声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第二章

三十九話 お出掛け 後編

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 それからしばらくして、トレーを手に戻ってきた律樹さんは少し不機嫌そうに見えた。
 どうしたんだろうと首を傾げながら、さっきまで壱弦が座っていたソファーに座る彼の服をちょいちょいと軽く引っ張る。すると何か言いたげな表情で、けれども何を言うでもない律樹さんの視線が揺れ、逸らされた。
 
 買いに行った先で何かあったのかとも思ったけど、もしかして俺が原因なんだろうか。無意識に何か怒らせるようなことしちゃったのかなと必死に思いを巡らせるが、思い当たる節がまるでない。
 どうしよう、恋人になったばかりの初デートなのに「やっぱりごめんね」って振られてしまう前触れなんじゃ……なんて嫌な考えが浮かんで思わず項垂れた。脳内で繰り広げられる鬱々とした考えに視線が落ちていく。そんな俺の様子を知ってか知らずか、俺の頭に手のひらをぽんと置いた律樹さんはぽつりと短い謝罪の言葉を口にした。

「……?」

 どういうことかわからず視線を僅かに上げて律樹さんの方を見てみると、そこには手で顔を覆いながら俯く彼の姿があった。
 
 ……えっと、本当にどうしたんだろう。
 この様子だと俺が何かしたというわけではなさそうなんだけど、ただそれしかわからない。俺と離れている間に何かあったのだろうかと首を捻るが、当然のことながら考えたところでわかるわけもなかった。

 大きな手で覆われた隙間から小さく溜息が聞こえる。感情を含んでいるというよりもどこか気持ちを落ち着かせようとする意図が感じられるそれに、俺はますます首を傾げた。

「……さっき……いや、なんでもない」

 顔から手を外し、顔を俺の方に向けた律樹さんが何か言いたげに口を僅かに開閉させる。そうして漸く言葉がこぼれたかと思えば、また口が噤まれた。
 囁くような小ささではあったが、確かに「さっき」という言葉が聞こえてきた。少しの間合っていた視線が再び外れてしまったことが寂しい。
 
 俺はスマホを手に、両手の親指で文字を打ち込み始め、そして書き終わると同時にちょいちょいと服を引っ張ってこちらに注意を引き寄せる。彼の琥珀色の瞳が俺を捉えたことを確認し、スマホの画面を見せた。

『どうしたの?なにかあった?』

 眉を下げながら問いかけるように小首を傾げる。
 何かあったのなら教えて欲しいという気持ちを含めた視線を送ると、ぐっと息を詰まらせた律樹さんが諦めたように息を吐き出した。

「……引かない?」

 こくこくと首を縦に振ると琥珀色の瞳が一瞬思案するように揺れ、すっと逸れていく。しかしその代わりといったふうに頭に添えられた手に力が入り、俺の頭は体ごと彼の方へと引き寄せられた。まるで頭を抱え込むような格好に、ほんの少しだけドキッとする。

「さっき……ここに刈谷がいたでしょ」
「……?」

 律樹さんの口からこぼれた言葉は俺が全く予想していなかったもので、俺はぽかんと間抜けな顔で彼の顔を見上げる。

 確かにさっきまでここに壱弦はいたが、それと律樹さんが不機嫌そうだった理由にどう関係するのかがわからない。ぐるぐると考えを巡らせるがどうにも答えが出そうになくて、俺は縋るような視線を彼に向けた。

「……俺はね、弓月が思ってるほど大人じゃないんだよ」

 そう言って律樹さんは困ったように笑う。
 俺はさらにどういうことかわからなくなって、疑問符を頭いっぱいに浮かべるしかない。

「多分、弓月が思っているよりもずっと俺は弓月のことが大好きで……大人気ないんだ」

 真剣に話をしているというのに、俺ときたら『大好き』という言葉に胸を高鳴らせている。とくとくと速度を上げる鼓動に俺はなんだか気まずくなって、視線を自分の膝あたりへと落とした。
 不意に頭に添えられていた大きな手に僅かに力がこもる。そして引き寄せられた頭に彼の頭が軽く当たり、さらに密着した状態に心臓が跳ね上がった。

 ここは家の中じゃなくて外だ。誰に見られているかもわからないのに、まるでそんなものは気にしていないとでもいうように律樹さんはいつも通りの距離感でいる。
 実際俺たちが今座っている席は奥まった場所なので人目にはつきにくいだろう。だからと言って誰にも見られないというわけではない。
 俺は顔が熱くなるのを感じながら、揺れる瞳で律樹さんを見上げた。

「刈谷と……なに、話してたの?」

 ほんの少し尖った唇に淡く色づいた頬、そしてバツが悪いのか僅かに逸らされた顔。綺麗な琥珀色の瞳は度々俺の方を窺うよう揺れ動いている。
 なんだかいつもの律樹さんよりも幾分か幼く感じる姿に、どうしてか俺の胸は騒がしくなっていく。いつもは大人でしっかりとした印象の律樹さんの、らしくない子どものような表情を知れたことが嬉しかったのかもしれない。
 俺はとくとくと嬉し気に鳴る胸に手を当てながら、手に持ったスマホに指を滑らせた。

『前に話してた鈴が見つかったかどうかを話してました』
「鈴……?……ああ、あの刈谷が持ってた金色の?」
『うん。俺も同じ鈴を持っているらしいから見つけたいんだけど』

 そこから先は書けなかった。
 ……というよりも、書くのを躊躇ったと言った方が正しいのかもしれない。

 あの家に戻るのが怖いだなんて言えない、言いたくない。戻りたくないからもう諦めようなんて思っている非情さを、何となく律樹さんには知られたくなくて口を引き結ぶ。まあ口を閉じたところで元々声が出ない俺には全く関係がないのだが、それでも俺は無意識に口を固く閉じていた。

 動きが止まった俺の指に律樹さんの視線が突き刺さる。続きを待ってくれているのはわかるんだけど、俺はこれ以上書く気が起きなくて顔を上げて曖昧に笑った。
 そんな俺の様子に何かを悟ったらしい律樹さんの身体が俺から離れていく。戸惑う俺をよそに彼はローテーブルの上に置いたままだったストローの刺さったプラスチック容器を手に取り、俺に差し出してくれた。
 少し時間が経過したためかプラスチックの容器の周りには水滴が付き、その容器が置かれていたトレーの上には輪っかのような水溜りが出来上がっている。

 俺は律樹さんの手から中身の入った容器を受け取り、ストローを唇で軽く挟んだ。そしてちぅと音を立てて吸い込む。すると中に入っていた薄い茶色と黄色を混ぜたような色の液体が吸い上げられて口の中に入っていった。
 冷たさと同時に、りんごの爽やかな甘みが口いっぱいに広がっていく。喉を上下に動かして飲み込むと、不思議なことにほんの少しすっきりとした気持ちになった。

「体調、大丈夫?」

 気遣うような視線と声に頷くと、柔らかな笑みが返ってきた。さっきまでの表情とはまるで違ういつものような優しい微笑みに、俺はいつの間にか肩に入っていた力を抜いた。

「……鈍感な弓月も可愛いんだけど」
「……?」

 ぽつりと呟かれた声に咥えていたストローから唇を離して律樹さんを見ると、ぱちりと視線があった。
 眉尻を下げて苦笑する彼は、徐にコーヒーが入っているだろう紙の容器を持っていない方の手で俺の頬に触れた。指先がするりと頬を撫でるように滑っていく。

「……俺以外にそんな顔、見せちゃダメだよ?」
「……っ」

 冷たい飲み物を飲んでいるはずなのに身体が熱い。困ったような照れたような表情で笑う彼に、俺は顔を赤くして固まるしか出来なかった。
 そんな顔がどんな顔なのかは、自分の表情が見えない俺にはわからない。けれど甘く蕩けるような彼の視線に、俺も同じような顔なのかもしれないと思う。

 ……もし俺の自惚れじゃなかったとしたらだけど、もしかして律樹さんは壱弦に対してやきもちを焼いたのだろうか。やきもち、嫉妬、そんな感情を今まで向けられたことがなかったからわからなかったが、もしそうだとすれば少し嬉しい。
 俺はほわほわと温かさを持った胸に手を当ててそっと息を吐き出した。

「ああそうだ、弓月がこの間食べたいって言ってた期間限定のドーナツも買ってきたんだ。もし食べれそうなら一緒にどうかな?」

 どうやら機嫌が良くなったらしい律樹さんがトレーの上を指差した。俺は顔の熱を冷ますために一気にりんごジュースを飲み干し、しかし顔を俯かせたまま小さく頷く。
 まだ頬が火照っている。座っているソファーは違うのに、動く度に香る律樹さんの香りに心臓がうるさい。

 律樹さんが買ってきてくれたドーナツは二つ。
 それぞれ一つずつ手に取って齧ると、口の中にさつまいもの甘みが一気に広がった。その味に、そういえばもう秋なんだなぁ、なんて思いながらもう一口食べる。外側はサクッとしていて中はふんわりと柔らかい。上に乗っているさつまいもクリームは甘すぎず、とても美味しかった。

「弓月、はいどうぞ」
「……?……!」

 律樹さんが差し出してくれたドーナツは俺のものとは違い、上にさつまいもクリームは乗っていなかった。その代わりに片側の表面だけがキャラメリゼされている。
 俺が確認するように律樹さんを見ると、彼はとても幸せそうに微笑みながら頷いてくれた。

 たまたま見ていたテレビ番組で紹介されていたものが自分の目の前にあるという事実に、なんだかわくわくする。
 俺は律樹さんが差し出してくれたドーナツに向かってあーんと口を開けた。ごくりと喉が鳴る音が聞こえて閉じていた目を開けると、なんだか慌てた様子の律樹さんが戸惑うような曖昧な笑みを浮かべながら俺の口にドーナツを入れてくれた。
 パリッとした食感と共に口に広がるのはキャラメリゼ特有のほろ苦さを含んだ甘み。下の土台自体は同じなのにこうも味や食感が違うのかと、幸せな気分で口を動かす。

 もらったお礼にと俺が持っていたドーナツを差し出すと、律樹さんは一瞬動きを止めたものの、躊躇いがちにドーナツを一口食べてくれた。
 俺はほくほくとした気持ちで残りのドーナツを食べすすめていく。途中で、そういえば俺の口がついていないところをちぎって渡した方が良かったよなと思うが後の祭りである。気付かなくてごめんなさいと謝ろうとした時、彼が顔を赤くしていることに気がついた。
 つられて、やっと治ったはずの熱がまた湧き上がってくる。心臓は鼓動をはやめ、頬が熱い。お互いそんな状態が続き、食べ終わった頃には二人とも疲れ切っていた。


 
 その後はすぐにでも帰りたかったが、今回一番の目的だった俺の服を買いに行くことになった。服を何着か買った後は夕飯の買い物をして帰路に着いた。

 車の中、運転する律樹さんの横で俺は船を漕いでいた。体力を使い果たしているのだろう身体は思うようには動かない。こっくりこっくりと揺れる俺の頭と今にも閉じそうな瞼。
 車の振動が弱まり、車が赤信号で止まったことがわかった。もう半分も開いていない目でぼんやりと律樹さんを見つめると、彼はくすくすと笑いながら俺の頭を優しく撫でた。

「寝ても大丈夫だよ」
「……」
「今日は楽しかったね。また、行こうね」

 温かくて包容力のある大きな手は俺を夢へと誘うようだ。穏やかで優しい声と温もりに、俺は眠りの世界へと旅立った。
 
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