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第一章
十一話 抑制剤 後編
しおりを挟む声が出ないまま嘔吐き、びしゃっと床に唾液と胃液の混ざった透明な液体が吐き出される。その中央には少し溶けかけている白い錠剤の姿。
息を切らしながら床に手をついて耐えていると、上から呆然とした声が降ってきた。その声は驚いている様にも困惑している様にも聞こえて、俺は申し訳なさでいっぱいになる。
口の中が気持ち悪い。胃液の苦酸っぱい気持ちの悪い匂いが口内にまとわりついている様だ。そのせいでまた胃の中から何かが競り上がり、俺はまた嘔吐する。
「み、水……!」
なおも吐き続ける俺の様子に、彼は慌てて浴室を出て洗面台から水を持ってきて俺の口にコップの縁を当てた。その水を口に含んで、ぺっと吐き出すとほんの少しだけ気分がましになる。
その後は律樹さんが床をシャワーで流して、ぐったりした俺を素早く丁寧に洗ってくれた。ふわふわのバスタオルに包まれながら俺は寝衣に着替え、律樹さんが出てくるのを待つ。怒られることも覚悟の上だった。
シャワーを終えた律樹さんが浴室のドアを開けた瞬間に俺を見て固まる。
「……弓月、どうしたの?」
律樹さんは怒ることもなく、ただそう俺に聞いてきた。けれどいつもと違うのは優しい声色の中に僅かな動揺が含まれていることだろうか。
「少し待ってて。すぐに拭いて、着替えるから」
そのまま数分待っていると再び浴室の扉が開き、服を着た律樹さんが出てきた。髪の毛はしっとりと濡れており、上気した頬が少し色っぽい。足拭きマットの横に座り込んでいる俺の横を通ってドライヤーを取り、スイッチを入れた。
温かな風が髪に当てられ、靡いた髪が頬やら額やらに当たるが長い時の比ではない。乾く速さも段違いで、すぐに乾いてしまった。俺の髪が乾き終わると次は自分の髪を乾かし始めた律樹さん。真っ黒な俺とは違って栗色の柔らかそうな髪が、ドライヤーから発せられる温風に靡いている。手櫛で内側から外側に掻くようにしながら温風を当てていった。
「ここクーラーないし、あっちで話そうか」
それに関しては異論はなかったので頷くと、すっと当たり前のように抱き上げられた。あれ?と思う間もなく、俺は居間まで運ばれていた。
俺が床に座るとその後ろに律樹さんが腰を下ろした。そのまま腹部に腕を回されたので、まるで背後から抱きしめられるような形になる。
「はい、スマホ。ペンの方がいい?」
『こっちでいい』
「わかった。……で、あれはどういうこと?」
律樹さんはどこからともなく取り出した俺が愛用しているスマホを俺の手に置き、俺の肩口に顎を置いてスマホの画面を覗き込み、そう言った。あれ、というのは恐らく抑制剤を飲んですぐに吐き出したことだろう。バレたくなかったが仕方ない。正直に薬に対する拒否反応だと伝えれば、大きくて深い溜息が首筋に掛かった。
「そういうことね……まあ想定してなかったわけじゃないからそこまで驚きはないけど、飲めないんだったら最初に言ってくれ。流石に目の前で吐かれるのはびっくりするし心配する」
『ごめん』
「……ん、今度から気をつけて」
心配してくれて嬉しいと思ってしまう俺は、実は馬鹿なのかもしれない。ほわほわと温かくなった胸を手で摩っていると、律樹さんがぎゅっとお腹に回した腕に力を入れた。
「……最近、弓月からSubのフェロモン?みたいな香りが出てるなとは思ってたんだよ。だからあまり買い物にも連れて行かなかった。もっと早く対処できたら……いやそれも……うーん……」
『俺のため?』
「当たり前でしょ?でも薬が飲めないってなると……」
その言葉の続きは俺にもわかる。抑制剤が飲めないならプレイをするしかない。律樹さんが出掛けている間にスマホでSubについて調べてみたら、DomとSubはプレイというコマンドを使ったやり取りをする事でお互いの欲を満たすことができると書かれていた。
俺はそれを見た時、兄がしようとしていたのはこれだったのかとようやく理解したのである。しかしそこに書かれていたことは全て初見で、セーフワードや合意という言葉が出てきた時点で俺は理解することを諦めた。多分真っ当な方法でされなかった、まるでレイプのようなプレイを強要されていた俺の脳と心が理解することを拒否したのだろう。
そんな状態だったにも関わらず、律樹さんというDomとプレイをするかもという状況の今、プレイに対する嫌悪感や恐怖はなく、寧ろ彼とならしてみたいと思っている。
『プレイ?』
俺はそう書き込んでいた。
文字を読んでいるはずの律樹さんからの反応はない。
『俺、りつきさんとならプレイしてみたい』
「……え?」
そう続けて書き込むと、数秒の間の後気の抜けた声が耳元で聞こえた。動揺しているのか、お腹に回った腕がそわそわと動いている。
『薬飲めないならプレイするしかないって書いてた』
「……あ、うん……まあそう、なんだけど」
『俺とするのいや?』
我ながらずるい聞き方だと思う。歯切れの悪い律樹さんにそう畳み掛けると、ずるいよという消えそうな程小さな声が耳に届いた。
俺を傷つけないように沢山考えてくれているんだろうなとわかる沈黙に、彼の腕のようにそわそわとしながら待っていると、諦めたような溜息が聞こえてきてびくりと身体が跳ねた。
「まあ……これもケアの一環か……本当に良いんだな?」
『うん』
「じゃあまずは……セーフワードを決めようと思ったけどどうしようか……ワードじゃなくてもポーズとか合図とかでもいいんだったっけ?ええと……」
律樹さんが背後から俺を抱きしめながらぶつぶつと独り言を言っている。確かにセーフワードを決めたところで俺は声が出ないからセーフワードを言うことができない。兄の時はそもそもセーフワードというものを決めさせてもらえなかったし、そもそもそういうものがあることを知らなかった。まあすぐに声も出させてもらえなくなったし、あっても意味がなかったんだろうけど。
声が出ないことを想定したセーフワードなんて記述は俺が見た記事には載ってなかったので、俺は黙って律樹さんの言葉を待つ。肩の上で未だうーんうーんと唸っている彼は、何かを思い出したような声を上げた。
「確か手で形を作って合図するとか瞬きの回数とか、そんなのがあったな……じゃあ一番簡単でわかりやすいピースサインにしようか」
ピースサイン、それなら俺でも出来そうだと首を縦に動かすと、俺を抱きしめていた律樹さんの温もりが離れていった。慌てて振り返ると、端正な顔立ちが真剣に悩んでいる顔が視界に入って顔が熱くなる。
「契約書は……いやケアの時に作ったから良いのか?でも許容範囲は知りたいし……弓月はして欲しいこととかして欲しくないこととかあるか?」
『わからない。強いていうなら暴力はいやだ』
「そっか。じゃあ、簡単なものだけやってみようか」
俺が頷くと、律樹さんは目元を柔らかくして微笑みながら俺の頭を撫でる。そして俺の前にあるソファーに腰掛けると、真っ直ぐに俺を見た。なんだか改まって目を合わせるのが少し恥ずかしくて俯くと、頭の上で律樹さんが笑ったような気配がした。
「弓月、Look」
「……っ!」
律樹さんがコマンドを発した瞬間、俺の身体は意図も容易くコマンド通りに動いた。俯いていた顔を上げ、彼の琥珀色の瞳と視線を合わせた瞬間、またあのふわふわとした感覚が身体を襲う。身体の奥底から湧き上がる甘く痺れるような熱がじわじわと脳へと侵食していくようだ。
「っ、その顔は反則……!」
「……?」
「落ち着け……Come」
ずりずりと腕を動かしてソファーに座る律樹さんのほうまで足を引き摺りながら寄っていく。ほんの少しの距離だったので時間もかからず、彼の足元に着くことができた。律樹さんの長い足にぴとりと身体を寄せると、大きくて温かい手が俺の頭を優しく撫でる。
とても気持ちがいい。俺を褒める少し低い声も撫でる手も、全てが心地よい。もっと欲しいという欲が身体の中から湧いてきて、止められなくなりそうだ。
「Good boy」
「……、……」
「弓月?もう少し欲しいの?」
俺はこくこくと頷き、彼の手に擦り寄った。
頭の芯が溶けてしまいそうなほど幸せな気分だ。
「そうだなあ……Sit」
ぽふぽふと彼が座るソファーが叩かれた。俺は腕にグッと力を入れてなんとかソファーに上り、彼の体にぴとりとくっつくようにソファーに腰掛ける。すると律樹さんは満足そうに笑みを浮かべて俺を抱きしめてくれた。
よく出来ましたと褒められ、頭を撫でられ、俺は今まで感じたことのないくらいの幸せの中にいた。ふわふわとした心地がとても気持ちがいい。律樹さんに全てを委ねるように身体を預けていると、律樹さんが俺の額にキスを落とした。
「今日はここまでにしようか」
夢見心地な気分の俺の頭を撫でながら、律樹さんは優しい声音でそう告げた。しかし俺の身体はまだ欲は満たされていないとでも言うように熱を持ったままだ。俺が涙の滲む視界でじっと見つめていると、彼がごくりと喉を鳴らした。
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