鳥籠の中の道化師

夏風邪

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第一章

第二十二夜 . 燻る熱

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 ◇ ◇ ◇


 重厚感のある扉の前に立ち、大きく深呼吸をする。

 よく見慣れた扉。その向こう側もよく見慣れた一室。
 だがやはり否応なく引き立てられた緊張感と恐怖で無意識のうちに体が強張る。

 しかしいつまでも尻込みしているわけにはいかない。
 もう一度短く息を吐いてから、扉を三度ノックした。

 了承の言葉が返ってくるとは思っていない。
 向こうにいる男の不遜な笑みを思い浮かべながら構わず扉を開けた。



 窓外から差す提灯の灯りだけが室内を淡く照らす。
 何もかもに陰を落とすなかで、息を呑むほど妖美な白髪と赤みを帯びた瞳だけがくっきりと闇夜に浮かぶ。

 その双眸は俺の姿を捉えた途端に妖しく細められた。
 三日月を描く口元は酷薄さを隠しもしない。


「よォ。何しに来た?」


 腹の底に響く愉悦に満ちた声に、どうしようもなく逃げたくなった。


「あんたに話がある」


 真っ直ぐ楼主を見据える。
 気を抜けば無意識のうちに俯いてしまいそうだ。

 何度顔を合わせようと、何度体を重ねようと、やはり徹底的に刷り込まれたこの男への恐れが薄れることはない。
 忌々しいことに、どうしようもないほど今の俺はこの男に形作られてしまっていた。


 そんな恐怖をひた隠しにして健気にも自らの元へやってきた俺を、この男はただ薄く笑って懐へ招き入れる。

 これは決して慈悲でもなんでもなく。
 まるで罠にかかった獲物をじわりじわりと喰らい尽くす蜘蛛のように。
 
 そこには致命的な加虐が潜んでいる。


「ククッ、いいだろう。座れ」


 愉しくて仕方がないとばかりに楼主は低く笑う。

 クイッと顎で示された応接セットの革張りソファに座ると、楼主もデスクを離れてこちらに来る。
 向かいのソファに座るのかと思いきや、なぜか真っ直ぐ俺の方に近づいてきた楼主。

 今日も今日とて緩く着物を纏う姿は息を呑むほど艶かしい。
 この男が纏う色香はまるで毒だ。じわじわと体内を蝕み、気づけば取り返しのつかないところまで侵食されている。


 楼主はそのまま覆い被さるようにソファに片膝を置いて乗り上げてきた。


「なに…?」

「大人しくしてろ」

 警戒心から起こしかけた上半身を再びソファの背に押し戻される。
 抗議の声を上げる前に顎を固定され、やや横を向くように顔を傾けられて首筋が引きつった。

 そのまま頭の天辺から目元、耳、輪郭、首筋を滑る視線の動きで、楼主が何を確かめているのかはすぐにわかった。

 二度三度と往復を繰り返し、俺と視線を合わせる頃には獲物を射竦めるような獣の目つきに変わっていた。


「いつ切ったァ?」

「今日。昼に」

「なぜ俺に言わなかった?」

「こんなことにまであんたの許可を必要とされた覚えはねえよ」
 

 鋭く睨み上げると、肩を掴んでいた楼主の手は頭部に回され、するりと髪を梳かれる。
 
 男にしてはまだ若干長めだが、以前と比べれば格段に短くなった黒髪。
 クソ楼主がどんな反応をするかなんて考えたくもなかったが、この部屋に入った瞬間の俺を見据えた楼主の表情を見れば嫌でもわかってしまう。

 何度も何度も髪の長さを確かめていた手は耳にかかった髪をかけ、気づけば後頭部に回されていた。

 ふわりと香る目眩がしそうなほど甘い匂い。
 嫌というほどこの身に染み付いた楼主の匂い。

 そのまま手に力が込められ、愉しげに歪んだ唇が重ねられた。


「…んっ…、…ふ…ぅ…」


 顎を固定していた手は顕になった耳に悪戯に触れる。擽るように溝をなぞり、耳朶のピアスを弾く。
 たまらず唇を開けば、その薄い隙間から舌が入り込んでくる。
 俺が感じるポイントを余すところなく把握している楼主はこちらの反応を楽しむように、しかし無遠慮に咥内を犯す。

 うまくピントが合わないほど近くにある楼主の瞳。
 毒々しくも鮮やかな紅に、身の奥底まで見透かされていそうで本能的な恐れが増す。

 けれども、この色、この匂いを感じるだけで、俺の意思に関係なく条件反射で肌が粟立つ。ピクリと腰が震える。

 必死にそれを隠していてもやはりこの男は容易く見抜く。
 わざとらしく舌を絡める音を響かせてこちらの欲を煽ってくる楼主が恨めしい。


 力の籠らない手で胸板を押し返せば、逆に体重をかけられさらに上半身を押し付けられる。

 いやでも煽り立てられる快楽と、より一層強くなる楼主の甘い匂い。
 麻酔にかかったように頭がふわふわしてきた。

 薄い涙の幕が張る視界はだんだんとぼやけ。
 とろりと溶け出した俺の瞳を覗き込んだ楼主は満足げに笑みを浮かべた。

 経験上、なんとも嫌な予感がしてとっさに舌を引っ込めようとしたが、その前にガリッと舌を噛まれた。


「ん゛んッ…」


 咥内を蹂躙する舌の感触に混ざる血の味。
 じんじんと痛む舌は丁寧に絡められ、痛みと気持ちよさで頭がぼんやりしてきた。

 この程度の痛みではもはや萎えには繋がらない。
 むしろ倒錯した刺激として欲を昂ぶらせてくるのだから厄介極まりない。


 完全に体の力も抜けきったところでやっと唇が解放された。

 荒い呼吸を繰り返す俺を楼主はただじっと見下ろしている。
 無様に乱れた俺を嘲笑っているのか。それとも人知れず欲を燻らせているのか。

 どのみちその感情の矛先が向くのは自分なのだから死ぬほどどうでもいい。
 散々焦らされるか徹底的に快楽を与えられるか、違いなんてそのくらいだ。
 

 後頭部に回っていた手はずっと弄られていた方とは逆の耳に触れ、離れていく。
 楼主が向かいのソファに移動している隙にやや乱れた着物を整え濡れた唇を袖口で拭う。

 緩慢な動きで足を組んだ楼主は、嫌味なほど綺麗な顔に無情の笑みをのせた。


「さァて、話を聞こうじゃねえか」


 どこまでも傍若無人な支配者の機微を具に確認しながら、俺は面と向かって視線を投げつけた。

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