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第四章
八十二話 欲が生まれる
「じゃあ……またね、弓月」
玄関先、律子さんが俺を優しく抱きしめながらそう呟いた。名残惜しく思ってくれているのか、俺を囲う腕の力は弱まることなく、寧ろほんの少し強くなる。女性特有の柔らかく甘やかな香りの中にふわりと香る優しい香りは、少しだけ律樹さんに似ていた。
「もし律樹に愛想を尽かしたり、変なことをされそうになったらすぐにうちにいらっしゃい。あとで連絡先と住所を送っておくわね」
「変なことって……」
「あら、いくら恋人で第二性のこともあるとはいえ、まだ弓月は本当なら高校生なのよ? 律樹が奥手なのは知っているけれど、それでもいつ一線を越えようとするかわからないじゃない。……ねえ?」
律子さんが俺から身体を離し、優しく微笑みながらそう言った。変なことや一線を超えるという言葉に顔が熱くなる。別に律樹さんにされて嫌なことも変なこともないし、俺としては彼となら一線を越えてもいいなんて少し思っていた。
ちらりと隣に立つ律樹さんを見上げると、彼はなんとも言えないような複雑そうな表情で俺と律子さんを見下ろしていた。その様子に律子さんは楽しそうにくすくすと笑いながら俺の頭を撫でる。
「勿論、なにもなくたって帰ってきていいのよ。私たちは家族なんだから」
「……!」
「待ってるわ」
そう言って目を細めた彼女の表情に律樹さんの顔が重なる。親子だから当たり前なんだろうけれど、律樹さんが俺に向ける表情とよく似ていた。
律子さんと六花さんを見送った後、律樹さんと共に家に入った。ついさっきまである程度賑やかだったそこはいつも通りの静けさを取り戻しており、なんだか少し寂しい気分になる。先に家の中に入った俺の後ろで聞き慣れた足音が聞こえてきた。
律樹さんが開いた扉から一歩中に入る。そうしてまだ上り框を跨がず、土間に立ったままの俺の後ろに立った。音を立てながら扉が閉まると同時にカチャンという音が鳴り響く。それは律樹さんが鍵を閉めた音だった。
「……弓月」
胸とお腹に回った俺よりもずっとしっかりとした腕が俺を抱き締め、引き寄せる。背中に伝わる熱と鼓動に心臓がどくんと跳ねた。
優しくて穏やかな匂いがふわりと香ったかと思えば、さらさらとした栗色の細く柔らかな髪が首筋に流れる。コツンと小さな音と共に、律樹さんの額が俺の肩に当たった。
「……っ」
擽ったさに僅かに身を捩ると、俺を囲う腕が強くなった。まるで離さないとでも言われているようなその腕に、胸の鼓動が速くなる。
「さっき言ったこと……嘘じゃないから」
「……?」
肩口に顔を埋めた律樹さんから溢れた声。それはとても小さな声だったけれど、すぐ近くにあった耳にははっきりと届いた。けれどさっき言ったことというのが一体どのことを指しているのかわからず、俺は小さく首を傾げる。さらりと俺の黒い髪が流れ、律樹さんの頬に毛先が触れると同時に、彼の顔が俺の肩から離れていった。
肩から離れた重さが名残惜しくて、僅かに動く首を少しだけ後ろへと向ける。するとその動きに連動してか、胸に回っていた腕が徐々に上に上がっていき、やがて俺の顎に指先が辿り着いた。人差し指と親指が顎を挟むように触れる。どうしたんだろうと戸惑っていると、顎を挟む指先に力が込められた。
「……っ」
ぐっと力が込められ、俺の顔が後ろを向く。しかし首の可動域はそんなにはない。俺は可動域の限界である真横に顔を向けたまま、さらに視線を後ろへとやる。すると視界の端にぎらりと光る琥珀色の瞳と視線が交わった。引き寄せられる唇。気付けば俺の唇は律樹さんのそれと重なっていた。
それは朝のような深く貪るようなものではなく、ただ重ねるだけのものだ。すぐに離れていった唇に少しの名残惜しさを感じながら、突然のキスにぽかんとする。
律樹さんの腕が俺から離れていく。呆然とその様子を視界の端で眺めていると、いつの間にか律樹さんが俺の目の前に立っていた。真剣な色を讃えた彼の琥珀色の瞳が俺を捉える。
「結婚するなら、弓月がいい」
「……!」
「俺……弓月以外と結婚するつもりなんてないから」
「っ……!」
真っ直ぐに俺を見つめる瞳が僅かに揺れる。緊張しているのか、彼の頬は赤く色づいていた。でもきっと、俺の方がさらに赤くなっているに違いない。
顔が熱い、身体も心も熱かった。まるで熱に浮かされたかのように少し高い位置にある律樹さんの顔を見上げれば、真剣な瞳が俺を真っ直ぐに見つめながら僅かに細まる。
さっきも思ったが、もしかしてこれは本当にプロポーズ……なのだろうか。いやでも、同性だからパートナーとして登録することはできるけど結婚は出来ないんじゃ――そんなことをぐるぐると頭の中で考えていると、律樹さんの端正な顔が距離を詰めてきた。近づいてくる彼の顔に、やっぱり綺麗で格好良いよなぁ……なんてぼんやりと思っていると、また唇が重なる。
「……一応、プロポーズのつもり……なんだけど」
「…………っ‼︎」
離れた唇が動き、そう言葉を紡いだ。
プロポーズ……プロポーズって結婚の意思を伝えるっていう求婚のことだよね?あれ、でも俺は男で律樹さんも男だから結婚じゃなくてパートナーのことになるんだっけ?いやそもそも俺たちってまだ恋人になったばっかりで……もしかするとこの先律樹さんに似合う綺麗な女性が現れるかもしれないのに。
そんな考えに至った時、それは嫌だなぁ……と思った。
少し前まではそんな人が現れたら俺は身を引かないといけないだろうなぁ、なんて考えていたのに、今はそれが嫌だと感じる。
俺はきゅっと唇を引き結ぶ。そしてそっと律樹さんの胸元に手を添え、くいっと引っ張った。
「…………!」
本当は嬉しい。……嬉しかったんだ。うだうだ色んなことを考えていたけれど、本当は俺のことを大好きだと言って求めてくれる律樹さんの言葉が嬉しくてたまらなかった。けれど同時に独占欲のようなものが俺の中に生まれたのがわかる。
ごめんね、もしこの先律樹さんが俺以外を好きになったとしてもきっともう離れてあげられない……かもしれない。
顔を上に向け、精一杯背伸びをする。一瞬だけ重なった唇。目尻から溢れる温かな雫が頬を伝っていく。
――ずっと、一緒にいられますように。
そう心の中で呟きながら笑みを浮かべた瞬間、気付けば俺の身体は律樹さんの腕の中に引き込まれていた。
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