声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第四章

閑話 瀬名律樹は決意する 後編①

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※思っていたより長くなったので区切ります…



 夜が明け、朝が来た。
 土曜日の今日は午前中のみの出勤なので、午後には帰ることができる。今日こそは注文したものを受け取りに行きたい。

 今朝方も弓月は悪夢に魘されていた。喉を掻きむしるように引っ掻き、嫌々と髪を振り乱しながら暴れる姿は、何度見ても胸が痛くなる。痛々しい引っ掻き傷を隠すように布団を首元まで掛けてやると、閉じた瞼の下から弓月の綺麗な黒曜石のような瞳が細く現れた。

「……起こした?」

 そう聞くと、弓月は返事の代わりなのかへにゃりと蕩けた笑みを浮かべた。そして温もりを求めるように俺の腕に擦り寄ってくる。まるで猫のようだなんて思いながら、細くて柔らかな黒髪に手のひらを添えつつ髪をすくように優しく撫でた。すると弓月は蕩けた笑顔のまま再び目を閉じ、数秒も経たずに再び寝息を立て始める。
 本人に自覚はなくとも、身体が睡眠を求めているのだろう。すうすうと寝息を立てる弓月は、その後俺が出勤する時になっても起きなかった。

「いってきます」

 玄関でそう呟く。返事を期待して言っているわけじゃない。けれど少し前までは度々見ることができた手を振る弓月の姿が脳裏に浮かび、そっと溜息が溢れた。



 学校に着いてからはいつも通りだった。
 担当クラスの授業を行い、空き時間を使って今度のテストを作成する。小テストや期末試験のテスト問題をパソコンを用いて作っていき、たまに質問に来た生徒の対応をした。
 本当にいつも通りの日常だ。
 けれど少なくとも俺にとって今日という日は変化の日だ。弓月にとっても変化の日であってくれたらとも思っている。

 俺は弓月が好きだ。
 誰よりも大事で、愛している。
 そんな弓月が辛い思いをしているこの現状をどうにか変えてやりたい。だからそのためには、俺はどうしてもあれを今日受け取らなければならなかった。

 午前で仕事が終わり、予定通り店で注文品の受け取りを済ませ、昼食の買い出しのあと帰路についた。この後は弓月とデートをする予定なのだが、最近の彼の調子から考えると日程をずらした方がいいかもしれない。
 目の前の信号が赤になったのを合図にブレーキをゆっくりと踏み込んでいく。完全に車が止まったのを確認し、俺は助手席に置いてある紙袋を二つ見つめた。
 この二つの紙袋の中にはそれぞれ箱が一つずつ入っている。小さい紙袋の方には手のひらサイズの木箱が、大きい紙袋の方にはそれよりも少し大きめの紺色の箱だ。婚約指輪や結婚指輪を買う時に給料三ヶ月分というのをよく聞くが、これはそこまではしない。いやまあ、二つ合わせれば三ヶ月分の給料くらいにはなるかもしれないが、そこは気にしてはいけない。

「……喜ぶかな」

 この二つは親の前でプロポーズする前――厳密に言えば恋人関係になった頃に注文していた物だった。いくらなんでも気が早いだろうと自分でも思うが、そもそも俺は恋人になった時点で弓月を手放すつもりなんてこれっぽっちもなかった。だから注文したのだが、いざ渡すとなるとこんなにも緊張するものなのかと今更ながらに怖気付きそうになっている。

 信号が青になり、車を発車させる。
 あと数分で家に着く。家に着いたらまず弓月に本当にプロポーズを受けてくれるのかをもう一度確認して、それからこれを渡そう。

 玄関の鍵を開け、扉を開くとやっぱりそこに弓月はいなかった。はぁ……と溜息をついたと同時に、ガシャンッという何かが落ちたような音と割れたような音が聞こえてきた。
 足をもつれさせながら音の方へと走る。胸が痛い。弓月に何かあったんじゃ、と全身から血の気が引いていく。

「――っ、弓月! 今の音……っ⁉︎」

 呆然とする弓月と目があう。揺れる瞳から目を逸らし、彼の足元を見て息を呑んだ。手の中から滑り落ちたエコバッグや紙袋が音を立てて床に落ちた。

 床一面に散らばるガラスの破片と水、そして溶けかけの白い錠剤。床の色合いや模様のせいでわかりにくいが、ほんのわずかに水に色がついているように見えたが気のせいだろうか。落ち着かせるように息を大きく呼吸し、弓月を見た。

「弓月、そこを動かないで待ってて。……今、片付けるから」

 そう言って弓月を制し、俺は床の惨状をどうにかするべく道具を取りに戻った。バクバクと大きく鼓動する心臓。どうしよう、一体何があったのかと混乱しながらも手際良く床の惨状を片付けていく。そして弓月の足の裏も濡れているだろうと持ち上げた時、目の前がくらりと揺れた。ガンガンと頭を硬いもので殴りつけられているような痛みが襲い、俺はそっと目を伏せる。

 落ち着け、大丈夫だ……大丈夫。
 そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと弓月を抱き上げて居間のソファーへと座らせて治療していく。
 幸い傷は浅く、血もすぐに止まった。見た目ほど酷くはなかったそれにほっとしながらも、バクバクとうるさい心臓はずっとうるさいままだ。

「はぁ……弓月は俺を心配させる天才だね……」
「……」
「心臓……止まるかと思った」
「……っ」

 弓月の足に額をくっつけながらそう溢すと、視界の端で弓月の口元が小さく動いた。多分俺の名前を呟いたんだと思う。
 弓月は気付いてないかもしれないが、何か悪いことをしてしまったかもと不安になったとき、弓月の口はいつも俺の名前を形取る。それはきっと無意識だろうが、それでも俺は頼ってもらえているようで嬉しかった。
 
 弓月は驚いたような表情で俺を見ていた。声に出ていなくたってわかるよと言えば、元々大きな目がますます大きく見開かれていく。

「俺が何年弓月を思い続けているか知ってる? もう十五年だよ? ……十五年、ずっと思い続けてきたんだ……それくらい、わかる」

 目を細めながらそう呟いて、俺は弓月を強く抱きしめた。驚いたのか、ぴくりと身体を跳ねさせる弓月。それがたまらなく可愛くて、愛おしくて、俺はさらに力を込めた。

 
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