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第二章
二十八話 夢の中の人 後編①
しおりを挟む律樹さんと保科さんの二人は本当に仲が良いようで、時折目線で会話をすることがある。
たった三十分ほどでもそのことに気付くくらいには、かなりの頻度だったように思う。
俺は徐々に動くようになっていく体にほっとしつつ、貸してもらった電子メモパッドに文字を書きながら二人と会話をしていた。それは主に律樹さんについてで、保科さんから聞く律樹さんの話は俺の知るものとは全く違い、驚きの連続だった。
六花さんが家に来た時から薄々感じてはいたが、もしかして俺と一緒にいる時は俺が頼りないから素が出せないんだろうか。
そんなことを考えていると、不意に律樹さんが席を立った。どうやらトイレに行くらしい。ちょっと待っててね、という言葉と共に彼は部屋を出ていき、結果俺と保科さんは二人きりなってしまった。
「あいつ……本当に君のことを大事にしてるんだな」
律樹さんが出て行った方向を見つめながら、保科さんがぽつりと溢した。確かに俺の体のことも心のことも気にしてくれているのは伝わってくるし、大事にしてもらっているんだろうなとは感じる。けれどそれは親戚の子が酷い目にあっていたからで、きっとそれ以上の感情はないだろうとも思う。どこか壊れ物を扱うような慎重さを含む律樹さんの言動を思い出し、胸がつきりと痛んだ。
『それは多分俺がかわいそうな子だからですよ。りつきさんは俺がかわいそうなしんせきの子だから、優しいんです』
「は……え、いや、あいつは……え?」
「……?」
俺が書き記した文字に、保科さんが思わずといった様子で声を上げる。そしてなにか考え事をしているのか、俺とパッドを何度も見比べながら顎に手を当てた。
「……少し、聞いても良いか?」
伺うような視線と言葉だった。
慎重に言葉を選んでいるのか、歯切れが悪い。
俺がこくりと頷くと、彼は眉間に皺を寄せつつ言葉をこぼした。
「坂薙は……その……どう、なんだ?」
「……?」
坂薙と呼ばれ、身体が僅かに跳ねる。名字とはいえ自分の名前の一部にこんな反応を示すのもおかしな話だが、どうしてもあの人たちの顔がちらついてあまり良い気はしない。しかしそれを今日会ったばかりの人に言うのもどうかと思い、俺は首を傾げるだけに留めた。
「あー……その……律樹のこと、どう思って……いやこれは、流石にお節介が過ぎるか……?」
口元に手を添えながらぶつぶつと何かを呟く保科さんに、俺はさらに首を捻る。
(なんだろ? 俺がどう……律樹さんのこと、どう思って……ああ、もしかして、俺が律樹さんのことをどう思ってるかってこと、か……っ!)
保科さんの言った言葉を何度も頭の中で反芻し、漸く彼が言いたかっただろうことを理解した瞬間、全身が一気に熱くなった。ぶわわっと顔に熱が集まり、心臓が激しく鼓動する。
どうって、そんなの俺だってわからないよと言いたいが、口はぱくぱくと開閉しても声は出ない。そんな俺の反応に保科さんは目を瞬かせた。
「……律樹のこと、好きか?」
「……‼︎」
好き――好きか嫌いかで言えば、律樹さんのことは……好きだ。
俺は頷くと同時に俯いた。俺の顔は多分、すごく赤くなっているだろう。だってすごく熱いんだ。熱くて、心臓がドキドキして……やっぱり俺の身体はどこかおかしいのかもしれない。
そういえば保科さんは養護教諭、つまり保健室の先生だ。もしかすると俺の体のどこがおかしいのかがわかるかもしれない。俺は意を決して電子メモパッドに文字を連ねていった。
『俺の体どこかおかしいみたいなんです』
「は……? それは……病院とか」
『病院の先生に言ったら、良い傾向ですねって言われました。でもどういうことなのかわからなくて』
「良い傾向……? ……あー、その……因みになんだが、その症状を聞いても良いか?」
保科さんは右の掌で顔を押さえて俯きながら俺にそう言った。どうしたんだろう、頭が痛いのかなと思いながらペンを画面に走らせていく。それを見ていた保科さんがそれはそれは大きな溜息を吐いたので、俺は驚いて彼を見た。
「……そうか」
「……」
「いい傾向、ねぇ……まあ確かに、そうだな」
「……?」
どこか遠い目をした保科さんが何かをぽつりと溢したが、開いた窓から聞こえてくる蝉の声にかき消され、それが何と言っていたかはわからなかった。でも竹中先生と同じようにその表情は柔らかい。決して嫌なことを言われているわけではないのだろうが、それにしても気になる。自分のことなのにどうして自分だけがわからないのだと少し落ち込んでいると、ぽんと頭に温もりが乗った。
「あんまり考えすぎるなよ」
「……?」
「お前はお前のペースで理解していけばいい」
もしかして慰めてくれているんだろうか。
律樹さんと同じくらい大きい掌が俺の頭をわしゃわしゃと撫でる。律樹さんよりもずっと雑で乱暴な手つきだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
その時、保健室の扉がコンコンと叩かれた。俺と保科さんはお互い顔を見合わせて首を捻る。俺は、律樹さんだとしたらすぐに入ってくるよね?という確認のようなものだったが、それは保科さんも同じだったらしい。
彼は俺から扉の方に視線を移すと僅かに眉間の間に皺を寄せた。
(あれ……? なんか既視感……)
以前にもこんなことがあったような気がする。どこだったっけと頭を捻っていると、不意に叩かれた扉がガタガタと揺れた。揺れたことで少し開いた扉の隙間から人影が見える。
瞬間、俺の頭に浮かんだのは病院の光景――そうだ、思い出した。これ、病室にあいつが来た時の光景によく似ているんだ。
気付くと途端に全身が震え出した。カタカタと震える身体を自分の腕でぎゅっと抱き締めてなんとか震えを止めようとするが、震えは止まるどころか酷くなっていく。歯がカチカチと鳴り、頭の芯が冷えていくような感覚がした。
「おい……大丈夫か?」
低い声が近くで聞こえるが、正直答える余裕なんてない。扉を挟んだ向こう側で何か話し声が聞こえてくるが、それすらもあの時を想起させて俺の身体は動けなくなる。
兄はもう遠くに行ったはずなのに、そこにいるのが兄のような錯覚を覚える。またあの支配される生活に戻るのかとか、色々頭の中を巡っていく。あの時の心と身体が離別したような気持ちの悪い感覚が全身を支配していき、目の前がぐるぐると回り出した。
「坂薙、落ち着け!」
指先から血の気が引いていくようだった。手足が痺れているような感覚と胸の痛みにぐらぐらと身体が揺れる。遠くの方で誰かの声が聞こえるような気がするが、何を言っているのかはわからない。苦しい。苦しくてどうにかなりそうなのに、どこか他人事のように思う自分がいた。
「――!」
これは叫び声、何だろうか。
多分声だと思うが、俺の耳に届いたそれが何と言っていたのかはわからなかった。でもそれと同時に全身が温もりに包まれたことは理解できた。
鼻腔を擽る香りに、遠退いていた感覚が戻ってくるのがわかる。目を閉じ、強張っていた身体から力を抜いていくと、俺を包み込んでいた温もりがさらに強くなった。
「弓月」
優しくて柔らかな声が耳を打つ。耳のすぐ近くで発せられたその声に、いつの間にか痺れも痛みもなくなっていた。
「――弓月?」
「……っ」
呼吸が落ち着いてきた頃、ようやく感覚を取り戻した耳に届いたのは、どこか聞き覚えのある声だった。
脳裏に浮かぶのは夢の光景。
胸がズキズキと痛み、心臓の鼓動が速くなる。俺は自分を包み込んでくれている温もりをぎゅっと握りしめた。
「大丈夫だよ、弓月」
この声に大丈夫だと言われたら、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。背中を上下に撫でられるリズムに合わせてゆっくりと呼吸をすると、身体が楽になっていく気がした。
「……どうしてここに?」
いつもよりも幾分か低い声が耳に届く。
それが俺に向けられているものではないと気が付いたのは、律樹さんの背後から声が聞こえてきたからだ。
「俺……どうしても弓月に会いたくて……会って、話したくて……っ」
「そう……さっきも言ったけど、弓月は話せないよ」
「は……? いや……そんなの、わからないじゃないですかっ! ただの従兄弟である瀬名先生に何が……っ、何がわかるんですか‼︎ 俺は、俺は……っ!」
当たり前のことなんだけど、夢の中と同じ声でもこっちは人間らしいななんて思ってしまった。壊れたテープのように何度も同じ声色や同じ台詞を繰り返すわけではなく、発せられる言葉全てから感情が感じ取れる。
それでも正直に言うと、ただましというだけで怖いことには変わりない。
顔を上げると柔らかな琥珀色と視線がかち合った。不思議なほどに穏やかで凪いだ瞳に、ぽかんとした俺の顔が映っている。
「刈谷」
「っ……保科、先生」
「保健室で騒ぐな」
「っ、でも!」
「でもも何もない。……少し落ち着け」
俺の隣に腰掛けていた保科さんが立ち上がり、どこかに歩いていく。それを視線で追っていると、溜息のような吐息が降ってきた。
再び視線を戻す。見上げた琥珀色が優しげに細まった。
「……ん? どうかした?」
ほんの少し疲労が混じっているような声色に胸がきゅっとなる。でもよく考えてみれば、それも仕方のないことなのかもしれない。
こんなに怖がりで身体が思うように動かないような頼りない弱い俺と一緒にいるのだから、律樹さんが疲労するのも頷ける。俺も保科さんみたいだったらよかったのにと思った。
律樹さんの背後、保健室の扉付近で保科さんたちが話している声が聞こえてくる。何の話をしているのかはここからでは聞こえないが、さっきのような大きな声ではないところを見るに、さっきの夢の中に出てきた刈谷という人も少しは落ち着いたようだ。
俺はもう大丈夫だと言うように律樹さんの胸を手のひらでとんとんと軽く叩いた。しかし彼の腕は離れない。それどころか抱き締める腕をさらに強くされて驚いた。
「……?」
「もう少し……このまま」
律樹さんの柔らかな髪が頬を擽った。堪らずに身を捩ると、耳元でくすくすと笑い声が聞こえてきて思わず頬が緩む。俺ももう少しこのままがいいなぁ……なんて思っていると、不意に俺たちの上に影が落ちた。
「律樹、いつまでそうしてるつもりなんだ?」
「いっ、た……!」
怒気というよりも呆れを含んだ声に顔を上げると同時、耳のすぐ近くで律樹さんの声が聞こえ、身体に軽い衝撃が襲った。何が起こったのかがわからなくておろおろとする俺に律樹さんは笑いかけてくれるが、多分それどころではない気がする。
「お前も教師だろ、生徒の話も聞いてやれ」
「あ、いや……俺は別に弓月と話せれば、それで……」
「……坂薙はどうしたい?」
さっき叫んでいた言葉からも、確かに俺と話したいんだろうなっていうことは伝わってきた。律樹さんの腕の中からちらりと窺うと、その人は不安そうに瞳を揺らしながらこちらを見ている。俺と視線が合うとすぐに逸らされてしまったが、そこに夢の中のような恐怖は微塵もなかった。
律樹さんのしっかりした胸板を手のひらで軽く押すと、思いの外すんなりと腕が外れていく。それに少しの名残惜しさを感じつつ、俺は律樹さんにありがとうと口を動かした。
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