声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

閑話 刈谷壱弦は混乱する 前編

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 俺と同じように泣きそうになっていた弓月を抱き締めていた時、玄関チャイムが来客を告げた。もう少し弓月をこの腕に閉じ込めていたかったのだが、このチャイムが告げる意味を知っていた俺は、渋々弓月を離して玄関まで迎えに行く。するとそこには案の定、俺の幼馴染であり弓月の友人である打木桃矢が寒空の下立っていた。

「壱弦から誘ってくれるのなんていつぶりだろうね」
「あー……まあ、な」

 玄関を開けて第一声がそれだった。どうやら今日の桃矢は機嫌が良いらしい。いつもの愚痴も荒い口調もなく、昔を彷彿させるようなとても穏やかな話し方だ。
 外は寒いようで桃矢の鼻の頭がほんのりと赤い。手も冷たくなっているのか、両の掌を合わせながらはあ…と息を吹きかけていた。

 昔は俺から家に誘って遊ぶこともよくあった。だがいつからかそんなことも少なくなり、最近では一度もなくなっていた。けれどそれは桃矢だけでなく、桃矢以外の他の友人たちも同様である。特に弓月が高校に来なくなってからは誰かと遊ぶことすらもなく、こうして家に人を招くこと自体が久々だった。

「あ、これ、母さんから」
「ああ、うん、ありがとう」
美緒みおさんにもよろしく、だって」
「ん、伝えとく」

 桃矢の言う美緒さんとは俺の母親のことである。
 俺の母親と桃矢の母親は俺たちが生まれるよりもずっと前から仲が良かったらしい。二人は互いの家でお茶をすることはもちろん、二人だけでどこかに出かけたりすることも多かった。母親たちが一緒に過ごす時間が長いということは、必然的に俺たち子どもも同じ時間を過ごすことが多くなるということ。俺と桃矢は母親たちが仲良くしている間、二人で遊んでいた。
 初めの頃はそうしてよく遊んでいたと思う。俺には姉がいるが、姉は年齢も違えば性別も違う。だから俺たちが遊んでいても姉が入ってくることはほとんどなかった。

 この家は桃矢にとっても勝手知ったるものだ。どんな部屋がどこそこにあるだとか、何がどこに置いているかなど俺たち家族と同じようによく知っていることだろう。きっと今回も人に会うという目的がなければ、俺の先導も許可もなく勝手に俺の部屋に入っていただろうと思う。そうして我が物顔で俺の部屋に居座り、そうして母に誘われるがままにご飯を食べて泊まっていくのだ。
 けれども今日はいつもと違う。今日一緒に過ごすのは俺と桃矢だけではないし、おしゃべりな母たちもいない。だからなのか、桃矢は踏み出しかけた足を戸惑いがちにすっと引っ込めて苦笑いを浮かべていた。

「ごめん、ついいつもの癖で……今日は他にもいるんだもんね」
「……ああ」
「――で、僕に合わせたい人って誰なの?」

 そろそろ教えてくれても良いんじゃないかな、なんて言ってくる桃矢の声は苦笑を含んでいる。しかしその質問に俺は答えない。着いたらわかると言わんばかりに黙々と階段を上り進めていく。あと数段で階段を上り終えるというのに、俺はどこか気持ちが急いているようだった。多分弓月の喜ぶ顔が早く見たかったのだと思う。俺ははやる気持ちを抑えながら、足早に階段を上って行った。
 階段を上り終えると次はほんの少しだけある廊下を歩いていく。今二、三歩歩いたところにある自室の扉前に立ち、俺は小さく呼吸をした。そしてドアノブに手をかけ、見慣れたその扉をゆっくりと開けていく。後ろで息を呑む音が聞こえ、次いで呆然としたような小さな声が耳に入ってきた。

「……ゆづ……き……?」
「……ぁ」

 背後を振り返るとそこには「信じられない」とでも言いたげな表情があった。確かに初めは俺も同じようなことを思っていたから、こいつの気持ちは痛いほどにわかる。俺は眉尻を下げながら、そうだよな、そんな反応になるよなと内心共感しながら紹介をするために口を開いた。

「……弓月、こいつが桃矢だ。打木桃矢――俺の幼馴染で、瀬名先生が聞いてきた『トウヤくん』だよ」

 そう言いながら視線を戻した先、視界に入ってきた弓月の表情にあれ?と疑問符が頭の上に浮かんだ。そこにあったのは喜んでいるような表情ではなく、驚いたように見開かれた目と微かに震えている薄い唇。さっきまで色づきの良かった形の良い唇が、今は可哀想なほどに色をなくしている。
 
 何かがおかしい――心なしかその細く薄い体が震えているような気がして、俺は手を伸ばしながら弓月の方へと一歩足を踏み出した。弓月の肩に俺の手が触れる直前に彼の体がすとんと落ちる。えっ、と戸惑いながら視線を落とすと、そこには床にぺたりと座り込んでしまった弓月の姿があった。

「おい……弓月、大丈夫か?顔、真っ青だぞ」
「……ねぇ、本当に弓月……なの?」

 弓月の顔が紙のように白くなっている。小刻みに震える身体は何かに怯えているようだ。本当は今すぐにでもどうしたと抱き締めたかったが、ぐっと拳を握ることでその衝動を耐える。なんとなく今俺が触れるのは逆効果だと思ったからだ。
 きっと瀬名先生ならこういう時――いや、それを今考えるのはやめよう。虚しくなる。だがその代わりといってはなんだが、俺はそんな弓月に近寄ろうとしている桃矢の肩を掴んで引き留めた。
 
「桃矢、ちょっと待て。弓月の様子がおかしい……っ、おい!」
「ねえ……どうして、ここにいるの……?もしかして会わせたい人って、弓月のこと……なの?」
「おい、ちょっと待て桃矢!お前もなんか変だぞ!?」

 しかし桃矢はそんな弓月のことなど見えていないかのように、呆然と小さく何かを呟きながら弓月の方へと歩みを進めていく。弓月の様子もおかしいが、桃矢の様子もおかしいような気がする。上の空というか全体的にぼんやりとしていて、体がふらふらと揺れて足元がおぼつかない様子だった。
 慌てて桃矢の肩を掴んでいた手に力を入れてぐっと引き寄せる。しかし彼の身体は一瞬ふらりと揺らいだだけで、ふらふらとした足取りを止めることはなかった。

「おいっ、桃矢……!」
 
 俺がそう叫ぶのと同時、弓月の目の前に立った桃矢は突然膝を折ってぺたりと床に座り込んだ。


 
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