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第一章
十話 抑制剤 前編
しおりを挟む「さて、切ろうか」
やっとこの時が来た。
夕方、俺を抱き上げた律樹さんは予めお風呂場に持ち込んでいた椅子に俺を座らせ、下側の部分が受け皿の様にくるりと上がった散髪用ケープを被せた。そして名残惜しむ様に櫛で丁寧に髪を解いていく。
「……いくよ」
意を決したような緊張を含んだ声音に小さくこくりと頷くと、律樹さんもこくりと頷いて鋏を持った。髪の毛に鋏が入れられ、切られていく音がする。ぱさり、ぱさりと切った髪がケープの受け口へと落ちていき、どんどん軽くなっていくのがわかった。
律樹さんはとても器用だということをこの一週間で思い知った。だから下手なことにはならないだろうと思う。流石にプロの様にはいかないだろうが、それでもおかしな髪型にはならないだろうし、何よりこの二年伸び続けた髪はどうしても彼に切って欲しかった。
チョキ、チョキと髪の毛が切られていく。髪の毛を触る律樹さんの手が気持ち良くて眠ってしまいそうだったが、俺が寝てしまったら切りにくいだろうと必死で前を向いて動きを止めていた。どれくらいそうしていただろうか、出来たよという言葉に振り向くと、額に薄らと汗を滲ませた彼が満足そうに笑っていた。
「こんな感じでどうかな?」
そう言って風呂場の鏡と合わせ鏡になる様に、背後で開いて見せられた三面鏡を鏡越しに確認する。うん、すごくいい感じだ。もみあげも長くなくて耳も見えて、でも短すぎない。襟足は頸が半分見えるか見えないかくらいの長さで、爽やかな印象に仕上がった。
想像以上の出来に、俺はこくこくと勢いよく頷いていた。散髪用ケープを取ると、風呂場の床には零れ落ちた髪の毛の残骸が無数に散らばっていて、俺達は顔を見合わせながら笑った。
「じゃあある程度集めたらお風呂に入ろうか」
今手元にスマホがないので意思の疎通は首振りか身振り手振りだけだ。俺はこくりと頷いた後、椅子から降りてぺたりと床に座り込み、落ちた髪を寄せ集め始めた。
「弓月」
「……?」
「っ、えっと……床の髪の毛は全部、この袋に集めてくれるかな?終わったら服を脱いでお風呂に入る準備をしてくれると嬉しい」
わかったというように頭を動かして、俺は言われた通りに床に散らばった短い髪の毛たちを、手のひらを使って掻き集めていく。少し集まっては指先で摘んで袋へと入れ、また掻き集めて摘んで袋に入れるという行動を何度も繰り返した。
律樹さんが戻ってきた時には大凡綺麗になっていて、律樹さんは一瞬驚いた様に動きを止めたが、すぐに頭を撫でてくれた。
「良く出来ました」
そう言われると身体の奥底から甘く痺れる様な感覚が湧き起こり、頭の中がふわふわとした心地だった。褒められて嬉しい、幸せだという気持ちが胸の中に溢れ出していく。とろりとした温かなものに包まれる感覚に俺は思わず目を細めた。
頭を撫でていた律樹さんの息を呑む音が聞こえる。どうかしたのかとこてんと首を傾げると、律樹さんは慌てて俺の頭から手を離して俺に背を向けた。
え、なにどうして?と思うよりも早く、そういえばまだ服を脱いでいなかったことを思い出した。今服を脱いだらまた褒めてもらえるかもしれないと、ふわふわとした思考のまま服に手をかけて一枚ずつ脱いでいく。Tシャツを脱ぎ、薄手のスラックスを脱ぎ、そうして最後の下着を脱ごうとした時、律樹さんの腕の中にいた。
「弓月」
「……っ」
どうして……?
俺を囲う腕に力が入り、ふわふわとした思考が途端に霧散し、俺は我に返った。俺は今、何を……?
「弓月」
「……、……」
何かを言いたいのに声が出ない。ぱくぱくと音もなく開閉するだけの口からは、少し熱い吐息が溢れるだけ。腹の奥底が疼いている様な気がして、俺はそっと下腹を手のひらで撫でた。
律樹さんはそんな俺をぎゅっと抱きしめて名前を呼ぶだけで、そのあとは特に何も言わなかった。ただ下着しか履いていない俺の身体を温める様にその腕に囲んでくれているだけで、他には何もない。律樹さんの胸板にこつんと頭を預けると、彼はそっと頭を撫でてくれた。
暫くそうしていると俺の中の熱も大分収まってきて、もう大丈夫だと手のひらで胸板を押すと、律樹さんの腕は簡単に離れていく。その温もりに少し名残惜しさを感じながら、俺は再びぺたりと床に座ったまま律樹さんを見上げた。
「……弓月、君、薬は?」
「……?」
「薬……飲んでないんだろ?そうじゃないとこれの説明がつかない」
「……っ」
あ、バレてる。薬を飲まなかった、いや飲めていなかったことが何故か律樹さんにはバレてしまっていた。でも身体に異変はないはずなのにと考え込む俺の様子に何か気が付いたのか、律樹さんは大きく息を吐き出して俺と目線が合う様に座り込む。
律樹さんの琥珀色の瞳に俺の顔が写っている。さっき切ってもらったばかりの黒髪はやっぱりいい感じだった。
「あの薬はSub専用の抑制剤なのは聞いたよね?あれはねSub本来の欲を抑制するものなんだ。プレイをしなくても少しの間なら大丈夫な様に、安定的な生活ができる様に飲む、それが抑制剤だ」
Sub本来の欲を抑制、安定的な生活、それは今の俺にどう影響しているのか正直わからない。何故なら俺はずっと支配され続けてきたから普通のSubの状態を知らないからだ。律樹さんが今こうして俺に言い聞かせてくれているってことは、多分今の俺はおかしいのだろう。
律樹さんの瞳は優しい色を宿している。あの人とは違うとても優しくて俺を想ってくれている色。この瞳に見つめられると俺はたまらなく幸せな気持ちになることに最近気付いた。今も見つめてもらっているのに、もっと見つめてほしいと思ってしまう。
なるほど、これが普通ではない状態なのかとふと思った。確かにこれでは安定的な生活が送れるとは言えない。そのための抑制剤なのか、と。
でも俺は多分薬を飲むことができない。トラウマなのかなんなのか、俺の身体が薬を体内に入れることを極端に拒んでいる。でも今ここに筆記具やスマホなど、俺の言いたいことを文字化する道具がないからそれを律樹さんに伝えることができなかった。
「弓月、薬持ってくるから飲もう?」
俺はその言葉にぶんぶんと頭を横に振った。すると彼は困った様な表情で俺のことを見下ろしている。
伝えられないことがもどかしい。
俺の声が出たならば、きっとすぐにでも解決するのに。
「弓月……でも飲まないと弓月が辛いんだよ?」
また頭を横に振る。俺は俯いて、もう吐くのは嫌だと口を動かした。彼には見えていないし、聞こえるわけもないから俺が何かを言いたかったことすらもわからないだろう。
頭上から溜息が降ってきたかと思えば、律樹さんの足音が遠ざかっていった。恐らく俺のために抑制剤をとりにいってくれたんだろう。すぐに戻ってきた彼の手には案の定抑制剤とグラスに入った水があり、俺は視線を逸らした。
「ほら、飲もう?飲んだら楽になるから」
逆なんだよ律樹さん。
俺は飲んだら吐いてしまうから、余計辛いんだ。
「お口開けて?」
律樹さんは優しい。今だってコマンドを使えば一瞬で口を開けさせることができるのに、コマンドを使わずにあくまでも俺の意思で開けてくれる様にって頼んでくれる。そんな優しい律樹さんを困らせたくなくて、俺は引き結んでいた唇から力を抜いて、少しだけ隙間を開いた。
もう少し開けて、という言葉に眉尻を下げながらほんの少しだけ口の開きを大きくし、琥珀色の瞳をじっと見つめる。口の中に抑制剤が入り、渡されたガラスのコップに入った水を一気に煽って薬ごと喉の奥へと押しやった。
――ごくん。
喉が水と薬を飲み込んで大きく音を立てた。
静寂が風呂場を支配する。
聞こえるのは外で大合唱している蝉の声だけ。
いけた?いけたのか?さっき吐いたから?
そう思ったのも束の間、俺の胃は薬を拒絶する様に波打ち、食道を逆走させていく。気持ちが悪いと思うよりも先に俺はその場で吐き出していた。
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