声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第四章

七十九話 瀬名家襲来 中編

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 律樹さんの怒気を含んだ声に怯むこともなく、目の前に座る母に似た女性が口を開いた。

「息子の様子を見に来る理由なんて、心配だから以外にあるかしら?それとも、来られるとまずい理由でもあるのかしら?」
「……あぁ?」
「母さんっ‼︎今日は喧嘩しにきたんじゃないんだから落ち着いて!律樹もよ!」

 今にも勃発しそうだった喧嘩を止めたのは律樹さんの姉である六花さんだった。彼女は女性と律樹さんを諌めるように語気を荒げている。そんな姿を見つめながら、俺は聞こえてきた単語に首を傾げた。
 
 六花さんは今なんと言っただろうか。目の前の女性のことを『母さん』と呼んだような気がするのだが気のせいだろうか、と律樹さんを見上げる。確かに似ていなくもないような気もするが、正直あまりよくわからない。六花さんの時もそうだったなぁと思いながら俺は話し合う二人の様子をぼんやりと見つめた。

「母さん……あのね、律樹が怒るのも当然よ。この前もさっきも、何度も説明したでしょう?律樹は弓月くんを大事にしてるんだって」
「大事にしているって……当たり前でしょう?弓月はペットじゃないのよ?まだ高校に在学していてもおかしくない年齢なのに学校にも行かせず、かといってしっかりとした治療も受けさせてもいない……こんなことなら、初めから私たちが引き取るべきだったわ」
「母さんっ‼︎」

 六花さんから「母さん」と呼ばれた女性が俺に視線を向ける。今のやり取りを見ていたからなのか、今度は母を思い出すことはなかった。

「弓月」
「……?」

 六花さんと話していた時よりも大分落ち着いた声音が名前を呼ぶ。さっきよりも幾分か優しげに緩められた瞳と視線が合い、俺は少し緊張しながら返事をするように僅かに首を傾げた。

「……本当に弓月、なのね」
「……?」
「私のこと……誰だかわかる?」

 八の字に眉を下げながら唇を震わせる女性の姿に胸がつきりと痛む。ごめんなさい、わからないですと眉尻を下げながら緩く頭を横に振ると、そうよねと彼女は悲しげに目を伏せた。
 
「最後に会ったのは貴方が小さな頃だったから、覚えていないのも無理はないわ。あんなことが……あった後だったし、余計よね……」

 あんなこと?と首を傾げる俺に彼女は曖昧に笑う。その表情が今にも泣きそうで、俺は思わず身体を乗り出し、手を伸ばそうとして――律樹さんに止められた。どうして、と戸惑いながら振り向いた瞬間、そこにあった彼の表情に息を呑む。
 あんなことがどんなことを指しているのかは知らないけれど、律樹さんの表情を見るにあまり良いことではないらしい。何かを思い出しているのか、彼の顔はとても痛そうだった。

「改めて自己紹介をするわね。私は瀬名律子りつこ。ここにいる六花と律樹の母親で……貴方のお母さん――坂薙規子のりこの姉よ」
 
 ……ああ、だから母さんのことを思い出したのか。
 俺の母の姉ということは、どうやら俺にとっては伯母に当たる人のようだ。それならば母さんに似ているのも納得がいく。けれど大人しく周りに流されやすかった母さんとは性格は真反対のように見えた。六花さんとのやり取りを見ていても少し頑固というか、芯の強い女性なのだろうなとわかる。
 反対に、俺の母さんである坂薙規子はとても弱い人だった。体も弱かったがそれ以上に心が弱く、とても繊細な人だった。周りからの視線を常に気にして生きているような人で、俺が兄に監禁されているのをずっと見て見ぬ振りをしていた。兄は母さんに対しても強く当たることがあったから、もしかすると俺の知らないところで二人の間には何かがあったのかもしれないと今は思う。

「規子たちが行方を晦ましたと聞いた時、本当はすぐにでも貴方を引き取りたいと思ったの。けれど私たち夫婦はつい最近まで海外にいて……いえ、これは言い訳ね」

 自嘲気味に小さくそう呟くと彼女は座る位置を少し変え、床に手を付いて深々と頭を下げた。俺はそんな彼女の姿に慌てて隣に座る六花さんを見たが、どこか痛そうな表情で母親の姿を黙って見つめる彼女の姿に何も言えなくなる。

「規子たちが、ごめんなさい。貴方にあんな酷いことをしていると知っていればもっと早く助けることができたのに……それに学校だって……謝って済む問題でないことはわかってるわ。でも……それでも私は同じ大人として謝らせてほしいの。……本当に、ごめんなさい」

 俺に頭を下げ続ける彼女は、泣いているのだろうか体が小さく小刻みに震えていた。律子さんは悪くないと言いたいけれど、俺には今そう伝える手段がない。どうしたら伝わるだろうかと考えていると、お腹に回った律樹さんの腕に力が入った。
 後ろを振り向いて顔を上げる。こっちを見ていたらしい律樹さんと目が合った。彼は六花さんと同じような表情をしている。どこか痛みを抱えたような顔があまりにも辛そうで、思わず同じような顔を浮かべてしまった。

「……どうして弓月までそんな表情するの」

 振り向いた俺の顔を見て、律樹さんが困ったように笑う。俺を抱えていない方の手で俺の頬に触れ、指先をそっと滑らせた。

(だって……みんな痛そうな顔してるから……)

 俺のせいで律樹さん達にこんな表情をさせているのかと思うと胸がズキズキと痛んだ。そっと胸に手を当て、服が皺になるのも構わずに力任せに鷲掴む。徐々に落ちていく視線。視界に小さく震えた白い拳が入る。
 
 脳裏に浮かぶのは過去の光景。
 泣かないで、ごめんなさいと泣きながら謝る自分と、絶望の表情で虚空を見つめながら静かに壊れていく母の姿に心臓が軋む。
 思わずぎゅっと目を瞑ると、頬に触れていた温もりがするりと目元を拭った。そのまま顔を上げられ、俺はそっと瞼を開く。

「……別に許さなくてもいいんだよ」
「……っ」
「……母さんも、わざわざ弓月に嫌なことを思い出させるためにここに来のか?」
「違うわ……ごめんなさい」

 お腹に回った律樹さんの腕にさらに力が込められ、ぐっと引き寄せられる。僅かに横を向いた体を抱き寄せられ、頭の側面が彼の胸板に触れた。とくとくと規則正しい鼓動が聞こえる。
 大好きな香りが鼻を掠め、俺は詰めていた息を吐き出して彼の胸にそっと擦り寄った。

 
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