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第三章
四十一話 文化祭のお誘い 中編
しおりを挟む玄関から聞こえたガチャガチャという音に、俺はふと目を覚ました。どうやら机に突っ伏したままいつの間にか眠っていたようだ。
机に置いていたスマホを見れば、律樹さんから今から帰るという旨の新着メッセージが届いていており、俺は椅子から立ち上がるとすぐに玄関の方へと向かった。
「ただいま、弓月」
そこにいたのはやはり律樹さんだった。
帰宅したばかりで疲れているだろうに、律樹さんは「ただいま」と柔らかく微笑んでくれる。いつもならそれに対して頷くなり何なりと反応を示すのだが、寝起きであまり頭が働いていなかった俺は返事をすることもなく、ただよろよろと彼の前までゆっくりと歩いくだけだった。
不思議そうな表情でどうしたのと律樹さんが首を傾げる。しかしそれに対しても俺は何も答えず、吸い込まれるようにぽふっと彼の胸に凭れ掛かった。
予想外の行動に律樹さんの体がびくっと微かに揺れる。倒れたと思ったのか慌てて背中に添えられる大きくて温かな手に、俺はそっと瞳を閉じた。
胸元に顔を埋めながらすぅと息を吸い込むと同時に、肺の中を嗅ぎ慣れた匂いが満たしていく。しかしその香りの奥、紛れ込んだ知らない匂いにほんの少しだけ胸が軋む音がした。
どうやら戸惑っているらしい律樹さんの声が頭上から降ってくるが、なんとなく今は反応したくなくてそのまま頭をぐりぐりと胸元に押し付けた。まるで自分の匂いを擦り付けるような行動に、再度彼の身体がびくりと反応する。
「どうかした……?」
「……」
「弓月……?」
返事もしないままに何度かぐりぐりと軽く擦り付けた後、ぴたりと動きを止める。
「……落ち着いた?」
その声に、顔を埋めたまま小さく頷いた。
背中に添えられた手が撫でるように上下に動く。薄いTシャツの上から伝わる温もりに、俺はほっと息を吐き出した。
「弓月、こっち向いて」
「……?」
律樹さんの言葉に俺は顔を上げた。琥珀色の瞳と目が合い、俺はどうしたのと首を傾げる。きっとどうしたのと聞きたいのは彼の方だろうななんて思う。
目を細めながらふわりと微笑む律樹さんの優しげな表情に心臓が主張をし始めた。とくんとくんと穏やかながらも鼓動は速度を上げていく。
不意に律樹さんの顔が近付いてきた。鼻先が当たり、息が掛かるほどその距離は近い。
あと少しで唇同士が触れる――その時だった。
「……っ」
すぐ近くで聞こえてきた着信を告げる電子音に、ぴたりと動きが止まった。ほんの少し動くだけでも触れ合ってしまう程の距離にも関わらず、そこから先が進まない。そんな俺たちの間を割くように、止まりそうもない着信音が鳴り続けていた。
律樹さんが大きくて深い溜息をこぼす。開いていく距離に一抹の寂しさを感じながらも、俺は音のする方へと視線を向けた。
俺の背を撫でていた手とは反対の手に持っていたスマホを持ち上げた彼の眉間に皺が刻まれる。
「――なに?」
スマホを耳に当てた後の第一声は、普段ほとんど聞かないようなドスの聞いた低い声だった。珍しいその声にぴくっと身体が反応する。
そんな少し怖い声を向けられている相手も中々のようで、不機嫌丸出しといった様子だった律樹さんの眉間にはだんだんと深くて濃い皺が刻まれていった。
通話相手が誰かなんてわからない。他人のスマホの画面を覗く趣味なんてものは俺にはないし、知ったところで何もないのだから俺には関係ない。でも胸のもやもやは増していく一方だった。
俺は視線を足元へ落として律樹さんの服の裾を摘んだ。引っ張るでもなく揺らすでもなく、ただ軽く摘んだだけのそれに彼が気づくことはない。別に気づいて欲しくてしたわけじゃないのだからそれでも構わないはずなのに、どうして俺は気づいてくれたら嬉しいだなんて思っているのだろう。自分の心が、よくわからない。
「弓月」
「……?」
まだ通話中だろうに、律樹さんが俺を呼ぶ。さっきまでのようなドスの聞いた低い声じゃなくて、少し心配そうな優しい声に俺は顔を上げた。
「電話の相手、六花姉さんだったんだけど……その、弓月と代わってほしいって……どうする?」
スマホを耳から離した律樹さんが眉尻を下げながらそう問いかけてきた。そうか、相手は六花さんだったのかとほっとしたのも束の間、どうして俺なんだろうと首を傾げた。
俺の知っている限りでは俺と六花さんの関わりは多くない。いや多くないというか、この間彼女がこの家を訪れた一回のみだ。あの時もあまり話をすることはなかったから、どうして俺に代わってほしいのかがわからなくて、俺は困惑の眼差しで律樹さんを見つめた。
俺は声が出ない。出したくても出ない。
そんな俺が代わったところで電話越しの会話なんて出来るわけもないのに、どうして六花さんは俺に代わってほしいなんて言ったんだろう。
俺の戸惑いに気づいているらしい律樹さんが背中を摩る。嫌なら断っても良いんだよなんて律樹さんは言うけれど、嫌なわけじゃないから余計にどうしたら良いのかわからないんだと瞳が揺れた。
「……やめておく?」
優しげにそう聞く律樹さんに俺は少し迷った後、ふるふると頭を横に振った。そして服の裾を掴んでいた手を離し、差し出されたスマホを受け取って耳に当てる。
もしもし、なんて言えないから小さく二回スマホをとんとんと指先で叩いた。するとその合図に気がついたのか、電話の向こう側から俺の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。それにもう一度軽くとんと指先で返事をすると、くすくすと言う柔らかな笑い声がした。
「弓月くん、電話に出てくれてありがとう。本当はメッセージを送ろうと思ってたんだけどね、律樹が中々教えてくれなくて……もしよかったら今度弓月くんからもお願いしておいてもらえると嬉しいんだけど、お願いしても良いかしら?」
指先の返事は肯定は一度、否定は二度。
わかりましたと一度叩いて返事をすれば、六花さんの嬉しそうな声が聞こえてきたのでうまく伝わったようだ。さっきまで不安で緊張していたのが嘘のように顔の表情筋が緩んでいく。
「あっそうそう、今電話を代わってもらったのはね、もうすぐ律樹が働く高校の文化祭でしょ?知り合いから入場チケットを貰ったんだけど、よかったら一緒に行かないかなって思ったの。あ、詳しくはメッセージで送るね」
はい、と俺が指先で返事をすると六花さんは明るい声色で「じゃあまたね」と言って通話が切れた。
あっという間もなく切れてしまったそれをおずおずと差し出すと、彼は「いつものことだから大丈夫」と苦笑を浮かべながら俺の頭に手を乗せた。落ち着かせるためか慰めか、温かな手がぽんぽんと二度跳ねる。
「あ、そうだ……さっき出来なかったから」
「……?」
そう言うや否や、頭を撫でていた手が下へと下がっていく。目の横や頬を通っていき、顎に触れた所でぴたりと止まった。顎に軽く掛かった指先に力が込められてくいっと持ち上げられ、優しげに細まった琥珀色と視線がかち合った。
親指の腹が唇に触れる。形を確かめるように唇をなぞる指先に、胸がどきどきとした。
うるさくなっていく心臓にきゅっと目を閉じると同時に、唇に柔らかいものが触れた。驚いて目を開くと視界いっぱいに広がる彼の顔。
「……っ!!」
ぶわりと体が熱を帯びる。
突然のことに頭が追いつかない。
「……ふふっ、可愛い」
「……ッ」
それはすぐに音も立てずに離れていく。律樹さんの頬も少し色づいているからきっと彼も恥ずかしいのかもしれないが、もうとこう……心の準備とかさせて欲しかったなぁなんて思う。
ただいまのキスだね、なんてはにかみながら言う律樹さんから目を逸らした俺は、けれど小さく頷いた。
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