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第五章
百十九話 思い出したくなかった
しおりを挟むひとつ、思い出したことがある。
それは夢の中に桃矢くんが現れたあの日の記憶だ。
まだ咲いている桜の木に寄りかかる俺の上に乗った兄は、俺の首に添えた両手に力を入れていく。そんな兄の隣にはいつも通りシュンが立っていて、微かに笑みを浮かべながら俺を見下ろしていた。初めはしていた抵抗をしなくなったのは、あの日からだったような気がする。
俺に跨る兄よりもずっと後ろ、大分離れていたところに桃矢くんはいた。多分中々戻ってこない俺を心配して呼びにきてくれたんだろう。ただタイミングが悪かった。――そう、初めは本当にただただタイミングが悪いだけだったんだ。
「とうや、くん……」
首を絞められているせいで軌道が塞がり、思った以上に声を出すことはできなかった。か細くて掠れた声がずっと遠くにいる彼に聞こえたとは到底思えない。けれど通り過ぎようとしていたはずの桃矢くんはその場でぴたりと足を止め、すっとこちらを向いた。
心臓が嫌な風に跳ね上がる。こんなところを友達に見られてしまったという羞恥と絶望。しかし顔を赤くすることも青くすることも出来ない俺は、やがて心の中に諦めを見出した。
……ああ、もう、いいや。
あの時の桃矢くんの顔を思い出してしまった俺は、きっともう今度は忘れられないと思う。それほど俺の中では衝撃だった。
「は……とうやぁ……?」
俺のか細い声が聞こえたらしい兄が眉間に皺を寄せる。そして俺の視線を辿り、兄の目や顔がずっと後ろにいる桃矢くんに向けられた。それは多分シュンもだったと思う。二人はゆっくりと振り返り、そしてくすりと笑みをこぼした。
俺はこの笑みを知っている。彼らがどんな時にその笑みを浮かべるのか、嫌と言うほど知っていた。
立っていたシュンが体の向きを変え、ふっと笑った。一歩踏み出した足はスキップでもするように軽やかな足取りで桃矢くんの方へと進んでいく。
嫌な予感がした。けれど兄が上に乗っている状態、しかも首を絞められている状況ではどうすることもできない。そして残念なことに、抗おうにも体力も気力もほとんど残っていなかった。そうこうしているうちにシュンが桃矢くんの元に着いてしまった。
――やめて、桃矢くんは関係ない、逃げて。
そう言いたくても軌道が塞がっている今はまともに声を出すことすらできない。口を開いてもはくはくと音が鳴るだけで呼吸をすることもままならなかった。
視界が滲み、頭がぼんやりとしてきた頃、ようやく兄の手が俺の首から離された。塞がっていた気道が一気に広がり、堰き止められていた空気が一気に肺の中に入って咽せる。げほごほと咳き込む俺に興味なんてないのだろう、兄は俺の上から立ち上がってシュンを呼んだ。
「……誰?そいつ」
「こいつは俺の従兄弟の桃矢。久しぶりすぎて最初誰だかわかんなかったわ。そんで、こっちが坂薙総一郎な」
「坂薙……?……っ……あの、あれって……」
「――ん?ああ、あれ?あれはこいつの弟。今ちょうど兄弟喧嘩の真っ最中だったんだよ。変なところ見せてごめんな?びっくりしたよな」
こんなことが兄弟喧嘩だなんて誰が信じるんだと思ったが、そういえば教師は信じていたことを思い出し、俺はせっかく開きかけていた口をそっと噤んだ。でもそう思いながらも、心のどこかでは桃矢くんは俺の友達だから信じるわけがないと思っていたのかもしれない。だからこそ次の言葉に俺はショックを受けたんだと思う。
「……そ、うなん、です、ね……」
かなり歯切れの悪い返事ではあったが、それでも彼は肯定した。従兄弟の言葉を信じ、そして笑みを浮かべたという事実に俺の中の何かが崩れていくのを感じる。
「そういえばお前……Dom、か?」
「え……あ、いや……」
「あー……まあ、隠したくなる気持ちはわかるよ。俺も最初は隠したいって思ってた。……でも、Domであることを認めるのも大事なことだよ」
「え……それ、どういう……?」
俺がいるところから彼らのところまではそれなりに距離があるはずなのに、不思議なくらい彼らの声はよく聞こえた。桃矢くんの戸惑うような声音に俺は顔を上げる。すると丁度顔を上げたらしい桃矢くんと目があった。
「……っ」
俺たちは同時に息を呑んだ。
最近互いに抱いていた違和感の正体に、この時突然気がついてしまったのである。
「ゆづき……もしかして、Sub……なの?」
「……あっ……や……」
喉が張り付いてうまく声が出せない。引き攣ったような声が喉からこぼれ、俺は顔を背けてきゅっと唇を噛み締めた。
「あー……やっぱ桃矢と弓月は知り合いなのか。そういえば同じ学年か……もしかして同じクラス?」
楽しげにくすくすと笑いながらシュンはそんな風に話す。しかし俺と桃矢くんはそれに答える余裕がない。それがシュンの何かに触れたのか、いつもよりも数段低い声が俺たちの耳を打った。
今までのこともあり、俺の体が反射的にびくりと跳ねる。桃矢くんも同じようにぴくっと肩を震わせて、揺れる瞳を恐る恐るといった感じでシュンの方へと動かしていた。
「――なら、桃矢が欲求を満たしてやってよ」
初め、何を言っているのかわからなかった。
桃矢くんが俺の欲求を満たす――そんなの俺たちにプレイをしろって言っているようなものだ。恐らくシュンもそう言いたかったに違いない。けれど俺たちは友人同士だ。もしプレイをすれば今までのような関係ではいられなくなってしまう。対等の関係ではなく、支配し支配される関係になってしまうんだ。
俺はゆるゆると首を振った。小刻みに身体を震わせながら頭を横に振った。同意を求めるように、救いを求めるように桃矢くんを見た瞬間、俺のお腹の中がどろりと溶けてしまうような不快感が溢れ出てしまったのである。
シュンが桃矢くんの耳元に唇を寄せ、何かを呟いた。すると僅かに眉間に皺を寄せた桃矢くんは、次の瞬間には口元を歪ませて口を開いたのだ。
――「Kneel」と。
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