声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

九十一話 楽しいひととき

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 律樹さんがいなくなると、途端にこの家は静かになる。
 外から聞こえてくる微かな音と俺の呼吸音や足音だけが今の俺の世界だった。
 寂しいなんて律樹さんには言えない。いろいろなものを貰っているのに、その上我儘を言うのはお門違いだからだ。
 けれど少し前までは不安で寂しくて仕方がなかったこの時間も、今はこの首輪カラーがあるお陰で苦ではない。寧ろ家事や勉強を頑張ろうなんて、不思議とやる気が満ちてくるのだ。
 家事とは言ったが、残念ながら料理だけは律樹さんにお願いしている。おにぎりは辛うじて作れるようになったが、それ以外はからっきしだ。寧ろ俺が一人の時にやると律樹さんに迷惑をかけてしまう可能性があるから、火や包丁を使う料理に関してはもう少し練習をしてから挑戦しようと思う。料理は律樹さん、それ以外は俺がする。適材適所というやつだ。

 洗濯や掃除を済ませた後は昼食を食べる。
 最近の昼食はおにぎり。律樹さんの負担を減らすため、料理の練習の一環で作るようになった。形はまだまだ歪だが、初めの頃に比べれば大分ましになったと思う。初めの頃は固めすぎたり、反対に握らなすぎたりと散々だったが、最近は律樹さんからいい感じだと褒めてもらえることが多くなった。
 今日のおにぎりの具は鮭。
 冷蔵庫にあった鮭フレークを入れて作った、握り拳ほどの大きさのおにぎりである。焼き海苔を巻いて齧り付くと、磯の香りが鼻を抜けたあとに米の甘みと鮭の塩味と甘みが口いっぱいに広がって美味しい。けれどもう少し握っても良かったかもしれないなとも思う。

 昼食を食べ終えた後は勉強だ。
 高卒認定試験の本番を終えたとはいえ、まだ受かっているかどうかはわからない。もし不合格だったら再度受験をしなければならないし、合格だった場合も次は大学受験だ。どちらにしろ俺に休む暇なんてないのである。
 
 自室の勉強机でひたすらに問題集を解き続ける。
 気づいた時にはもう外は暗くなっていた。冬も間近ということもあって日の入りも早い。カーテンが開け放たれているせいで外に光が漏れ、その光に集まった小さな羽虫たちが窓ガラスにいくつも止まっていた。
 そっと窓ガラスに触れると、ひんやりとしたそれが手のひらから熱を奪っていく。透明なガラス越しに空を見上げるが、室内の光が反射しているせいでよく見えなかった。

(はやく帰ってこないかなぁ……)

 硬い感触が指先に当たる。どうやらまた無意識に貰った首輪に触れていたらしい。

 実はまだ、律樹さんと性行為えっちができていない。
 プロポーズ――実際は永続のパートナー契約のようなもの――にこの首輪をもらってから約二ヶ月、いくらでもその機会はあったのに先には進まなかった。
 大事にしてもらっているのはわかる。わかっているんだけど、それがひどくもどかしく感じる時があるんだ。
 確かにこの二ヶ月は試験の勉強やらで、触れ合う時間すらも必要最低限という感じで少なかった。その間もプレイだけはしっかりとしていたが、ただそれだけだ。性欲を処理するためにプレイついでに一緒に抜き合うことはあったけれど、それも両手で足りるほどだった。

 もう少し先に進みたい――その想いはあるのにどうしたらいいのかわからない。
 俺ももう十八だ。律樹さんが勤める学校の生徒でもない。
 結婚を約束した恋人同士なのだからもうしてもいいと思うのに、律樹さんはそれ以上手を出してはくれなかった。

(プレイも抜き合いもしてるってのに、なんで……これが欲求不満ってやつなのかな……?)

 俺が窓ガラスに触れながら黄昏ていると、玄関の方から扉が開くような音と声がしたような気がした。ガラスに触れて冷たくなった手を下ろし、早足で玄関の方へと向かう。するといくつかの足音と話し声が近づいてきた。

「――まあ、そうなんだけどさ……あ、ただいま弓月」
『りつきさん、ほしなさん、おかえりなさい』
「……ああ、ただいま」

 玄関から上がってすぐの廊下で話していた二人が俺に気がつき、律樹さんがひらひらと手を振りながらにこやかにそう言った。俺もそれに応えるように笑いながら、口の形をゆっくりと「おかえりなさい」と動かす。いつもならここで律樹さんとのおかえりのキスがあるのだが、今日はお客さんがいるのでお預けだ。
 俺がここにくるまでの間に二人が何の話をしていたのかは気になるが、もしかすると仕事の話かもしれないので特には触れることはしない。律樹さんたちもそれ以上話を続ける気もなかったのか、そのまま話題は流れていった。

 今日の夕飯はサラダとスープ、パスタ、そしてピザである。
 お昼くらいに俺が律樹さんに送ったピザというリクエストに合わせて、色々とメニューを考えてくれたらしい。
 保科さんと一緒に食卓にお箸やスプーンやフォーク、それから取り皿を運んでいく。律樹さんはといえば、今は器に作ったスープを注いでくれているようだ。

「これも持っていってくれる?」
「ああ。坂薙、こっちのピザを運んでくれるか?」

 保科さんの言葉にこくりと頷くと、彼がふっと口元を緩ませた。保科さんの珍しい笑みになんだか嬉しくなって、俺もつられて笑顔が溢れる。でも出来れば『坂薙』じゃなくて名前の方で呼んでくれたらいいのにと思う。

 料理や食器類を並べ終わり、各々好きなところに腰を下ろした。俺の向かいに座った律樹さんがこほんと咳払いをする。

「えー……まずは弓月、試験お疲れ様。最後の追い込みもすごく頑張ってたね。まだまだやることは多いだろうし、結果もまだ出てないけれど、一先ずはお疲れ様」
「本当にな……律樹が忙しい時のみの代理だったが、すごく頑張っていたと思う。……受かってるといいな」

 律樹さんが忙しくて時間が割けなかった時に勉強を見てくれていた保科さんが、僅かに口元を緩めながらそう言った。律樹さんと同じくらい大きくて筋張った手が俺の頭にぽんと乗せられる。それがなんだかくすぐったくて、俺はえへへとはにかみながらありがとうと口を動かした。

 乾杯をして、ご飯を食べて――楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
 もう少しこの穏やかで幸せな時間が続けばいいのに……律樹さんと保科さんがお酒を飲んでいる姿を見ながら、俺はそう思うのだった。


 
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