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第二章
二十四話 学校
しおりを挟む六花さんがこの家に突撃してから一週間が経った。
あれから律樹さんの方には偶に連絡が入るそうだが、二人がなんのやり取りをしているのか俺は知らない。
そんな日から一週間後の日曜日。
日曜日という律樹さんの仕事が休みになる唯一の曜日といっても過言ではない日、俺は律樹さんのお願いで彼の職場である高校に行くことになった。まあ行くとは言ってもただ律樹さんの忘れ物を取りに行くだけなのだが、それでも俺の心臓は太鼓のように大きな鼓動を鳴らしている。
「ごめんね、折角買い物に行く気になってくれたのに寄ってもらって……もう、なんで財布を忘れたんだろ俺」
隣で運転する律樹さんがそうぼやく。
そんな律樹さんの言葉にゆるゆると頭を横に振り、そんなことないよと伝えるが、運転している彼には多分伝わっていないだろう。助手席から見える彼の顔は焦りというか、落ち込んでいるようにも見えた。
車内から外へと視線を移す。今は走行中だから窓から見える景色はすぐに流れていき、しっかりと見ることはできない。しかしそんな一瞬しか見えない景色にさえ俺の心はほんの少しざわついている。高校に入学してから数回しか通ったことのないこの道が妙に懐かしく感じて、目頭が熱くなった。
学校は律樹さんの家から車で約二十分という距離にある。買い物に行く途中で財布がないことに気がついたために律樹さんの家とは反対方向の道を通って学校に向かっているのだが、その道がまさに俺の通学路だった。俺がついこの間までいた家と律樹さんの家が思っていた以上に近くて驚いたが、だからこそ俺のことを助けてくれたのかもしれない。
因みに財布を忘れたと聞いてすぐに心配に思ったのは免許証のことだったが、どうやら免許証自体は別に持っていたようで運転自体には問題ないらしい。あくまで財布のみを忘れたのだと、わざわざ持っていた免許証を見せてくれた。
学校の駐車場に車を止め、律樹さんがシートベルトを外すのを見て俺もそれに倣おうとするがうまく外せない。外そうとしている手が、緊張のためか僅かに震えていることに気づいて俺は小さく笑った。
「大丈夫……?もし怖いなら車の中で待っててもいいんだよ?弓月がいるならエンジンもそのままにしておくし」
律樹さんが気遣ってくれているのがわかったが、俺は首を横に振った。これは恐怖ではなくてただの緊張なのだとスマホに今の気持ちを端的に打ち込んで見せると、彼は眉尻を下げながら渋々といったふうに頷いた。
そう、これはただの緊張だ。約二年間ももう一度行ってみたいと思っていた場所に来れたのだから、それは緊張もする。俺は深呼吸を何度か繰り返して心を落ち着かせ、シートベルトを外した。
久々に見る校舎はとても大きかった。茶色の煉瓦を重ねて作った立派な正門や所々黒く汚れた白い校舎の壁、そして真正面に設置された大きな時計など記憶通りの景色がそこにある。あの狭い世界で焦がれた世界が目の前にある事実に、胸が詰まった。
律樹さんは今警備の方と話している。ここの職員で忘れ物を取りに来たんだと説明をしているらしい。最近は何かと物騒な事件も多いから警備も管理も厳重になっているのだと事前に教えてもらってはいたが、本当にそのようだ。
「お待たせ、弓月」
俺を呼ぶ優しい声色に隣を見上げる。そこには声と同じ優しい表情の律樹さんがいて、俺に手を差し伸べてくれていた。律樹さんの手に自分の手を重ねると、その大きさの違いがよりはっきりとわかって胸が高鳴る。さっきまで懐かしさに泣きそうになったり緊張していたりと忙しかった筈の心臓は、今度はいつものように彼に触れることで鼓動を速くしていた。
「本当なら日曜日は学校にも入れないんだけど、今日は模試があるから開いてるんだ。俺は今日担当じゃないから休みなんだけど、担当の先生や試験を受けている三年生がいるから邪魔にならないように少し遠回りするね」
正門から校舎に入っていく道のりで律樹さんは静かにそう言った。すぐ目の前の校舎に足を踏み入れると同時に、どこか懐かしい香りが鼻腔を擽る。薄汚れたリノリウムの床を踏み締めると足音が軽く反響した。
緑色の公衆電話の前を通り過ぎるとすぐ職員室が見えた。在学中、俺は一度だけこの職員室に来たことがある。それはダイナミクスの検査結果が出る一週間前のことだった。確かあの時は部活を何にするか決めきれなくて、どうしたらいいかって担任だった先生に相談に来たんだ。関わったのは少しの期間だけだったけれど、それでもとても親身になってくれる先生だったなと思い出す。
職員室の前で足を止めた俺の手を律樹さんが優しくくいっと引く。ここじゃないの?と見上げると、彼は違うと苦笑を浮かべながら首を横に振った。
「ごめん、言ってなかったね。今から行くのは数学準備室だよ」
「……?」
「俺の担当ね、数学なんだ」
なんだか意外だなと思った。よく色んな本を読んでいるから文系なのかと思っていたが、まさか理系とは。俺の顔も驚いていたのだろうか、律樹さんがくすくすと楽しそうに笑っている。
「弓月は数学好き?」
首を横に振る。俺は生物や現代文は好きだったが、数学や物理はからっきしだった。苦手だというのが表情にも出ていたようで、彼はさらに楽しそうに笑っていた。
数学準備室は職員室がある棟を抜けて渡り廊下を通った先にある校舎にあるらしい。この棟には幾つかの準備室があるようで、並んだ扉の上にあるプレートにはそれぞれ教科の名前と準備室という文字が書かれていた。
「お疲れ様ですー」
「あ、瀬名先生!丁度良いところに……!」
「ごめん弓月、ちょっと待ってて」
数学準備室と書かれたプレートの真下にある引き戸を引く律樹さんの背中をぼんやりと見つめていると、急に律樹さんが慌てた様子でそう言って中に入っていった。待ってるってどこでという言葉は音にはならず、あっという間にピシャンと引き戸が閉まる。ぽつんと一人残される俺。取り敢えず歩き回るのもあまりよくないだろうと思い、準備室の扉の横にしゃがみ込んだ。
もう暦上では秋とはいえ、まだまだ残暑はきつい。今いる場所は頭上に屋根があるので日差しが遮られていてまだましだが、少し外に出たら溶けるほどに暑い。蝉が大合唱する声を聞きながら、俺は抱えた膝の上に頬を乗せた。
蝉の音に混じってチャイムの音が聞こえてくる。懐かしい音階に鼻の奥がツンとした。俺はどうして今ここにいるんだろう。もし俺があのまま学校に通えていたらどんなふうになっていたんだろうなんて考える。
今日は模試があるから三年生だけは登校しているのだと律樹さんは言っていたが、もし俺があのまま通えていたら俺も今頃は模試を受けていたのだろうか。
ちくりと胸を刺す痛みに溜息が溢れる。今更考えても仕方のないことなのに、どうして俺はこんなにもありもしないことを考えているのだろう。律樹さんの口から「一緒に学校に行ってほしい」と言われた時、俺の中に嬉しい気持ちとそれを否定する気持ちが生まれた。それはどういった想いからそうなったのか自分のことなのに全くわからなかったが、今なんとなくわかった気がする。
(……律樹さんに足向けて寝れないなぁ……)
何でもないように学校に通って、授業を受けて、遊んで……そんな日常が当たり前だと思っていた。なのにそれが当たり前じゃないのだと知った瞬間にはすでに壊されており、その後は痛い事と苦しい事という嫌な事だけが俺の世界になってしまった。狭すぎる世界だったとしてもそれが唯一の俺の世界で、でも広い世界も知ってしまっているから余計に苦しくて、たまに遠くから聞こえてくる子どもの声や人の笑い声に泣きたくなったりもして。それでも俺は明るい世界に行けないのだと知ったあの時の絶望が俺の心を蝕んでいる。
その歪な心は今、律樹さんによって少しずつ掬い上げられていくことによって、あの頃の俺が少しずつ救われている。だからきっとあの頃が報われて嬉しい気持ちと、あの頃のままの絶望が複雑に混じり合って湧き上がったのかもしれない。
不意にポケットに突っ込んだままのスマホがブーブーと震え出した。もしかして律樹さんかなと思いながら顔を上げてスマホをポケットから取り出して、画面に表示された律樹さんの文字に頬が緩んだ。今までも電話をかけてきてくれることは何度かあったが、俺の声が出ないこともあってその回数はかなり少ない。
何だか新鮮な気持ちになりながら画面を指でスライドして応答すると、電話の向こうから聞き慣れた彼の声が聞こえてきた。
『電話でごめんね。ちょっと今頼まれごとをしてて、あと十分ほどで戻れると思うからもし――』
――チリリン。
スマホを当てていた方とは反対側の耳に届いた音に、俺は動きを止めた。スマホからはまだ律樹さんの声が聞こえてきているけれど、だんだんと遠くなっていく。
「――弓月?」
どこか懐かしい声が不思議そうに俺の名前を呼ぶ。その声に応えるようにゆっくりと振り返った俺は息を呑んだ。
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