天狗の盃

大林 朔也

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出発 1

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 麗しい満月が夜空に浮かび
 花の香りを肴に酒を飲む
 風が奏でる音色は心地よく
 盃に映し出させる愛しさは
 燃え上がる炎を鎮めよう






 僕には、2つ年の離れた完璧な兄がいる。
 端正な顔立ちで頭脳明晰。運動神経も抜群だ。背が高く、鍛え上げられた体は肩幅が広くて腰回りが締まっているから何を着ても様になり、兄をさらにカッコよくみせる。
 自分の考えをしっかり持っているからブレる事がなく芯があって強い。けれど相手の考えや思いも、ちゃんと尊重する。自分の意見だけを押し通すことはない。
 笑顔も爽やかだ。自信に満ち溢れた表情とハッキリとした声は頼もしく、皆んなが兄の周りに集まる。謙虚さを忘れずにいるから同性から妬まれる事もなく男女関係なく好かれ、誰とでも仲が良く皆んなから愛されている。
 
 何一つとして欠点がない。
 もしあるとすれば欠点がないところ、そういう男だ。

 自慢の兄で、僕のヒーローだった。
 否、今も自慢の兄で、僕のヒーローである。

 だが、完璧すぎる兄をもつと弟は辛い。逆の場合もそうなのだろうが…。
 両親は同じものを、僕に求めた。
 兄である昌信と弟である昌景は「同じ」でなければならなかった。
「昌景は、昌景」とは思ってはくれなかった。

 だから両親は兄のようにはなれない弟に、だんだんと苛立ちを募らせていった。

 親は子供を等しく愛している…なんて事はない。
 出来の悪い子供ほど可愛い…それは違う。
 自分の子供だというだけで親は子供を心から愛する…それも違う。
 それが、僕の両親だ。

 比較されるのが強烈に辛いと感じたのは、僕が進学する高校が決まった時だった。それまでも何回か感じてはいたけれど、吐き捨てられた言葉の数々を、今でもはっきりと覚えている。 

 少しでも兄のようになろうと僕も必死で勉強をしたが、どうしても理数系の成績が芳しくなく、兄の通っている高校を受験することは到底出来なかった。受験したとしても、不合格が目に見えている。
 それでも公立に受かれば家計の負担にはならないし、両親は喜んでくれると思っていた。
 息子の努力を認めて、褒めてくれるだろうと期待した。
 だが、現実はそうではない。
 それは、叶うことのない夢だった。

 合格発表の日、掲示板に自分の番号を確認すると、急いで家に帰って喜びながら両親に報告した。
 両親も笑顔を浮かべて喜んでくれると思っていたのだが、その顔は冷たかった。

「なんだ…〇〇高校か。
 昌信とは、ずいぶん違うわね」 
 母は大きく溜息をつきながら言った。

 母の口から出る言葉は、失望の言葉ばかりだった。
 僕が受けたのは〇〇高校だという事は、もちろん両親も知っていた。何度も言ったのだから納得してくれたのだと思っていた。
 だが、その時点から「少年には気付かない」目には見えない亀裂が生じていたのだ。

 今の今まで溜め込み、〇〇高校に通うと現実に決まった瞬間、母の不満は爆発したのだった。
 
 僕は悲しみのあまり声が出なかった。頭が真っ白になるというのは、こういう事なのだろう。
 そんな弱っている僕を見て、父はさらに追い討ちをかけた。
 
「昌信は、なんでもトップクラスなのにな。
 容姿はかわらないのに、お前のレベルがそこまで低いとは思わなかった。
 なんで、もっと頑張らなかったんだ?
 同じ兄弟なのに、こうも違うとは。
 お前には、ガッカリだ。
 なぁ、母さん…昌景は失敗だったな」
 父はそう言うと、呆れたように笑った。

 父のその言葉で母は大袈裟に頭を抱え出し、何度もため息をついた。

(失敗…?
 失敗って…僕が…失敗??)
 父は息子の打ち砕かれた心を、さらに粉々に踏みつけた。
 僕は泣き出しそうな気持ちを堪えるのが精一杯だった。すると体の中にドロドロとした泥水が一気に流れ込んで僕は飲み込まれ、簡単には動けない沼地で体をバタバタさせた。

「親戚やご近所さんに…なんて言おうかしら…?
 あんなレベルじゃあねぇ…。
 他の家は、みんな、兄と弟は似てるっていうのに…どうして、こうなったのかしら…」
 母は恨みがましい目で僕を見た。

(みんなって……どこの家だよ)
 僕はそう言いたかったが、言えなかった。

(口答えをすれば、さらに酷くなる。
 何も言わずにいる方が、いいのだろう…?)
 僕の心の中に、そういう感情が、芽生えた。

(反論することなく黙ったままでいよう。
 我慢していたら、いつかはきっと終わるだろう) 
 けれど、「いつか」なんて来ないのだ。自分で動き出さない限り「いつか」はやって来ない。 
 立ち向かわなければ悪化するだけだと心の何処かでは分かってはいたが、そう思ってしまった。

 足元の悪い沼地でヨロヨロと立ち上がると、踏みつけられ浮いている粉々の心を拾い集めた。手に持っていたヨレヨレの鞄を盾にして、振り下ろされる言葉の刃をかわそうとした。
 戦うための剣も、持てなかった。
 否、持とうとしなかった。

(耐えろ…耐えるんだ…耐えれば終わる)
 だが、僕が手にしているのは鞄であって歴戦の兵士が持っている盾ではない。そもそも戦う意思のない男が身を守る盾など持つことが出来ない。戦わないのだから。
 逃げることも出来ずに、自由に動き回ることも出来ずに、すぐにその場に崩れていった。
 


 一方、両親の言葉の刃はどんどん鋭くなっていき、倒れ込んだ僕をこれでもかと言わんばかりにグサグサと突き刺し、滅多刺しを始めた。

「昌景は、ダメだ」
「何をやっても要領が悪い」
「怠惰で、やる気が感じられない」
「普通にやれば出来るだろうに」
「昌信の爪の垢でも煎じて飲ませたい」
「お前は、馬鹿なのか?」
「何度も同じ事を言わせるな!」
「同じ血が流れているのに、どうしてお前はダメなんだ!」
 
 僕の存在を否定するような言葉が並び始め、自尊心はどんどん破壊され修復できないほど木っ端微塵になり、水面に浮かんでいた泥と一緒に沈んでいった。
 自分の両親から恐ろしい形相でダメだと言われる度に、僕は本当に「どうしようもなくダメな男」だと自らを囚え始めた。
 
 自分で自分を助ける事が出来なかった。
 僕は言い返せるだけの「何かを成し遂げた」事があるのだろうかと疑問に感じ始めた。成功した事よりも失敗した事ばかりが頭に浮かんだ。頑張って志望校に合格した事すらも、ちっぽけに思い始めた。
 自分を信じられなくなった。
 繰り返される言葉の呪いは、僕の心の深くまで刻まれていき、自己肯定感を歪ませるほどの呪いを施した。

 罵る声がだんだん大きくなってきた頃に、「ただいま」と言って誰かが帰ってきた音がした。

 もちろん、出かけていた兄だ。

(こんな姿を見られたくない。
 聞こえていないフリをして欲しい。そのまま部屋に行ってくれ…)
 僕はそう願ったが、兄は自室には向かわなかった。 

 兄は、いつも僕を守ってくれる。
「弟のことだから知らんふり」はしなかった。
 まさにヒーローだ。僕では絶対になれないヒーロー。だって、ヒーローは強くて、何があっても勝つのだから。
 僕では…なれない。

 リビングのドアを勢いよく開けた兄の姿は眩しくて、僕は自分をより小さく感じた。
 

「父さん!母さん!
 昌景は志望校に受かったんだろう?
 なんで褒めてやらない?!
 何が不満なんだ!
 昌景の努力を認めて褒めてやるのが親だろう?
 〇〇高校は、すごくいい高校だ!俺の中学の友達だって行ってる!誇りに思える素晴らしい高校だよ!
 昌景!おめでとう!」
 兄は両親の目を覚まさせようと大きな声で言い、僕の両手をとって沼地から引き摺り出してくれた。 

 兄は僕の手を強く握り締めながら喜んだ。

「昌信…でもね…もっと昌景が頑張ってくれてたらねぇ…トップの高校に入れたのに。
 将来を決める進路は高校から始まってるのよ。
 昌景の将来は、もう決まったようなものだわ…残念だわ。
 昌景もね…昌信のようなら良かったのに」
 母は困った顔をしながら言った。


「昌景は、昌景だ!俺は、俺だ!
 比べることなんて出来ない!
 俺が今の高校に決めたのはトップだからじゃない、そこで学びたいことがあったからだ。
 それに昌景が俺みたいになったら、昌景の優しさがなくなってしまう。
 そうだろ?昌景は俺にはない良いところをいっぱい持ってる。
 何故それに目を向けない?」

 兄は僕の前に立ち塞がって、僕の代わりに両親と戦ってくれた。
 僕はその背中を見つめていた。
 2つしか年が違わないのに、立派で逞しい誰かを守れる背中を…僕は一言も発することなく…ただ見つめていた。


 兄の威力は凄まじく、父ですら高校生の兄にタジタジになっていった。父は細身だが、兄は体を鍛えているから威圧感があった。それに何もかもが完璧な兄が言うと説得力がちがう。この男には逆らえない。
 対峙した瞬間に勝敗が決まってしまっていたのだ。
 まさに他を圧倒するヒーローそのものだった。 

 玄関のチャイムが鳴る音がすると、両親の方がこれ幸いとばかりに玄関の方に歩いていった。しばらくすると、何事もなかったかのように個配の担当の人と両親が話す声がし始めた。

 兄は僕の手を握ったままリビングを出て自分の部屋へと連れて行き、ドアをキチンと閉めた。
 

「昌景、なんで黙り込んでた?
 悔しくなかったのか?
 どう考えても間違ってるって分かるだろう?
 はっきりと言わないと、これから先、お前には、何を言ってもいいと思われるぞ」
 兄は険しい顔をしながら言ったが、僕は黙り込んで目を伏せてしまった。

(僕は兄さんとは違う…兄さんのような力はない。
 力がないから言い返せない…兄さんのようにはなれない)
 そう思うと体が小刻みに震え、下を向いて何度も瞬きをした。涙を流さないようにするだけで精一杯だった。

「僕は…兄さんのようには…なれない…。
 僕は…何をしても…ダメだから…」
 僕は小さな小さな声でそう呟いた。


 すると、兄は僕をそっと抱き締めた。


「昌景、お前は優しいからな。傷ついたな…ごめんな。
 俺は、はっきりしてるからな。
 さっきの両親の言葉は、全部間違ってるんだ。
 お前はダメじゃない、昌景は最高だ。
 俺が言うんだから間違いない。誰よりもお前の事を知り見ている俺が言うんだから。
 お前はお前でいい。
 だから何があっても何を言われても、自分を信じろ。自分を信じてさえいれば、相手の言葉に囚われずにすむ。
 お前は、俺の自慢の弟なんだからな」
 兄はそう言って、僕の背中を撫でた。

「お前は、俺の大事な弟だ」

 我慢していたのに、兄に優しくされると涙が流れて体が大きく震え出した。
 
「ごめん…ごめんなさい。
 恥ずかしい…泣くなんて…ごめんなさい」

「大丈夫だ。
 我慢するなよ。
 自分が我慢したらいいなんて、絶対に思うな。
 俺は、何があってもお前の味方だから。
 辛かったな。よく頑張ったな。もう、大丈夫だ。
 苦しい時や辛い時に気持ちを吐き出すのは恥ずかしいことじゃない。
 お前が涙を見せる相手に俺を選んでくれた事が嬉しい。もっと頼ってくれて、いいからな。
 泣きたい時には泣いたらいい。溜めてると良くないからさ。俺はいつでも受け止めるからな。
 俺は、昌景の兄貴なんだから」
 と、兄は優しく言った。
 
 そのまま兄の温かい胸の中で僕は泣いていた。

 その夜、僕はなかなか眠れなかった。
 朝までベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
 カーテンの隙間から外が少し明るくなったのを見ると、水でも飲もうと思い、少し体を震わせながら部屋を出た。
 すると、まだ朝早いというのに兄の部屋の電気はもうついていた。
 薄暗い廊下に、兄の部屋のドアの下から漏れ出す光が見えたのだった。


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