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1巻
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第一章 桜に導かれて
「あっちへ、行けー!」
目の前でうずくまっている子猫を助けたくて、私――七海結月は、足元に落ちていた棒切れを拾うと、自分よりも体の大きな男の子たちに突進した。
「うわっ、なんだこいつ」
「痛っ! 尻を殴るなよ!」
「あんたたちだって、さっきその子を棒で殴ってたじゃない!」
「殴ってへん。ちょっとつついただけや!」
「その子、鳴いて嫌がってたもん!」
もう一度、棒切れを振り上げたら、男の子たちは毒づきながら、走って逃げていった。
ほっと胸を撫で下ろし、震えている子猫のそばにしゃがみ込む。
「大丈夫?」
私は子猫にそっと話しかけた。白い毛並みがふわふわで、耳が尖り、鼻先の長い子猫は、私の顔を見上げると、小さな声で「コン」と鳴いた。
「怪我してない?」
男の子たちにいじめられていた様子だったので、心配になって尋ねる。よく見ると、子猫の脚から血が出ていた。
「包帯してあげるだけだからね。怖くないからね」
私はスカートのポケットからハンカチを取り出すと、子猫に話しかけながら、丁寧に脚に巻きつけて、きゅっと結んだ。子猫はされるがままになっている。
「痛かったね。ごめんね。あいつら、今度同じことしてたら、とっちめてやる」
ゆっくりと子猫の頭を撫でる。子猫は私の言葉がわかっているかのように、目を細めた。
可愛い子猫のそばから離れがたくて、ずっと頭を撫でていると、不意に、私の背後に誰かが立った気配がした。びっくりして振り向いたら、そこにいたのは、白い着物に赤い袴、黄金色の上着を羽織った、長い髪の、目が眩むほど美しい女性だった。
「……!」
私がぽかんとしていたら、女性はすっと膝をかがめ、白魚のような指で子猫を抱き上げた。
「あ、あの……その子、どこへ連れていくの?」
おそるおそる尋ねる。女性は切れ長の目をわずかに細め、薄い唇を開いた。
「お山へ連れ戻すのじゃ。どうやらこの子は、幼いゆえ、お山から迷い出てしまったようじゃ。我が眷属を助けてくれたこと、感謝する。娘、名はなんという?」
「七海結月」
「結月か。心優しいそなたに、礼をしておこう。今後、何か困ったことがあった時、我が眷属がお前を助けるように、しるしを授ける。後ろを向くがよい」
女性は私に背中を向けるように促した。この女性が何者なのかよくわからなかったけれど、どうしても言うことを聞かなければならないような気持ちになり、私は素直に後ろを向いた。
すると、ひやりとした指で髪をかき上げられ、その後、首筋に、同じくひやりとした柔らかな感触があった。
えっ、何をしたの?
慌てて振り返ると、そこにはもう、女性の姿も子猫の姿もなかった。
*
「ん、ん~、こねこ……」
寝言をつぶやき、私は目を覚ました。
いつの間にか眠っていたようだ。
なんだか子どもの頃の夢を見ていた気がする。稲荷山の夢、だったような……。
ぼんやりしていると、車内チャイムが鳴った。続けて「まもなく京都です」という放送が流れる。
私は、「今日も新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございました」という言葉を聞きながら立ち上がった。スーツケースを引いて、デッキへ向かう。
私の乗った新幹線は、京都駅のホームへ滑り込んだ。
大学卒業後、東京の企業に就職し、順調に社会人経験を積んでいた私が、退職して実家に帰ろうと決心したのは、一ヶ月前のこと。
ある日の朝礼で、直属の上司の婚約が発表された。相手の女性は私が入社時からお世話になっていた先輩で、キツいところもあるけれど、面倒見のいい人だった。皆が拍手し、お祝いムードに包まれる中、私は呆然と立ち尽くしていた。
部長と結婚するのは、私じゃなかったの? だって「結婚するなら、七海みたいな優しい子がいいな」って言ってくれていたじゃない。
部長の隣に立つ先輩が幸せそうに笑っている。
部長と先輩が付き合っていたなんて知らなかった。部長の恋人は、私だと思っていたから。
「どうしたの? 七海さん、顔色が悪いわよ」
お祝いを受けていた先輩が、私の様子に気が付いた。足早に歩み寄ってきて、顔を覗き込む。
「体調悪い? 大丈夫?」
心配してくれる先輩を見て、胸がぎゅっと痛くなる。
「……大丈夫です。でも、すみません。私、今日は早退します」
ぺこりと頭を下げて自席へ戻り、バッグを手に取る。振り返って部長を見たら、すました顔で笑っていた。その瞬間、自分は部長に遊ばれていただけなのだとわかった。
「失礼しますっ……」
一礼し、会社を飛び出す。
ビルの外に出た途端、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
退職を決意してからの一ヶ月は長かった。二股をかけていたことに対する謝罪などはもちろんなく、部長は、私との関係はなかったかのようにふるまった。先輩は何も知らない様子だったし、他の人に相談するのも憚られて、私は泣き寝入りをした。
二人から逃げるように三年間勤めていた会社を辞めた私は、心の傷を癒やすために、実家のある京都へ帰ることにした。
新幹線を降りて、JR奈良線に乗り換える。実家の最寄り駅は、京都駅から電車で五分というアクセスの良さだ。
稲荷駅に降り立ち、改札から外へ出ると、私は目を見張った。
「うわっ、相変わらず人が多いなぁ~!」
稲荷駅は、全国のお稲荷さんの総本宮である伏見稲荷大社の目の前だ。観光客が続々と、大きな朱色の鳥居を潜っていく。
「子どもの頃はこんなに人がいなかったのに、最近はいつ来てもすごい」
外国人観光客で賑わう参道の様子を眺めた後、鳥居に向かって軽く会釈をして、実家のある方向へ歩き出した。
実家は、稲荷駅からそれほど離れていない。築三十五年の一戸建てに辿り着くと、玄関の扉を開けて声をかけた。
「ただいまー」
するとすぐに母親が顔を出し、私の姿を見て目を丸くした。
「おかえり、結月。なんや、言うてた時間より早かったやん。夕方になるて言うてへんかった?」
「新幹線のチケットが取れたから、早めに帰ってきた。はい、これお土産」
持っていた紙袋を差し出すと、母親は「おおきに」と言って受け取った。
「遠いところからお疲れさん。はよ、上がり。お茶淹れたげるわ」
よいしょとスーツケースを持ち上げ、母親の後について居間に向かう。
「あっ、お義姉さん。お久しぶりです」
襖を開けて中に入ると、兄嫁の沙苗さんが、一歳になる甥の巧斗を抱いて、寝かしつけているところだった。
「久しぶり、結月ちゃん。去年の夏以来やね」
沙苗さんが、巧斗の背中をぽんぽんと叩きながら、私に笑顔を向ける。
「巧斗、結月ちゃんが帰ってきはったよ」
「う~ん……」
甥の巧斗は、とろんとした目で私を見たけれど、すぐに母親の胸に顔を埋めてしまった。
「今、ちょっとおねむやねん」
「巧ちゃん、大きくなりましたね」
スーツケースを居間の隅に置き、沙苗さんの隣に腰を下ろす。巧斗の頬を指でつついてみた。白くてふっくらとした頬は、まるでお餅のようだ。
「これからよろしくね」
沙苗さんに会釈をされて、慌てて頭を下げる。
「あっ、はい……こちらこそ。なんか、すみません。急に帰ってきちゃって」
「すみませんやなんて。ここはもともと結月ちゃんの家やん」
現在、この家には両親と、二年前に結婚した兄夫婦が住んでいる。
「沙苗さん。これ、結月のお土産。お茶淹れてくるさかい、皆で食べよか」
東京銘菓の箱を沙苗さんに手渡し、母親が台所へ入っていく。沙苗さんは「ありがとう」と私にお礼を言い、巧斗を抱いたまま、器用に包装紙を破り始めた。
「わっ、何これ、可愛い。ラッコの形?」
箱の蓋を開け、沙苗さんが歓声を上げる。
「東京限定っぽいです」
ラッコの絵が描かれたスポンジケーキには、中にコーヒー牛乳味のクリームが入っているらしい。
母親がお茶を淹れて戻ってくると、私たちはいそいそとラッコに手を伸ばした。愛嬌のあるラッコに齧り付くのはなんだか可哀想な気がしたので、二つに割り、口に入れる。
確かにクリームはコーヒー牛乳の味だった。
「これ、おいしいわぁ。樹さんの分も食べてしまいそう」
「ええんちゃう? あの子、あんまり甘いもの食べへんし」
沙苗さんと母親の京都弁を聞きながら、ほっこりした気持ちでお茶をすする。
帰ってきたんだなぁ、私……。やっぱり、実家は落ち着くなぁ。
――などと、しみじみしていたのは最初のうちだけだった。
かつて自分が住んでいた実家は、今ではすっかり両親と兄夫婦の家に変わっていた。突然、東京から帰ってきた私はもはやよそ者で、居場所などないことに気が付いた。
私がもともと使っていた部屋は、とっくの昔に兄夫婦の寝室に変わっていた。新しくあてがわれたのは、私が子どもの頃から、物置代わりに使っていた部屋だった。「ここしか部屋が空いてないし、片付けたら大丈夫やろ」と母親に言われ、整理はしたものの、狭い上に日当たりが悪く、居心地がよくない。
階下から、巧斗の盛大な泣き声が聞こえてくる。沙苗さんに、巧斗のお世話で何か手伝えないかと言ってみたこともあるけれど、逆に「うるさくしてごめんね」と謝られてしまい、申し訳ない気持ちになった。
次の仕事を見つけるまでの間、節約も兼ねて、実家でのんびりしようと思ったのは、私の甘えだった。きっと両親と兄夫婦に迷惑をかけているよね……。
こんなことなら、一人暮らしを続けたほうがよかったな。早く次の仕事と新居を探さないと。
私は、読んでいた文庫本に栞を挟み本棚に戻すと、部屋着を脱いだ。箪笥からシャツワンピースを取り出して着替え、スプリングコートを羽織る。
気晴らしに、河原町にでも行こう。
ハンドバッグを手に階段を下り、玄関に向かう。私の足音に気が付いたのか、母親が居間から顔を出した。
「あら、あんた出かけるの?」
「うん。ちょっと河原町に行ってくる」
「そうなん? 夕飯までには戻るんやろ? 今日はお鍋やから、遅れんといてね」
「わかった」
適当に返事をしながら、靴を履いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母親の声を聞きながら、玄関を出る。
京都一の繁華街、四条河原町へ行くには、JRよりも京阪電車のほうが便利だ。観光客の多い伏見稲荷大社の前を通り過ぎ、京阪電車・伏見稲荷駅へ向かう。
踏切を渡り、改札を抜ける。カンカンカンと踏切の音が響いた後、緑色の車体がホームに滑り込んできた。観光客たちと一緒に電車に乗り込み、空いている席に座る。
祇園四条駅に着き、地下から地上へ出ると、桜で彩られた鴨川の風景が目に飛び込んできて、私は声を弾ませた。
「わぁ! 咲いてる!」
ここ数日、気温が高かったので、一気に花が開いたのだろう。今日は天気もいいので、河川敷にたくさんのカップルが座っている。
とりあえず町に出てきたけれど、何をしよう?
特別、どこか行きたい場所があるわけではないので目的地に迷う。
ウィンドウショッピングでもしようかな? 久しぶりに来たから、何か新しいお店ができているかも。
ぶらぶらと四条通を歩く。木屋町通に差しかかったところで、私は思わず足を止めた。
「綺麗……!」
高瀬川沿いに植えられた桜の木が満開だった。
ちょっと見ていこうかな?
木屋町通は南北に延びる、車一台分ぐらいの幅の道で、居酒屋やクラブといった夜の店が多い。一方で、廃校になった小学校がリノベーションされ、ホテルや飲食店に変わったおしゃれなスポットなどもある。
高瀬川は、江戸時代初期に、物流のために作られた京都と伏見を結ぶ運河だ。高瀬川の名前は、荷物を運んでいた高瀬舟から来ているらしい。昔は、荷物の上げ下ろしをするために船を接岸させていた、船入という入り江が九ヶ所あったそうだけれど、今は一之船入だけが残っている。
ぽかぽかとした陽気と、桜並木、さらさらと流れる小川のせせらぎに癒やされながら、私は無心に歩いた。
気が付くと、私は三条通に辿り着いていた。このあたりにタルトで有名なケーキ屋があったはずだと思い出して行ってみると、順番待ちの客が溢れていた。
「食べたいけど……時間がかかりそう」
肩を落としてタルトは諦める。ここまで来たのだから、どうせなら、一之船入の桜も見ていこう。
御池通を越え木屋町通をさらに北上すると、川幅が広くなり、小舟が浮かんでいる場所に出た。ここが一之船入だ。復元された高瀬舟と桜の組み合わせが絵になり、私はスマホで写真を撮った。こういう風景を見ると、やはり「京都っていいな」と思う。
しばらく一之船入を眺めた後、私は踵を返した。
タルト……やっぱり食べたいから、お店に並ぼうかな。
そんなことを考えながら、来た道を戻っていると、ふと、歩道に置かれた黒板が目に入った。カラフルなチョークで文字が記されている。
「『人材派遣会社セカンドライフ。あなたの第二の人生を輝かせるお手伝いをいたします。お気軽にお入りください』……?」
黒板の隅に、なぜか狐の絵が描かれていた。
『セカンドライフ』? 定年退職した人や、お年寄りのための人材派遣会社なのかな?
現在は無職の身。近々、仕事を探さなければいけないので、どんな会社なのか気になった。黒板の裏を見てみると、A4サイズのコピー用紙が貼ってあり「従業員募集中。給与、雇用形態、勤務時間、応相談。各種保険、寮有り」と書かれていた。
んっ? 寮有り?
居心地の悪い実家を思い出す。寮付きの会社に転職――いいかもしれない。
私は人材派遣会社『セカンドライフ』が入居している建物に目を向けた。雰囲気のいい町家だ。格子の出窓に近付いて覗いてみたけれど、意外と中が見えない。
様子がわからないけど、お気軽にお入りくださいって書いてあるから、入ってみてもいいのかな?
気になって町家の前をうろうろしていたら、いきなり、入り口の戸がガラッと開いた。町家の中から出てきた人物を見て、私はぽかんと口を開けた。
美人だ。絶世の美人がいる……!
スーツ姿の若い男性は、透き通るような白い肌をしていた。黒髪には艶があり、目元は涼やか。すっと通った鼻筋は高く、薄い唇は形がいい。神様が他の人間の誰よりも気合いを入れて作ったのではないかと思えるぐらい、整った顔立ちだ。咄嗟に「絶世の美人」という表現が出てきたのは「この人が女性だったら、傾国の美女になってもおかしくないな」と思ったからだ。
芸能人……ううん、それ以上。
ぼうっと彼の顔を見つめていたら、黒い瞳がこちらを見た。
不躾に見ていて、失礼だったかな?
慌てている私に、彼が柔らかな言葉遣いで話しかけてきた。
「お待ちしてました。なかなか来はらへんから、道に迷わはったんかと思ってました。中へどうぞ」
にこりと笑って促す。その笑顔が美しすぎて、目眩がした。
「あっ……はい」
私は反射的に頷き、彼の後についていった。
町家の中はリノベーションされていて、現代風のオフィスだった。手前が応接コーナー、奥が事務スペースになっている。
事務スペースの壁際には、スチール製のキャビネットがあり、整然とファイルが並べられていた。オフィスデスクの上にはデスクトップのパソコンが二台置かれていたけれど、稼働しているのは一台だけのようだ。男性以外に従業員がいる様子はない。
「こちらへどうぞ」
男性が手のひらで応接コーナーを指し示した。私は言われるがまま、二人掛けのソファーに腰を下ろし、その段階で、ようやく我に返った。
あれっ? 私、なんでこの人についてきたの?
まるで不思議な力に導かれるみたいに、自然と事務所の中に入ってしまった。
男性が向かい側のソファーに座る。微笑みを浮かべて、私に会釈をした。
「今日は弊社の面接にお越しいただいて、ありがとうございます、和田さん。僕は所長の九重と申します。さっそく面接を始めさせていただきたいのですが、履歴書はお持ちですか?」
何か勘違いをされているとわかり、私は慌てて胸の前で手を振った。
「私、面接に来たわけではないです!」
「えっ? では、あなたはなぜここに?」
長い睫毛を揺らして目を瞬き、小首を傾げた九重さんに、「すみません」と頭を下げる。
「道を歩いていたら看板を見つけて……気になって見ていたんです。声をかけられたから、なんとなくついてきちゃいました……」
「あれっ? もしかして、僕、人違いをしてしまったんやろか? 事務所の前にいてはるから、てっきり面接に来はった人やって思い込んでしもた」
九重さんは私の弁明を聞いて、目を丸くした。
「今日、どなたかが面接に来られる予定だったんですか?」
「そうです。十五時の約束やったんやけど……。ドタキャンされたんかな」
面接のドタキャンなんて、お気の毒。
「まあでも、責任感のない人やってわかってよかったです」
九重さんはサバサバした様子で言って、立ち上がった。
「あっちへ、行けー!」
目の前でうずくまっている子猫を助けたくて、私――七海結月は、足元に落ちていた棒切れを拾うと、自分よりも体の大きな男の子たちに突進した。
「うわっ、なんだこいつ」
「痛っ! 尻を殴るなよ!」
「あんたたちだって、さっきその子を棒で殴ってたじゃない!」
「殴ってへん。ちょっとつついただけや!」
「その子、鳴いて嫌がってたもん!」
もう一度、棒切れを振り上げたら、男の子たちは毒づきながら、走って逃げていった。
ほっと胸を撫で下ろし、震えている子猫のそばにしゃがみ込む。
「大丈夫?」
私は子猫にそっと話しかけた。白い毛並みがふわふわで、耳が尖り、鼻先の長い子猫は、私の顔を見上げると、小さな声で「コン」と鳴いた。
「怪我してない?」
男の子たちにいじめられていた様子だったので、心配になって尋ねる。よく見ると、子猫の脚から血が出ていた。
「包帯してあげるだけだからね。怖くないからね」
私はスカートのポケットからハンカチを取り出すと、子猫に話しかけながら、丁寧に脚に巻きつけて、きゅっと結んだ。子猫はされるがままになっている。
「痛かったね。ごめんね。あいつら、今度同じことしてたら、とっちめてやる」
ゆっくりと子猫の頭を撫でる。子猫は私の言葉がわかっているかのように、目を細めた。
可愛い子猫のそばから離れがたくて、ずっと頭を撫でていると、不意に、私の背後に誰かが立った気配がした。びっくりして振り向いたら、そこにいたのは、白い着物に赤い袴、黄金色の上着を羽織った、長い髪の、目が眩むほど美しい女性だった。
「……!」
私がぽかんとしていたら、女性はすっと膝をかがめ、白魚のような指で子猫を抱き上げた。
「あ、あの……その子、どこへ連れていくの?」
おそるおそる尋ねる。女性は切れ長の目をわずかに細め、薄い唇を開いた。
「お山へ連れ戻すのじゃ。どうやらこの子は、幼いゆえ、お山から迷い出てしまったようじゃ。我が眷属を助けてくれたこと、感謝する。娘、名はなんという?」
「七海結月」
「結月か。心優しいそなたに、礼をしておこう。今後、何か困ったことがあった時、我が眷属がお前を助けるように、しるしを授ける。後ろを向くがよい」
女性は私に背中を向けるように促した。この女性が何者なのかよくわからなかったけれど、どうしても言うことを聞かなければならないような気持ちになり、私は素直に後ろを向いた。
すると、ひやりとした指で髪をかき上げられ、その後、首筋に、同じくひやりとした柔らかな感触があった。
えっ、何をしたの?
慌てて振り返ると、そこにはもう、女性の姿も子猫の姿もなかった。
*
「ん、ん~、こねこ……」
寝言をつぶやき、私は目を覚ました。
いつの間にか眠っていたようだ。
なんだか子どもの頃の夢を見ていた気がする。稲荷山の夢、だったような……。
ぼんやりしていると、車内チャイムが鳴った。続けて「まもなく京都です」という放送が流れる。
私は、「今日も新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございました」という言葉を聞きながら立ち上がった。スーツケースを引いて、デッキへ向かう。
私の乗った新幹線は、京都駅のホームへ滑り込んだ。
大学卒業後、東京の企業に就職し、順調に社会人経験を積んでいた私が、退職して実家に帰ろうと決心したのは、一ヶ月前のこと。
ある日の朝礼で、直属の上司の婚約が発表された。相手の女性は私が入社時からお世話になっていた先輩で、キツいところもあるけれど、面倒見のいい人だった。皆が拍手し、お祝いムードに包まれる中、私は呆然と立ち尽くしていた。
部長と結婚するのは、私じゃなかったの? だって「結婚するなら、七海みたいな優しい子がいいな」って言ってくれていたじゃない。
部長の隣に立つ先輩が幸せそうに笑っている。
部長と先輩が付き合っていたなんて知らなかった。部長の恋人は、私だと思っていたから。
「どうしたの? 七海さん、顔色が悪いわよ」
お祝いを受けていた先輩が、私の様子に気が付いた。足早に歩み寄ってきて、顔を覗き込む。
「体調悪い? 大丈夫?」
心配してくれる先輩を見て、胸がぎゅっと痛くなる。
「……大丈夫です。でも、すみません。私、今日は早退します」
ぺこりと頭を下げて自席へ戻り、バッグを手に取る。振り返って部長を見たら、すました顔で笑っていた。その瞬間、自分は部長に遊ばれていただけなのだとわかった。
「失礼しますっ……」
一礼し、会社を飛び出す。
ビルの外に出た途端、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
退職を決意してからの一ヶ月は長かった。二股をかけていたことに対する謝罪などはもちろんなく、部長は、私との関係はなかったかのようにふるまった。先輩は何も知らない様子だったし、他の人に相談するのも憚られて、私は泣き寝入りをした。
二人から逃げるように三年間勤めていた会社を辞めた私は、心の傷を癒やすために、実家のある京都へ帰ることにした。
新幹線を降りて、JR奈良線に乗り換える。実家の最寄り駅は、京都駅から電車で五分というアクセスの良さだ。
稲荷駅に降り立ち、改札から外へ出ると、私は目を見張った。
「うわっ、相変わらず人が多いなぁ~!」
稲荷駅は、全国のお稲荷さんの総本宮である伏見稲荷大社の目の前だ。観光客が続々と、大きな朱色の鳥居を潜っていく。
「子どもの頃はこんなに人がいなかったのに、最近はいつ来てもすごい」
外国人観光客で賑わう参道の様子を眺めた後、鳥居に向かって軽く会釈をして、実家のある方向へ歩き出した。
実家は、稲荷駅からそれほど離れていない。築三十五年の一戸建てに辿り着くと、玄関の扉を開けて声をかけた。
「ただいまー」
するとすぐに母親が顔を出し、私の姿を見て目を丸くした。
「おかえり、結月。なんや、言うてた時間より早かったやん。夕方になるて言うてへんかった?」
「新幹線のチケットが取れたから、早めに帰ってきた。はい、これお土産」
持っていた紙袋を差し出すと、母親は「おおきに」と言って受け取った。
「遠いところからお疲れさん。はよ、上がり。お茶淹れたげるわ」
よいしょとスーツケースを持ち上げ、母親の後について居間に向かう。
「あっ、お義姉さん。お久しぶりです」
襖を開けて中に入ると、兄嫁の沙苗さんが、一歳になる甥の巧斗を抱いて、寝かしつけているところだった。
「久しぶり、結月ちゃん。去年の夏以来やね」
沙苗さんが、巧斗の背中をぽんぽんと叩きながら、私に笑顔を向ける。
「巧斗、結月ちゃんが帰ってきはったよ」
「う~ん……」
甥の巧斗は、とろんとした目で私を見たけれど、すぐに母親の胸に顔を埋めてしまった。
「今、ちょっとおねむやねん」
「巧ちゃん、大きくなりましたね」
スーツケースを居間の隅に置き、沙苗さんの隣に腰を下ろす。巧斗の頬を指でつついてみた。白くてふっくらとした頬は、まるでお餅のようだ。
「これからよろしくね」
沙苗さんに会釈をされて、慌てて頭を下げる。
「あっ、はい……こちらこそ。なんか、すみません。急に帰ってきちゃって」
「すみませんやなんて。ここはもともと結月ちゃんの家やん」
現在、この家には両親と、二年前に結婚した兄夫婦が住んでいる。
「沙苗さん。これ、結月のお土産。お茶淹れてくるさかい、皆で食べよか」
東京銘菓の箱を沙苗さんに手渡し、母親が台所へ入っていく。沙苗さんは「ありがとう」と私にお礼を言い、巧斗を抱いたまま、器用に包装紙を破り始めた。
「わっ、何これ、可愛い。ラッコの形?」
箱の蓋を開け、沙苗さんが歓声を上げる。
「東京限定っぽいです」
ラッコの絵が描かれたスポンジケーキには、中にコーヒー牛乳味のクリームが入っているらしい。
母親がお茶を淹れて戻ってくると、私たちはいそいそとラッコに手を伸ばした。愛嬌のあるラッコに齧り付くのはなんだか可哀想な気がしたので、二つに割り、口に入れる。
確かにクリームはコーヒー牛乳の味だった。
「これ、おいしいわぁ。樹さんの分も食べてしまいそう」
「ええんちゃう? あの子、あんまり甘いもの食べへんし」
沙苗さんと母親の京都弁を聞きながら、ほっこりした気持ちでお茶をすする。
帰ってきたんだなぁ、私……。やっぱり、実家は落ち着くなぁ。
――などと、しみじみしていたのは最初のうちだけだった。
かつて自分が住んでいた実家は、今ではすっかり両親と兄夫婦の家に変わっていた。突然、東京から帰ってきた私はもはやよそ者で、居場所などないことに気が付いた。
私がもともと使っていた部屋は、とっくの昔に兄夫婦の寝室に変わっていた。新しくあてがわれたのは、私が子どもの頃から、物置代わりに使っていた部屋だった。「ここしか部屋が空いてないし、片付けたら大丈夫やろ」と母親に言われ、整理はしたものの、狭い上に日当たりが悪く、居心地がよくない。
階下から、巧斗の盛大な泣き声が聞こえてくる。沙苗さんに、巧斗のお世話で何か手伝えないかと言ってみたこともあるけれど、逆に「うるさくしてごめんね」と謝られてしまい、申し訳ない気持ちになった。
次の仕事を見つけるまでの間、節約も兼ねて、実家でのんびりしようと思ったのは、私の甘えだった。きっと両親と兄夫婦に迷惑をかけているよね……。
こんなことなら、一人暮らしを続けたほうがよかったな。早く次の仕事と新居を探さないと。
私は、読んでいた文庫本に栞を挟み本棚に戻すと、部屋着を脱いだ。箪笥からシャツワンピースを取り出して着替え、スプリングコートを羽織る。
気晴らしに、河原町にでも行こう。
ハンドバッグを手に階段を下り、玄関に向かう。私の足音に気が付いたのか、母親が居間から顔を出した。
「あら、あんた出かけるの?」
「うん。ちょっと河原町に行ってくる」
「そうなん? 夕飯までには戻るんやろ? 今日はお鍋やから、遅れんといてね」
「わかった」
適当に返事をしながら、靴を履いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母親の声を聞きながら、玄関を出る。
京都一の繁華街、四条河原町へ行くには、JRよりも京阪電車のほうが便利だ。観光客の多い伏見稲荷大社の前を通り過ぎ、京阪電車・伏見稲荷駅へ向かう。
踏切を渡り、改札を抜ける。カンカンカンと踏切の音が響いた後、緑色の車体がホームに滑り込んできた。観光客たちと一緒に電車に乗り込み、空いている席に座る。
祇園四条駅に着き、地下から地上へ出ると、桜で彩られた鴨川の風景が目に飛び込んできて、私は声を弾ませた。
「わぁ! 咲いてる!」
ここ数日、気温が高かったので、一気に花が開いたのだろう。今日は天気もいいので、河川敷にたくさんのカップルが座っている。
とりあえず町に出てきたけれど、何をしよう?
特別、どこか行きたい場所があるわけではないので目的地に迷う。
ウィンドウショッピングでもしようかな? 久しぶりに来たから、何か新しいお店ができているかも。
ぶらぶらと四条通を歩く。木屋町通に差しかかったところで、私は思わず足を止めた。
「綺麗……!」
高瀬川沿いに植えられた桜の木が満開だった。
ちょっと見ていこうかな?
木屋町通は南北に延びる、車一台分ぐらいの幅の道で、居酒屋やクラブといった夜の店が多い。一方で、廃校になった小学校がリノベーションされ、ホテルや飲食店に変わったおしゃれなスポットなどもある。
高瀬川は、江戸時代初期に、物流のために作られた京都と伏見を結ぶ運河だ。高瀬川の名前は、荷物を運んでいた高瀬舟から来ているらしい。昔は、荷物の上げ下ろしをするために船を接岸させていた、船入という入り江が九ヶ所あったそうだけれど、今は一之船入だけが残っている。
ぽかぽかとした陽気と、桜並木、さらさらと流れる小川のせせらぎに癒やされながら、私は無心に歩いた。
気が付くと、私は三条通に辿り着いていた。このあたりにタルトで有名なケーキ屋があったはずだと思い出して行ってみると、順番待ちの客が溢れていた。
「食べたいけど……時間がかかりそう」
肩を落としてタルトは諦める。ここまで来たのだから、どうせなら、一之船入の桜も見ていこう。
御池通を越え木屋町通をさらに北上すると、川幅が広くなり、小舟が浮かんでいる場所に出た。ここが一之船入だ。復元された高瀬舟と桜の組み合わせが絵になり、私はスマホで写真を撮った。こういう風景を見ると、やはり「京都っていいな」と思う。
しばらく一之船入を眺めた後、私は踵を返した。
タルト……やっぱり食べたいから、お店に並ぼうかな。
そんなことを考えながら、来た道を戻っていると、ふと、歩道に置かれた黒板が目に入った。カラフルなチョークで文字が記されている。
「『人材派遣会社セカンドライフ。あなたの第二の人生を輝かせるお手伝いをいたします。お気軽にお入りください』……?」
黒板の隅に、なぜか狐の絵が描かれていた。
『セカンドライフ』? 定年退職した人や、お年寄りのための人材派遣会社なのかな?
現在は無職の身。近々、仕事を探さなければいけないので、どんな会社なのか気になった。黒板の裏を見てみると、A4サイズのコピー用紙が貼ってあり「従業員募集中。給与、雇用形態、勤務時間、応相談。各種保険、寮有り」と書かれていた。
んっ? 寮有り?
居心地の悪い実家を思い出す。寮付きの会社に転職――いいかもしれない。
私は人材派遣会社『セカンドライフ』が入居している建物に目を向けた。雰囲気のいい町家だ。格子の出窓に近付いて覗いてみたけれど、意外と中が見えない。
様子がわからないけど、お気軽にお入りくださいって書いてあるから、入ってみてもいいのかな?
気になって町家の前をうろうろしていたら、いきなり、入り口の戸がガラッと開いた。町家の中から出てきた人物を見て、私はぽかんと口を開けた。
美人だ。絶世の美人がいる……!
スーツ姿の若い男性は、透き通るような白い肌をしていた。黒髪には艶があり、目元は涼やか。すっと通った鼻筋は高く、薄い唇は形がいい。神様が他の人間の誰よりも気合いを入れて作ったのではないかと思えるぐらい、整った顔立ちだ。咄嗟に「絶世の美人」という表現が出てきたのは「この人が女性だったら、傾国の美女になってもおかしくないな」と思ったからだ。
芸能人……ううん、それ以上。
ぼうっと彼の顔を見つめていたら、黒い瞳がこちらを見た。
不躾に見ていて、失礼だったかな?
慌てている私に、彼が柔らかな言葉遣いで話しかけてきた。
「お待ちしてました。なかなか来はらへんから、道に迷わはったんかと思ってました。中へどうぞ」
にこりと笑って促す。その笑顔が美しすぎて、目眩がした。
「あっ……はい」
私は反射的に頷き、彼の後についていった。
町家の中はリノベーションされていて、現代風のオフィスだった。手前が応接コーナー、奥が事務スペースになっている。
事務スペースの壁際には、スチール製のキャビネットがあり、整然とファイルが並べられていた。オフィスデスクの上にはデスクトップのパソコンが二台置かれていたけれど、稼働しているのは一台だけのようだ。男性以外に従業員がいる様子はない。
「こちらへどうぞ」
男性が手のひらで応接コーナーを指し示した。私は言われるがまま、二人掛けのソファーに腰を下ろし、その段階で、ようやく我に返った。
あれっ? 私、なんでこの人についてきたの?
まるで不思議な力に導かれるみたいに、自然と事務所の中に入ってしまった。
男性が向かい側のソファーに座る。微笑みを浮かべて、私に会釈をした。
「今日は弊社の面接にお越しいただいて、ありがとうございます、和田さん。僕は所長の九重と申します。さっそく面接を始めさせていただきたいのですが、履歴書はお持ちですか?」
何か勘違いをされているとわかり、私は慌てて胸の前で手を振った。
「私、面接に来たわけではないです!」
「えっ? では、あなたはなぜここに?」
長い睫毛を揺らして目を瞬き、小首を傾げた九重さんに、「すみません」と頭を下げる。
「道を歩いていたら看板を見つけて……気になって見ていたんです。声をかけられたから、なんとなくついてきちゃいました……」
「あれっ? もしかして、僕、人違いをしてしまったんやろか? 事務所の前にいてはるから、てっきり面接に来はった人やって思い込んでしもた」
九重さんは私の弁明を聞いて、目を丸くした。
「今日、どなたかが面接に来られる予定だったんですか?」
「そうです。十五時の約束やったんやけど……。ドタキャンされたんかな」
面接のドタキャンなんて、お気の毒。
「まあでも、責任感のない人やってわかってよかったです」
九重さんはサバサバした様子で言って、立ち上がった。
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