訳じゃなかったんだ。
2人の寄り添う姿に、自分が意地悪で告げた言葉は無意味だったことが分かって香苗は少し安堵した。安堵した途端、全身の血液が足に下がっていくような感触に飲み込まれる。そして、何かがお腹の中で弾けて失禁したような、溢れ出す感触が痛みと同時に体を包む。
「ま、まきこ。」
困惑に震える香苗の声に、麻希子が我に返って隣に転がったままの香苗に視線を返す。さっきまでと違って紙よりも白い顔になった香苗が、蹴られた下腹部を押さえて震えていた。ジワジワと足元に股の間から溢れる水っぽい血液が滲み出して、道路のアスファルトに金気臭い臭いと共に広がっていく。香苗は痛みで気を失いそうになりながら麻希子の手を握るが、出血はどんどん広がり続けていた。
※※※
土志田先生が救急車を呼んでくれて、担架に乗せられた時に母が丁度騒ぎの中に姿を見せた。先生が電話してくれたんだって分かったけどお礼を言う余裕もなくて、痛みに震えながら香苗は母親の手を握りながら総合病院に運ばれそのまま処置を受ける。貞友に強く下腹部を蹴られた事で、香苗は流産してしまったのだ。
ベットの上で真っ白な天井を眺めながら、腕に針を刺され点滴をされる。香苗にとっても両親にとっても、流産した事はある意味では幸運なのだろう。正直香苗にはまだ親になる自覚も自信もなかったのだから。香苗が気を失って眠っているうちに、お腹の中の赤ちゃんもその子のためのお腹の中の変化も掻き出して消え去った。
なんでなの?良かった筈なのに、凄く悲しい。
愚かな自分に生まれた生命が、自分の過ちのせいで失われたことが酷く悲しい。白い天井を見つめながら泣き続ける香苗は、自分の下腹部を手で押さえながら涙を流し続けていた。
《マキ、ありがとう》
スタンプも何にもない香苗らしくない味気ないメッセージだと思うけど、それ以外に言葉にならなかった。また麻希子と仲良くできるかな?前みたいではないかもしれないけど、改めて友達として付き合えるようになれるのかな?との心の中で呟くとそれが伝わったみたいに麻希子からメッセージが届いた。
《また、友達になれるかな?》
既読のマークのついた香苗のメッセージの後に、麻希子のメッセージが音もなく浮かんでいるのに泣きたくなる。
《そうだと、嬉しい。》
素直な心のままの言葉を返してから、香苗はベットの上で声殺しながら泣き出していた。
その後何度も両親と顔を付き合わせたけど、話し合いは何も形にならなかった。それはそうだと香苗も自分でも思う。高校生の娘が愛し合ったわけでもない男との子供かも分からない赤ん坊がいるのを、このまま育てるのか中絶するのか考える。両親ともそれに適切な答えを出すには、まだ時間が足りない。それに、香苗自身も簡単に中絶するのか問われると、実は答えにならないのだ。自分の身勝手で出来た生命を殺してしまって良いのだろうか?悩み続ける香苗の手の中でスマホが震えた。
《香苗、一緒にプール行かない?》
LINEを開くと麻希子の暢気なメッセージに、既読マークがついたけど答えられない。麻希子は普通の高校生らしい夏を過ごしているんだって考えると、香苗は正直に少し羨ましい。行きたいと思うのと同時に、分かる人にはわかってしまうんだって心が呟くのが分かって香苗は目を伏せた。
《誘ってくれてありがと、ごめん、風邪ひいてて。》
きっと麻希子も香苗に気を使ってもくれてるんだって分かってる。
《分かった、また誘うね!お大事に!》
それ読んで凄く安堵している自分に苦笑してしまう。麻希子は香苗の状況知らないで、普段の高校生として関わろうとしてくれるのが今はありがたかった。母親のように腫れ物みたいに下手に気を使われるより、この方がずっと楽だ。
「香苗、あのね、お母さんね。」
ドア越しの声が今にも泣き出しそうで辛い。自分がしたことなのに、答えもでないこの状況から今すぐ逃げ出したかった。ドアを勢いよく開いて駆け出した香苗を、背後から戸惑う母親の声が追いかけてくる。思いきり走る陽射しの下で、締め付けるような下腹部の違和感を感じながら香苗は構わず駆け続けた。自分はまだ子供で親になれる自信なんかない、そんなことは充分に分かっているのだ。高校生の自分が親なんて無理に決まっているって考えた瞬間、脳裏に子供の頃の自分が閃いた。
※※※
小学生の麻希子が香苗に自信に満ちた瞳で、当然のように告げた。
「私ね、雪ちゃんのお嫁さんになるの!」
それは子供にしては酷く大人びた自信に溢れる声で、香苗は戸惑った。お嫁さんになるなんて子供の頃の夢にはよくあるけど、目の前の麻希子は夢見勝ちな少女ではない。お菓子も上手に作ってみせたり、香苗より幾つも女の子らしいものを持っているのに香苗は気がついている。しかも、一人先にお嫁さんになるだなんて、先に行きすぎるにも程があるだろう。彼女の言う雪ちゃんは、従弟だと麻希子が教えてくれたのを香苗は覚えていた。大体にして自分の従兄達を思い浮かべるが、あいつらのお嫁さんになるなんて考えるだけでも気持ち悪い。
「従兄なのにベッタリなんて気持ち悪い。」
香苗の言葉に凍りついた麻希子に、香苗は安堵する。これで、麻希子にお嫁さんの夢を諦めさせる事が出来るんだと理解した。
「血が繋がってるんでしょ?結婚出来ないんだよ?それなのにベッタリ何時もくっついてて気持ちわるーい。」
凍りついただけでなく青ざめた麻希子の顔に、香苗は言い過ぎたかなと戸惑う。でも、間違ってないと香苗は自分の心に言い聞かせて、記憶を忘れるように蓋をした。
※※※
鮮やかに思い出した言葉に、子供じみた嫉妬と愚かな優越感を見つけて香苗は涙が溢れるのが分かった。従兄のお嫁さんになるんだと嬉しそうだった麻希子の傷ついた顔に、自分の言葉が正しかったのだから自分は悪くないと自分に言い聞かせていた。麻希子はあの後どうしたのかすら記憶にない。沢山傷つけてしまってきたのに、もう一度仲良くなんて虫がよすぎるんだと香苗は、息を切らせながら自分があの公園まで駆けてきていたのに気がつく。矢根尾に淫らな事をされたあの木立は工事用の囲いの中に消えているのに気がついて、香苗は呆然と立ち尽くした。
自分だけが置き去りになってるみたい。
世の中の全部が自分を置き去りにして、変わっていくみたいに感じて香苗は木立のあった場所を見つめながら公園を歩き出す。沢山の子供の声とそれを見守る母親の声に溢れる公園の中は、矢根尾に木立の暗闇で無理矢理犯された場所とは別世界だった。それに香苗は嗚咽が込み上げそうになる。
全然違う。私があいつに乱暴されたのと同じ公園なのに、ここにいる人は皆眩しくて綺麗で私と違うんだ。
目眩がして思わずベンチに腰かけると、眩い陽射しの中に白磁のようなマンションがそびえているのに今更気がつく。そのマンションはついこの間手を引かれ足を踏み入れた、ファミリー型マンションなのに今更香苗は気がついた。公園からこんなに簡単に見えるなんて、気がつきもしなかったと香苗は息を飲む。
先生がこの子のパパなら。
あの時の思いがもう一度甦る。何で、そんなことを考えてしまうのか、と香苗は自分に問いかけた。子供じみた空想だとわかっているけど、彼がこの子供の父親だとしたら。自分を抱きしめて守ってくれた腕の暖かさと逞しさは、鮮やかに記憶の中に浮かび上がる。揺るぎもせずに自分を抱きしめて、暴力から庇ってくれた胸の暖かさも分かっている。かけてくれたジャージの暖かかったことも、今でも思い出せる。あんなとこで颯爽と姿を見せて、助けてくれたからって勘違いしてるんだろうか。ポケットのスマホが突然震えて、香苗はLINEを開く。
《香苗、今何処?》
既読になったからか、麻希子は直ぐ様メッセージを打ち込んでくる。
《どうかしたの?おばさんと喧嘩でもした?おばさん慌てて探してたよ?》
メッセージは直ぐ様既読。だけど、香苗は何て答えていいか分からなかった。喧嘩をしたわけではないが、逃げ出してきたのは事実だ。先生に泣いてもいいから話し合えとあれ程念をおされていたのに、そう考えると再び土志田先生の顔が頭に浮かぶ。矢根尾と違って短髪の髪は毛質が固そうで、その目は穏やかだけど綺麗な切れ長の瞳だ。
《麻希子、好きな人っている?》
唐突に自分が問いかけた言葉に、麻希子はお嫁さんになると言った従兄のお兄ちゃんがまだ好きなのかなと考える。何処か今の麻希子は同級生の香坂にも惹かれているようだけど、本心はどうなんだろう。
《香苗、会って話さない?今何処?》
既読の後に暫くの無言は、思うのと違う麻希子の反応に香苗が戸惑ったからだ。麻希子がもし従兄でない人が好きだと答えたら、香苗があの時麻希子の大事な恋心を潰した事になるんだろうか。だとしたら、香苗は本当に意地悪な子供で、人の気持ちなんか考えもしない人間なのだろう。
《マンションの近くにある工事中の公園にいる。》
それだけで麻希子は場所が分かったみたいで、暫くすると公園の入り口に走って姿を現した。麻希子がさっきの自分と同じてゼエゼエしなから駆け寄ってくるものだから、香苗は少し驚いたみたいに目を丸くする。
「何で、そんなにあわててんの?麻希子。」
「だ、だって、香苗どっか行きそうかなって焦った。」
麻希子の声に驚いて目を丸くしながら香苗は膝の上に顎をのせて少し笑った。息を整えながら隣に座ると、香苗は同じ体勢のまま麻希子の姿を眺める。麻希子は確かに大きくなったけど、やっぱり子供の時と変わらずに純粋な麻希子のままに見えた。
「日曜、プール行けなくて残念だったね、また今度行こうね?楽しかったよ。後ずっと前に約束してたスイーツバイキングもね。」
「うん、そうだった。あの時約束してたのにね、すっぽかしてごめんね。」
凄く素直にごめんが口から出てくる。あの時は矢根尾に会うのに必死で、麻希子の事なんて考えもしなかった。ずっと前から楽しみにしてたのに、麻希子は凄く残念だったに違いない。
「香苗、前に気に入らないって言ってたけど、早紀ちゃん凄くいい子だよ。きっと仲良く出きるから、一度一緒に行ってみよう?ね?」
「うん、そうだね。」
以前香苗が麻希子と話した時は、志賀は何処か浮世離れして香苗にとっては邪魔な存在だった。でも、志賀は頼んだわけでもないのに、香苗を麻希子と一緒にあの好奇の視線から助け出してくれたのだ。少しの無言の後に躊躇いながら香苗が口を開く。
「あのね、ホントは麻希子と志賀さんが、あの時助けてくれたの嬉しかった。」
「そっか。」
香苗の言葉に麻希子は心から嬉しそうに笑う。そんな風に笑える麻希子は、本当に優しいんだと気がついて香苗は言葉につまる。
「香苗?」
「うん。」
「何か悩んでる?」
麻希子の言葉に香苗は黙りこんで、公園の木立の向こうに見える高いマンションを眺める。あのマンションには土志田先生が住んでて、お腹にいる赤ちゃんの父親だったら良かったなんて考えてる。暑苦しい蝉の声がするのに、木立の影になったベンチは何処と無く温度が下がって冷たい風が抜けた気がした。
「可愛いね、小さい子って。」
唐突な香苗の言葉に麻希子もつられて、遊具で母親に見守られながら遊んでいる子供達を眺める。何で唐突にそんなことを言い出したのか麻希子は戸惑っていると思うのに、香苗の瞳は涙に濡れていく。
「あたし、赤ちゃんが出来ちゃったの。」
震えながら言う声に麻希子は驚いたのだろう言葉を失った。
「あの人と結婚するの?」
震える声が香苗に問いかけ、香苗はその言葉に深い後悔に包まれる。その言葉に香苗は泣き笑いしながら、私の事を見つめ首を横にふる。
「あの人、私の事好きな訳じゃなくて、玩具が欲しかっただけだったの。この間麻希子が連絡して助けてくれた時ね、やっと、わかったの。」
矢根尾の告げたことを改めて口にすると、胸が鋭く痛むのを香苗は感じた。愛しているからではなく愛されていなかった事に、見ないふりをした自分が分かるから香苗は大粒の涙を溢す。ハンカチを差し出して涙を拭ってくれる麻希子に、香苗はありがとと小さく呟く。
「赤ちゃん、どうするの?」
「この子お父さんが誰か分かんないの。自分が馬鹿であんな人に好きなようにさせたのが悪いんだけど。だから、私もどうしたらいいか、まだ分かんないの。」
麻希子が再び絶句してしまうのは、当然の事だと香苗も思う。父親が分からない不特定多数との性行為なんて、高校生がするはずないのが普通だ。そんなことがあり得るなんて事すら、麻希子は考えもしないに違いない。麻希子は少し怯えたように見える視線で、それでも真っ直ぐに香苗の事を見つめる。
「あの人知ってるの?赤ちゃんの事。」
「うん、出来たって話したら俺の子供の証拠なんかないだろって。他の奴の子だろって。」
香苗の告げた矢根尾の言葉に、香苗以上に麻希子は傷ついた表情をした。それに香苗の方がはるかに驚き、目の前で泣き始めた麻希子を戸惑いながら見つめる。
「何で泣くの?」
香苗に言われて初めて自分が泣き出していたのに気がついたみたいに、麻希子は更に顔をクシャクシャにして泣き出す。麻希子が唐突に香苗に抱きついてしがみつくみたいにして泣き出すから、香苗まで我慢できなくなって泣き出した。暫くそうして2人で肩を寄せて辺りも気にせず泣いていたら、ふと頼りない足音がして2人とも顔をあげる。2人の目の前に1歳越したばかりくらいの小さな男の子がクリクリの目を丸くして、泣いていた私達を見上げた。
「ねぇね、たい?かな、たい、ウエーンすゆ。」
カナ?思わず香苗と私が顔を見合わせると、その子は言葉が通じなかったのも気がつかないで必死にポケットを探る。小さな手に同じくらい小さな飴玉を乗せて差し出した子供に2人は目を丸くした。この年頃の子供って自分の大事なものをあげる事が出来るのかと呆然とする。
「ウエーンに、しんにぃくれるの!かな、あげゆ!」
ああ、この子のお兄さんは泣いてるこの子を慰めるのに飴玉をくれるんだ。だから、この子は泣いてる私達を同じように慰めようとしてるんだ。と、思うと香苗は余計に涙が溢れる。自分のお腹の中にも、こんな子がいるのかもしれないのだと改めて考えたのだ。
「あい、たいないない!」
思わずその小さな紅葉みたいな手から飴玉を受けとる。
「奏多、あらやだどうしたの?」
「おかしゃねぇねウエーンの、かな!ないないのー!」
その力一杯の男の子の満足げな微笑みに、思わず泣きながら2人は顔を見合わせる。お腹の中に同じような命が育ってると考えながら、お母さんに手を引かれて香苗と似た名前のカナタ君が元気にバイバイと手を振る。麻希子と2人で手をふりながら、香苗はその小さな背中を見送っていた。
※※※
家に帰ると告げたのに家に帰る気にもなれずに、香苗は夕暮れまでそのベンチに腰かけていた。先生に見つかって怒られるかなと考えながら、同時に見つかりたいと考えている。日が暮れてからは公園はよい思い出がないから離れはしたけど、駅の反対側に家があるのに高架を越えることすらしなかった。スマホには何度も繰り返し母親から電話が来ていて面倒になって電源を切って、ネットカフェで時間を潰し明るくなるのを待って公園に向かう。
ここで見つかったら先生に怒られるかな?
朝日が登ってから直ぐ、小学生が朝のラジオ体操なんかするよりもっと早い。もしかして学校に行く前の土志田先生が出てくるのが見えるかもなんて考えてしまう自分は何だろう。
「香苗!」
朝日の中でいつの間にか麻希子が直ぐ傍に立っていて、香苗は驚いたように目を見開いて麻希子を見上げる。
「おばさん、心配して探してるよ?ここに探しに来なかった?」
「今、ここに来た。麻希子、何でここに?」
「何となく?」
その答えに麻希子らしいと思わず笑いが溢れる。香苗は小さく笑ってマンションを見上げ、麻希子もつられたようにマンションを見上げた。代わり映えのない何処にでもありそうなファミリータイプのマンションは、朝の光の中で穏やかな日常が始まっているみたいに見える。
「夜どうしてたの?」
「ネットカフェ」
「お家帰るって行ったのに!帰んないなら私の家来ればよかったよ!」
心配したんだからと麻希子が不貞腐れたように頬を膨らませるのに、香苗は少し可笑しそうに笑いながら次はそうすると答えた。そしてまたついマンションを眺めるから、麻希子が不思議に思って一緒に横に座りながらマンションを眺める。
「あのマンション何?」
「お腹に他の人の赤ちゃんがいるのに、別な人好きになるっておかしいよね?」
唐突だと分かっているのに言葉にしたら、凄く納得できた。自分はいつの間にか本気で、土志田先生の事が好きになってしまったのだ。麻希子は土志田先生があのマンションに住んでいるのは知らないで、香苗の言葉の意味が分からない様子だ。香苗は少し自嘲気味な溜め息をついて俯く。
「自分でもよく分かんないの、お腹の赤ちゃんの事考えなきゃって思ってるし考えてる。でも、一緒にずっと頭にその人の事ばっかり浮かんでて、気がついたらここで見てるの。」
何度もお腹の赤ちゃんの事を考えるのに、お腹の赤ちゃんの父親が先生だったらなんて考えてしまう。赤ちゃんの事もあるけど一緒に先生の事も考えて、気がついたらここに来てしまっているなんて説明のしようがない。それでもこれ以上お家に心配かけるのはよくないっと麻希子に諭され、素直に香苗は頷いて立ち上がった。隣で麻希子が自宅に電話して怒られるのを聞きながら、家の母親も同じように怒っているのかなとうっすら考えた。
「好きな人って香苗の気持ち知ってるの?」
無言が辛かったのか、麻希子が小さな声で問いかける。香苗は素直に小さく首を横にふった。矢根尾と付き合っていたのとは違う、先生は生徒としてしかみていないのなんか分かりきってる。それでも、自分は問題ばかりの厄介者なのに、先生はちゃんと助けてくれた。
「そんな気持ちじゃなかったと思ったんだけど、気がついたら凄く好きみたい……。」
ポツリと呟いた言葉は、凄く心の中を素直に言葉にしていた。矢根尾の気を惹こうとしていたのとは違う、相手に無理強いしたいわけではない好きだと言う気持ち。
そんなことを考えながら2人でポツリポツリと会話しながら駅前の街に差し掛かった時、不意に香苗の名前が呼ばれた。一瞬その声を聞いた途端、走って逃げたい衝動に刈られる。
「カナ!なんでLINEスルーしてんの!?」
「カナちゃん、矢根尾さん知らねぇ?」
何でこんな朝早くにと思ったけど、どう考えても梓と茂木達がラブホテル帰りなのは目に見えていた。何が気に入ったのか梓は3人でホテルに行くのが楽しいらしく、何度も茂木達とつるんでいる。その上、まるで売春の斡旋みたいに同級生の女の子を呼び出して、茂木達にあてがいまでしてお小遣いを貰っていた。
暫くLINEを無視していたから、昨日の梓の動向まで香苗も気にしていなかったのだ。つい今しがたホテルを出たのだろう3人とも同じ強いシャンプーの臭いがして香苗は吐き気を感じながら俯き、自分の腕をとった麻希子がジリジリと後退るのを感じた。
「何で宮井と仲良くしてるわけ?カナの親友はあたしでしょ?どういうつもりよ?」
親友って自分から言うものじゃないし、あんたは親友だなんて思えない。
矢根尾の言葉で梓が性行為の最中だけでなく調子にのって、何度も香苗を奴隷扱いしたのを忘れられるはずがない。しかも、麻希子は怯えているのにしっかりと香苗の腕をとって、大事なものを守るように腕を抱き締める。その暖かさは土志田先生の腕と良く似ていて、香苗は微かに微笑んだ。香苗はその暖かさに背を押されるように、彼らをその視線で真っ直ぐ見つめた。
「もう、嫌なの。」
香苗の小さい呟きは、まだ朝早い街並みに奇妙なくらい綺麗に響いた。思いもよらない言葉だったのか、梓と男達が眉をあげるのが見える。
「何がやなのよ?喜んでた癖に!」
突然梓が怒鳴りつけ香苗の肩を突き飛ばす。麻希子が腕を掴んでなかったら、香苗はそのまま道路に尻餅をついただろうが香苗は怯まないで大きな声で口を開く。
「喜んでなんかない、嫌だったけどずっと我慢してた!我慢してきたけど、もう嫌!私はもう嫌!!」
鋭い言葉に梓が逆に怯んで後退る。梓の姿に茂木がまぁまぁと割り込んで前に出てくるのに、香苗は思わず言葉を続けるのを躊躇った。茂木が腕を抱き締めている麻希子に目を向けるのが分かる。
「あれぇ、誰かと思ったら最初の合コンの時の処女かぁ?」
茂木のあからさまな表現に、麻希子の顔が赤くなる。茂木がニヤニヤしながら近寄って、麻希子が怯えながら必死に睨む。
「丁度いいじゃん、カナちゃんに矢根尾さんの話聞きたいし。処女貫通してみたかったんだよな、オレ。」
グイと麻希子の腕を掴んだ茂木の言葉に、麻希子が青ざめるのが分かる。街中なのに相手は慣れたように麻希子と香苗を引き離しにかかっていて、香苗は何とか麻希子を逃がさないとと心が呟くのを聞いた。
「やめてよ!茂木さん!麻希子は関係ないじゃない!」
香苗が必死に叫び茂木の手を、麻希子の腕から払い落とし背中に庇う。誰かに助けて欲しくても、今までの事で他人が助けてくれたことなんかなかった。だって皆だって乱暴な男に関わりたくなんかないし、尻軽な女子高生なんかどうでもいいんだ。
「まぁまぁ、カナちゃん、オレらの仲じゃん?いい子にしてなよ、そしたら何時もみたいに気持ちよくしてやるから。」
「嫌って言ったでしょ!耳聞こえないの?!」
その言葉に一瞬で貞友の顔色が変わるのが視界に見えて、香苗は危機を感じていた。矢根尾と同じくらい貞友はキレやすくて、痛いことを平気でする男だって香苗も知っていた。何とかこの場から逃げようと思案するつもりで、相手が腹をたてるような言葉を放ってしまったのだ。貞友の動きは早く気がついた時には、香苗の下腹部に黒の厚ゾコ靴がめり込んでいた。麻希子ごと蹴り飛ばされ道路に転げると、痛みで視野が一瞬暗くなるのが分かる。
「あーあ、貞友を怒らせたら駄目だよ、カナちゃん。」
茂木が笑う声がするのに、麻希子を守ろうにも下腹部に痛みが弾けて身動きがとれない。茂木に乱暴に腕をとられた麻希子が、ジタバタしながら泣き出しそうになってるのが分かる。その時視界に大きな背中が入り込んだと思うと、もう一撃蹴りつけようとしていた貞友が綺麗に弧を描いて宙を舞った。しかも路上で袖をとったまま首に腕が回ったかと思うと、貞友の顔色がみるみる青くなって行く。それをしている人が、香苗の頭上に向かって声をあげた。
「雪、頼むから大怪我させるなよ?」
「知るか、クズは死ねばいいんだ。」
視界に見える土志田先生は、貞友が失神したのを確認して腕を離すのが分かった。そう言えば土志田先生は柔道部の顧問だったっけとボンヤリ考えながら、真横を見上げると香坂君にどことなく似た背の高い青年が無造作に茂木の股間を蹴りあげる。茂木が苦痛に呻きながら踞るのに氷みたいな目で見下ろして、更に足を降りあげる姿はこっちまで蹴られそうで正直怖くなった。呆然としている麻希子も、目の前で何が起こっているのか分かってないみたいだ。
「ゆーき!お姫が見てるぞ!お姫が泣く!!」
延びている貞友の袖を掴んだだけの土志田先生が、変な言葉を投げるとその人は我に帰ったように麻希子を振り返った。骨折れたりしてない?と過保護に麻希子に詰め寄る顔は、さっきまで氷のような目をしてたとは思えない変わりようで、麻希子も反応に困ってるのが分かる。
ああ、この人が麻希子の言ってた従兄の雪ちゃんなんだ。なんだ、私の言ったことなんて何も2人の事引き離した訳じゃなかったんだ。
2人の寄り添う姿に、自分が意地悪で告げた言葉は無意味だったことが分かって香苗は少し安堵した。安堵した途端、全身の血液が足に下がっていくような感触に飲み込まれる。そして、何かがお腹の中で弾けて失禁したような、溢れ出す感触が痛みと同時に体を包む。
「ま、まきこ。」
困惑に震える香苗の声に、麻希子が我に返って隣に転がったままの香苗に視線を返す。さっきまでと違って紙よりも白い顔になった香苗が、蹴られた下腹部を押さえて震えていた。ジワジワと足元に股の間から溢れる水っぽい血液が滲み出して、道路のアスファルトに金気臭い臭いと共に広がっていく。香苗は痛みで気を失いそうになりながら麻希子の手を握るが、出血はどんどん広がり続けていた。
※※※
土志田先生が救急車を呼んでくれて、担架に乗せられた時に母が丁度騒ぎの中に姿を見せた。先生が電話してくれたんだって分かったけどお礼を言う余裕もなくて、痛みに震えながら香苗は母親の手を握りながら総合病院に運ばれそのまま処置を受ける。貞友に強く下腹部を蹴られた事で、香苗は流産してしまったのだ。
ベットの上で真っ白な天井を眺めながら、腕に針を刺され点滴をされる。香苗にとっても両親にとっても、流産した事はある意味では幸運なのだろう。正直香苗にはまだ親になる自覚も自信もなかったのだから。香苗が気を失って眠っているうちに、お腹の中の赤ちゃんもその子のためのお腹の中の変化も掻き出して消え去った。
なんでなの?良かった筈なのに、凄く悲しい。
愚かな自分に生まれた生命が、自分の過ちのせいで失われたことが酷く悲しい。白い天井を見つめながら泣き続ける香苗は、自分の下腹部を手で押さえながら涙を流し続けていた。
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