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第一章
二十話 気持ちの変化
しおりを挟む身体がふわふわとする。
ここは何処だろうと見回してみると、そこは以前にも見た夢と同じ何処もかしこも真っ黒な世界だった。前回と違うところは、初めから金色の鈴が俺の手の中にあることだろうか。それ以外は全く同じように見える。
俺は真っ暗闇の中を歩いていく。目的地なんてない、ただ歩き続けるだけだ。進んでいるのかも止まっているのかもわからないが、足だけは休めず動かしていく。不思議なことにこの空間では足音が響かないようだ。どれだけ歩こうが足を動かそうが、地面を蹴る音は聞こえてはこない。だから余計に今自分が何をしているのかがわからなくなりそうだった。
――弓月?
不意に空間に声が響いた。前回この夢を見た時にも同じような声が聞こえてきた気がする。
(これは誰の声なんだろう?)
律樹さんではないことは確かだ。それに竹中先生でも、あの人達の声でもない。俺はこの声を知らないはずなのに、やっぱり俺の中の何かが懐かしさを感じている。
手の中にある金色の鈴の紐を摘み、目の高さまで持ち上げて軽く揺らすと、チリリンとか細いながらも綺麗で透明感のある音が鳴った。この空間が何処まで続いていてどれ程の大きさなのかはわからない。しかし音は反響しながら空間を満たしていく。
幾重にも重なり合いながら徐々に高くなっていく音。それは耳鳴りのようなキーンとした甲高い音になり、やがて耳を劈いた。思わず両手で耳を塞ぐが、音は脳に直接聞こえているかのように頭の中で鳴り続けている。そんな中脳裏に浮かんだのは顔を黒く塗り潰された人の姿だった。
(まただ……どうして顔が塗りつぶされてるんだよ……)
黒いペンでぐちゃぐちゃと塗りつぶしたような顔に恐怖が湧き上がる。俺にはホラー耐性なんてものはないため、こういうのには慣れていないし普通に怖い。驚きと恐怖で心臓がきゅっと縮まった。
目を瞑って必死に音と恐怖に耐えていると、いつの間にか耳鳴りのような音は消え去っていた。耳から手を離して見ても音は聞こえない。まだドキドキとする胸を抑えながらほっと息を吐き出し、俺はまた歩き出した。
どれほど歩いただろうか、手の中に閉じ込めていた筈の金色の鈴が苦しげに音を立てた。ふと足を止めて辺りを見回してみるが、やはり何も見えない。気のせいだったかもしれないと再び足を踏み出した時だった。
――弓月、お前またこんなところにいたのか?
そう声がして、俺は咄嗟に耳を塞いだ。
この声を聞いてはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響く。俺は耳を塞いだままその場にしゃがみ込み、耐えるようにきつく目を閉じた。それなのに声は止まない。さっきも鈴の音が聞こえてきたように、この声もまた俺の脳に直接響くかのように何度も反響していく。
夢なのだから現実と同じことを求めてはいけないことくらいわかっているけれど、それでも脳に響くような声に恐怖が湧き起こる。まるでそんなことをしても意味なんてないんだと言われているような、逃げられないのだと言われているようなそんな恐怖だった。
それなのに、俺の中の何かが誰のものかもわからないこの声に懐かしさを感じている。恐怖と懐かしさが共存しているような不安定な感覚だ。
監禁状態だった頃は勿論、第二性が発現する前の記憶も抜け落ちていることは、前回の夢の中でなんとなくわかった。初めは戸惑ったしどうしようとも思ったけれど、記憶にはなくても身体が覚えていることもあるのだと知ってからはなんとなく受け入れられるようになっていた気がする。
なのに今は違う。頭と心と体の全てがバラバラになっていくような感じがして気持ちが悪い。覚えていない頭と覚えているような反応を示す心、それらに対して嫌悪感を覚えている体――それぞれが違う思いを描いているような奇妙な感覚だった。ぐちゃぐちゃと頭の中が黒く塗りつぶされていく。恐怖は足元から湧き上がり、俺の足を掴んで離さない。
俺が動けないでいる間にも声は聞こえていた。徐々に大きくなっていく声、それは壊れた機械のように何度も何度も同じことを繰り返している。巻き戻して再生して、また巻き戻って……そんな終わりがないのではと思えるような繰り返しに頭がおかしくなりそうだった。
夢なら早く覚めてくれと何度も口を動かす。叫んだつもりだったのに、やっぱり声は出なかった。なんでもありの夢の中なのにこういうところだけは現実と同じなんだななんて、頭の隅の冷静な部分が笑っている。
……怖い。足元から湧き上がった恐怖が全身を覆っていく。俺は無駄だとわかっていながらも、声の出ない状態で必死に叫び続けた。
不意に全身を浮遊感が襲う。まるで突然床が抜けたようなそんなふわりとした感覚だった。同時にあれだけ聞こえてきていた声が止み、俺は心の底から安堵した。ほぅと息を吐き出すと、身体から力が抜けていく。
俺は次に来るだろう衝撃に備えてそっと目を閉じた。
はっと目を開けてすぐ視界に入ってきたのは、いつもの天井だった。息が上がっている。まるで運動をした後のような息遣いだった。
良かった、あれはやっぱり夢だったんだとほっとすると同時に、自分はいつ寝たのかと首を傾げる。ここは律樹さんの部屋で、俺が今寝ているのは彼のベッドだ。でも俺は律樹さんの部屋に入った覚えもなければ、ベッドに寝転んだ覚えもなかった。寝転んだまま周囲を見回してみても、この部屋の主である律樹さんがいない。もしかしてまだここは夢の中なのだろうかと思い至った瞬間、全身から血の気が引いた。
(うそだろ?夢から覚めたと思ったらまた夢とか……)
カタカタと震え出す体を叱咤するように頬をペチンと手のひらで叩く。すると僅かな痛みが走り、俺はほっと息をついた。良かった、痛みがあるということはここは多分現実だ。
今は何時なのだろう。俺はゆっくりとベッドから起き上がり、壁にかかっている時計を見た。針が十と十二の位置にあり、窓から光が漏れていることから今は午前十時だとわかる。確か眠る前も明るかったような…と首を傾げていると、ふいに寝る前のことを思い出した。
その瞬間、全身が熱を帯びていく。頭から湯気が出そうなほどの羞恥心に思わず顔を両手で覆った。
(うわ……俺……うわあぁぁ……っ!)
声にならない叫びが心の中にこだまする。どうせなら記憶がないままのほうが良かったのに、どうしてこういうことに限って覚えているのか。
どうしてあんなことになったのかも、あんなことをしてしまったのかもわからない。けれど身体が熱くて仕方なかったことははっきりと覚えている。そしてその熱をどうにかしたくて俺は律樹さんにアレを押し付けて――そこまで考えたところで俺の頭はぼふんと音を立てた。
正直、今ここに律樹さんがいなくて良かったと思う。もしいれば顔を見ることすらも出来なかったかもしれない。声が出ないから悲鳴を上げることはないだろうが、もし声が出ていたとしたらきっと俺は叫び声を上げていたことだろう。俺は赤くなった顔を隠すようにもう一度布団の中に潜り込んだ。
そうしてしばらく経った頃、俺はまた寝てしまったらしい。気付けば隣で律樹さんが本を読んでいた。普段は眼鏡を掛けていない彼だが、どうやら本を読む時はかけているようだ。普段よりももっと大人びた姿に俺の胸は高鳴る。
どうしよう、お風呂の一件から律樹さんを変な目で見てしまう自分がいてどうしたらいいのかわからない。律樹さんの形の良い唇や少し骨張った長い指、そして半袖シャツから覗く引き締まった腕。そのどれもが俺を惹きつけ、胸を高鳴らせる。
抱きしめて欲しいだなんて、従兄弟で同性の俺なんかに言われたら律樹さんはきっと困るだろう。けれど無性にその胸に飛び込んで、その腕に抱かれたいと思ってしまう。
(俺……変だ……)
ただ見つめているだけでも身体が求めるように熱くなる。抑制剤だって点滴したはずなのに、まだ俺の身体はおかしいままだった。
「……ん?あ、おはよう弓月」
「……!」
律樹さんと俺の目が合う。ふわりと微笑んだ彼の笑顔に心臓がますますうるさくなった。
「体調はどう?苦しいとか辛いとか……弓月?」
俺は律樹さんから顔を隠すように布団を頭から被った。全身が心臓にでもなったかのように、心臓の音が大きい。耳を塞いで見てもそれは変わらず、寧ろ大きくなったような気さえした。
律樹さんが布団の上から俺の頭を優しく撫でるのがわかった。一定のリズムでぽふぽふと動く手に、さっき起きたばかりだというのにまた睡魔が襲ってくる。
「眠いのならまだ寝てても大丈夫だよ。もしお腹が空いたならいつでも言って、すぐに用意するから。俺は……もし邪魔なら向こうに行くけど……弓月?」
俺はもぞもぞと布団から顔を出し、律樹さんの袖を軽く摘んだ。彼の驚いた顔が目に入り、途端に恥ずかしくなってまた頭から布団を被る。しかし袖を掴んだ手はそのままだった。
「えっと……いても良いの?」
いて欲しいという返事の代わりに掴む手に力を込める。
律樹さんが隣にいると心臓はうるさいし、全身は熱くなるのにどうしてか落ち着くのだ。俺にもどういうわけがわからないが、正反対の反応と感情が一体化しているようなそんな不思議な感覚だった。
「わかった。じゃあ弓月がまた寝付くまでここにいるね。……おやすみ、弓月」
律樹さんの反対側の手が俺の手を撫でる。俺は袖から手を離してその手を掴んだ。ゴツゴツしているけれどとても優しい手、繋ぐことにドキドキするけれど不思議と嫌な感じはしない。
温かい、この手の温もりがあれば俺はあの夢を見なくてもすむかも知れないななんて思いながら、俺はまた目を閉じた。
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