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第二章
二十三話 女の人 後編
しおりを挟む「そこまで」
凛とした女性の声が響く。視線を扉の方に向けると、そこにいたのはやはり先程の女性だった。
彼女はその綺麗な顔を歪めながら俺たち二人に視線を向けており、俺は驚きに目を瞬かせる。同時にすぐ近くで小さく弾けるような音が聞こえ、反射的に音の方へと視線を移した。どうやら律樹さんの舌打ちだったらしい。
「律樹……彼、驚いてるけどいいの?」
「……帰れって言っただろ」
「あんたねぇ……用も済んでないのに帰れるわけないでしょ?」
不機嫌そうな声が頭上から降ってくる。普段とは全く違う話し方や声色に驚きっぱなしの俺は、ベッドに横たわった状態で律樹さんと女性の顔を交互に見比べていた。
扉の前に立って腕組みをする女性と目があう。その時初めて、彼女の瞳が俺の好きな琥珀色の瞳とよく似ていることに気がついた。
「……律樹、いい加減その子から退いてあげなさい。困ってるわよ?」
「……ごめん……大丈夫?」
女性の言葉に、律樹さんがはっと我に返ったように表情を緩めて俺の上から退いた。差し伸べられた手を取って起き上がると、そこにいたのはいつもの律樹さんだった。困惑する俺を見て、律樹さんは罰が悪そうな顔をしている。その様子に女性は困ったように笑った。
「私は瀬名六花(りっか)、律樹の姉です」
そう自己紹介され、思わず二人を見比べる。確かにそう言われてみれば、髪色や性別は違うがどことなく雰囲気や顔立ちが似ているような気がした。六花さんが言うには、俺が幼い頃に何度か会っているらしい。全く覚えていなかったことを謝ると、彼女は少し罰が悪そうな表情で視線を落とした。
「私も……ごめんなさい。こうして律樹に紹介されるまで、貴方が弓月くんだって気が付かなかった」
律樹さんが俺を紹介した時、六花さんはとても驚いているようだった。それにどういった意味があったのかは俺にはわからない。けれど彼女の表情の中に安堵のような感情が読み取れたので、悪い意味の驚きではなさそうだ。
彼女は俺の声が出ないことを知ると、さっきは反応して欲しいとか失礼なことを沢山言ってごめんなさいとさらに謝ってくれた。別に気にしないでもいいのに思うが、俺の隣で「謝らせとけばいいよ」なんて言う律樹さんが面白くてつい笑ってしまう。
「律樹、私がここに来た理由はわかるわよね?」
「……どうせ母さんに言われてきたんだろ?」
「残念、父さんがあんたのことを心配して私を寄越したのよ。……父さんも酷いわよね、律樹と弓月くんが一緒に住んでるっていう情報をくれなかったんだから。もしわかっていたらあんな黙ったままでいないで、どこかに出掛けたり出来たのに」
「……だから言わなかったんだろ」
テンポよく進んでいく会話に、これが普通の姉弟の会話かぁ…と感心する。こうして見れば二人はただの仲のいい姉弟だった。
俺はあの兄とこんな風に軽やかに会話をしたことが今までなかったから少し羨ましい。……羨ましくても相手がアレなので、実際にしたいとはこれっぽっちも思わないが。
そんな二人の様子をにこにこと見つめていると、不意に二人の会話が止まる。どうしたのと首を傾げると、彼らは小さく口を動かしながら小声で何かを話し始めた。それは本当に小さな声だったのでうまく聞き取れなかったが、二人が優しい目で俺を見ていることに気がついて少し恥ずかしくなる。視線を下に落としつつもう一度彼らを見ると、よく似た優しい笑みが俺に向けられていた。
一通り話し終えたのか、八つ時前に立花さんは帰って行った。再び静けさが戻り、なんとも言えない寂しさが胸を襲う。
普段この家から聞こえてくる声は律樹さん一人分なので、二人の声が聞こえていた時はやっぱり賑やかだった。早く声が出せるようになったら俺も賑やかにできるだろうかと考えて、そんなことはないかとすぐに自嘲が浮かぶ。
「弓月」
「!」
名前を呼ばれ、肩が跳ねる。
なんとなく嫌な予感がして、俺は振り返らずにそっと律樹さんから遠ざかろうと一歩踏み出したが、それは腕を掴まれたことによって阻止されてしまった。
律樹さんの声がほんの僅かに低い。怒気を含んでいるような声音がもう一度俺の名前を呼んだ。ギギギ…と音を立てながら呼ばれた方を振り返る。せめてもの抵抗にと僅かに視線を逸らしながらだったのに、それに気がついた律樹さんがとてもいい笑顔でまた呼ぶので渋々視線を合わせた。
琥珀色の瞳に情けない顔が写っている。俺今こんな顔してるのかぁ…なんて思いながら、ごめんなさいと口を開こうとした時だった。
「……!」
掴まれた腕を引かれたと思った時には、俺の身体はすっぽりと彼の腕の中におさまっていた。ぎゅうぎゅうと強い力で抱きしめられる。怒られると思っていたけれど、まさか抱きしめられるとは思ってもみなくて俺は目を白黒させた。
「……心配した」
「?」
「帰ってきた時、弓月がいなくて……何かあったのかと思った」
「……」
首筋に顔を埋めながら小さく言葉を紡いでいくその声は少し震えている。俺はそれを静かに聞いていた。
「弓月以外の……何故か姉がいるし、俺のいない間に弓月がここからいなくなったのかと……お願いだから、危ないことはしないで欲しい」
危ないって、律樹さんのご家族の方じゃないの?と思ったが、これが六花さんじゃなくて他の人だった場合は確かに律樹さんの言う通りかとしれないと黙って頷く。
今回悪いのは俺だ。律樹さんとの約束を守れなかった俺が悪い。だからごめんなさいと言えないかわりに、彼の柔らかな栗色の髪の毛を撫でた。
律樹さんの腕が緩み、俺たちは向かい合わせに座った。律樹さんはもう怒ってはいないようだったが、こうして顔を突き合わせると少し緊張する。もう一度しっかり謝った方がいいのかなと思いながら徐々に俯いていく俺の頭に、律樹さんの苦笑じみた小さな笑い声が降ってきた。
「もう怒ってないよ。だから顔を上げて?」
「……」
怒ってないとはっきりと告げられ、俺はほっと息を吐き出して顔を上げる。俺の好きな琥珀色に映る自分の顔はやっぱり情けなくて笑みが溢れた。
ごめんなさい、と口を動かす。約束を破ってごめんなさいと目を見ながら伝えると、声は出ていなかったにも関わらず彼にはちゃんと通じたようだ。
「うん、もういいよ。……でも今度からは気をつけてね?絶対に一人でいる時に玄関を開けない、応対しないって」
真剣な眼差しで紡がれる言葉にこくりと頷くと、やっと律樹さんの表情が和らいだ。
申し訳ない気持ちも勿論あるが、でも普段とは違う律樹さんを見れて良かったなと喜ぶ自分もいて、俺は困ったように笑った。
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