108 / 210
第四章
八十四話 焦りと葛藤
しおりを挟む投与できる抑制剤がないという衝撃的な話を聞いてから一週間が経った。今日は土曜日なので律樹さんは午前中だけ仕事に行っている。本当なら午後からデートの予定だったのだが、正直今は出かける気力はおろか動く気力さえない。
そもそも俺が抑制剤も無しに外に出られるかということなのだが、多分無理だ。今はまだいいとしても、きっと近くで誰かがコマンドを発すれば俺はそれに自分の意思とは関係なく従ってしまうだろう。下手をすればサブドロップするかもしれない。そうすれば律樹さんだけじゃなくて他の人にも迷惑がかかってしまう。折角恋人以上になれたというのに、こんなんじゃまた出会ったばかりの頃みたいだ。
俺はベッドに仰向けに寝転びながらため息をついた。
一人でいると自然とネガティブな思考になってしまう。こんな俺なんかいなくなればいいのにと俺の中の何かが囁いてくる。なのにそのくせ、誰か俺をめちゃくちゃにして助けてくれと思ってしまうのだ。
難儀だと自分でもわかってる。わかってるけど、止められない。
(会いたいなぁ……)
早く律樹さんに会いたい。
会って抱き締めて、それからキスをして。
プレイだっていっぱいしたい。いっぱい褒めて欲しい。それで律樹さんにぐちゃぐちゃにされたい。
そう思った瞬間、自嘲が溢れた。
抑制の効かないSubの俺の思考はこんなにも浅ましかったのか、と。
律樹さんに助け出してもらってすぐの頃はDomが怖いとか言っていたのに、俺は今Domによる支配を求めている。それはDomじゃなくて律樹さんにだろ、と言いたいところだが、正直今のまともじゃない思考回路ではそれもよくわからない。
ただ支配されたい、抵抗も出来ないままにぐちゃぐちゃにされたいと本気で思ってしまう自分が、気持ち悪い。
(俺はただ律樹さんと幸せになりたいだけなのに……どうして……)
男同士じゃなかったらすぐにでも結婚していたかもしれない。けれど生憎俺も律樹さんも男だ。この国ではパートナーにしかなれない。それがこんなにも苦しい。
律樹さんのいないベッドの上は広く感じる。手を伸ばしても足を伸ばしても何にも当たらず開放的なはずなのに、心が寒い。何だか虚しくなって、俺は律樹さんの部屋を出た。
向かうのは自分用にと用意された部屋。この一週間は勉強をする気も起きず、この部屋に来ることもなかった。元々勉強以外ではほとんど使うことのない部屋だからか、なんだか空気がひんやりとしていた。
勉強机の前の椅子に腰掛け、机に突っ伏す。ため息を吐きながら固い机に額を押し当てるとコツンと音がした。
頭を傾けて窓を見ると、外は快晴だった。俺の心とは裏腹に青く澄み切った空には雲ひとつない。肺が空になるくらい息を吐き出したあと、俺の体は再び机に沈んでいった。
不意に伸ばした腕に何かが触れた。何だろうと思いながら腕を伸ばして、机の上を彷徨わせてみる。すると指に何かが触れると同時にカサッと音がした。それを指先で慎重に掴みながらそっと引き寄せていく。現れたのは、丸めた白い紙だった。
(あ……これ、もしかして……)
のそのそと起き上がり、ゆっくりと紙を開いていく。くしゃくしゃに丸められた紙の中にあったのは、いつぞやの抑制剤たちだった。そういえば机の引き出しに入れる前はここに隠していたんだっけかと自嘲が溢れる。
皺だらけの紙に包まれていた白い錠剤はおよそ十錠。一度も口にすることなく入れられていたそれは、入れた時のままそこに入っていた。
「……っ」
体が薬を拒否していると律樹さんにバレてからは一度もこの薬を飲んでいない。なんなら、見てもいない。
飲んだとしてもすぐに吐き出してしまって意味がないものをいつまでも置いておくわけにはいかないと、律樹さんがどこかに隠してしまった。もしかしたらもう必要のないものとして捨ててしまったかもしれない。
けれどここにあるのはその残骸。律樹さんにバレてしまう前に俺が隠滅した、秘密の名残だ。
その白い錠剤を見つめていると、一瞬ある考えが頭をよぎった。
もしかしたら今ならこの錠剤を飲めるかもしれない、なんて。そんな馬鹿な考えだった。
きっと正常に頭が働いていればそんなことを思うことはなかっただろう。けれど今は、点滴すらも体が拒否し始めたという愕然とするような事実に多大なるショック受けている。そのせいで俺の頭は正常な思考を放棄ーーもとい、やけくそを起こし始めていた。
抑制剤の服用が出来ないということはつまり、今まで以上にプレイをしなければならないということ。それも欲求を完全に満たすくらいのプレイを行わなければならないだろう。
それに俺自身、今どれほどの欲求を持っているのか、これから先出てくるのかはわからない。ランクが高ければ高いほど欲求の度合いが高いというけれど、それが実際どのくらいのものなのかなんてわからないのだ。
これから先プレイをするにしても、竹中医師の言うとおり今まで通りでは駄目なんだろう。それはなんとなくわかる。
でも今まで通りじゃないプレイってなんだろうと考える。例えば時間を長くするとか、今までのように甘いものではなく乱暴さを含んだ激しくするとか、それともーー
そこまで考えて、俺は頭を振った。
……駄目だ。律樹さんは仕事もあるんだから、これ以上負担をかけちゃ駄目だ。
これ以上律樹さんの負担を増やせば確実に律樹さんの方が先に参ってしまう。ただでさえ激務な上に心労を掛けさせているのだ。
律樹さんのためにも……これ以上頼っちゃ駄目だ、絶対に。
「……っ」
ほんと、なんて面倒な身体なんだろう。
皺くちゃの紙に包まれた白い錠剤を見つめながら、唇を噛み締める。視界が歪み、目尻から涙が溢れた。
なんで俺はSubになんかなってしまったんだろう。第二性がSubじゃなければ――せめて高ランクのSubじゃなかったらこんな風にはならなかったかもしれないのに。
心の中でそう嘆いたときには、俺はその白い錠剤たちを引っ掴んでいた。多分、衝動的だった。気付けば足は台所へと向かっていて、着いた瞬間ガラスのコップを取り出して水を注いでいた。
ぐっと握りしめた手ーー否、その中におさめたあの白い錠剤たちを睨みつける。
(これを飲めば……もしかしたら……っ)
そう思うのに身体はそれ以上動かない。錠剤を握りしめたままの拳は力を込めすぎて白くなり、震えていた。
この薬を飲めば楽になれるかもしれない。
そう思うのに、あの苦しさを思い出した身体は拒否を示している。また嘔吐するのが目に見えているのに本当に飲むのかと頭の中で声が響く。
かたかたと震えた手の中からガラスのコップが滑り落ちた。床に叩きつけられたそれはパリンッと鋭い音を立てて方々へと飛散する。足の裏に冷たい水が染み込んでいく感覚に俺は思わず足を上げ、そしてたたらを踏んだ。
「……ッ!」
鋭い痛みが走る。白くなるまで強く握りしめられていた拳が開き、白い錠剤が全て床に落ちていった。
ころん、ころんと転がりながら散らばっていく白色。そのうちの一つが、零した水溜まりの中にころころと転がりながら入っていく。ぴちょ、と微かな音とともに横に倒れ、僅かな波紋を生んだ。透明だった水にじわりと白いもやが現れる。
その様子をぼんやりと見つめていると、慌てたような足音とともに俺を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。
「――っ、弓月? 今の音……っ!?」
「……」
息を切らしながら現れた律樹さんは、俺と目があった瞬間目を見開いた。手に持っていたパンパンに膨れたエコバッグがどすんっと音を立てながら床に落ちる。律樹さんは俺を見て、それから床の惨状に視線を移した。その悲惨さに息を呑む音が聞こえる。
ごめんなさいって謝らないといけないのに、俺はまだ動けない。なんだか足の裏がじんじんと痛かった。
「弓月、そこを動かないで待ってて。……今片付けるから」
そう言った律樹さんが台所から消える。しかしすぐに箒と塵取りを手に戻ってきた。手にはピンク色の厚手のゴム手袋が嵌められている。飛び散ったガラス片を丁寧にゴム手袋を装着した手で集めてから箒と塵取りで小さな破片を集めていった。水浸しになったところを厚手のティッシュのようなもので拭いていき、気付けばそこは元通りの床になっていた。
「足上げて……あー、これは切ってるね……」
片方の足の裏を見た律樹さんが痛そうに顔を歪める。律樹さんが俺を抱き上げ、居間のソファーへと下ろした。そしてテレビ台の下に常備している救急箱を取り出し、俺の治療を始める。
冷たくなっていた俺の足に触れる彼の手が熱くて、俺はきゅっと唇を噛み締めた。
226
あなたにおすすめの小説
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
二日に一度を目安に更新しております
カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!
野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ
平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、
どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。
数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。
きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、
生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。
「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」
それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
※ 不定期更新です。
どうせ全部、知ってるくせに。
楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】
親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。
飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。
※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。
隠れSubは大好きなDomに跪きたい
みー
BL
ある日ハイランクDomの榊千鶴に告白してきたのは、Subを怖がらせているという噂のあの子でー。
更新がずいぶん遅れてしまいました。全話加筆修正いたしましたので、また読んでいただけると嬉しいです。
公爵家の末っ子に転生しました〜出来損ないなので潔く退場しようとしたらうっかり溺愛されてしまった件について〜
上総啓
BL
公爵家の末っ子に転生したシルビオ。
体が弱く生まれて早々ぶっ倒れ、家族は見事に過保護ルートへと突き進んでしまった。
両親はめちゃくちゃ溺愛してくるし、超強い兄様はブラコンに育ち弟絶対守るマンに……。
せっかくファンタジーの世界に転生したんだから魔法も使えたり?と思ったら、我が家に代々伝わる上位氷魔法が俺にだけ使えない?
しかも俺に使える魔法は氷魔法じゃなく『神聖魔法』?というか『神聖魔法』を操れるのは神に選ばれた愛し子だけ……?
どうせ余命幾ばくもない出来損ないなら仕方ない、お荷物の僕はさっさと今世からも退場しよう……と思ってたのに?
偶然騎士たちを神聖魔法で救って、何故か天使と呼ばれて崇められたり。終いには帝国最強の狂血皇子に溺愛されて囲われちゃったり……いやいやちょっと待て。魔王様、主神様、まさかアンタらも?
……ってあれ、なんかめちゃくちゃ囲われてない??
―――
病弱ならどうせすぐ死ぬかー。ならちょっとばかし遊んでもいいよね?と自由にやってたら無駄に最強な奴らに溺愛されちゃってた受けの話。
※別名義で連載していた作品になります。
(名義を統合しこちらに移動することになりました)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる