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第五章
百十八話 壱弦の家 後編
しおりを挟む――もしトウヤくんにまた会えたなら謝りたいんだ。
それは俺が律樹さんに伝えた言葉だ。夢のことを全て話す流れでそう言ったのだが、あの時は確かにそれが本心だった。あの時俺が思い詰めたような表情をしていたから律樹さんはわざわざ保科さんに連絡をしてまで『トウヤくん』について調べてくれたのだし、保科さんはたまたま近くにいたという壱弦にも聞いてくれたんだ。だからこそ今日という日を迎えることが出来たというのに、俺は今そのことをとても後悔していた。
ダイナミクスの力量関係による第二性の発現。Subが目の前にいる人の第二性がわかるように、DomもまたSubであることがわかる。これは本能的なものであり、個人の気持ちなんてものはそこには介在しない。
「……な、んで」
首の後ろがちりちりと痛む。手足が震え、ぺたりと座り込んだまま動くことが出来ない。コマンドを使われていなくてもSubは緊張や恐怖を感じることでKneelの体勢をとりたくなることがあるとネットには書いていたが、恐らく今がそうなんだろうなとぼんやりと思った。
目の前の口から呆然と呟かれた言葉と同じことを、俺もまた心の中で呟いた。
トウヤくんは確かに友達だったと思う。少なくとも夢の中ではそう思っていた。けれどあの時、兄やシュンにされていたことを見られてしまってから色々と変わってしまったのだろう。俺自身、トウヤくんに対して酷いことをしてしまったという罪悪感でいっぱいだったというのに、この気持ちはなんなんだろう。もしかして俺にはまだ思い出していない記憶があるのだろうか。
「おい……弓月、大丈夫か?顔、真っ青だぞ」
「……ねぇ、本当に弓月……なの?」
「桃矢、ちょっと待て。弓月の様子がおかしい……っ、おい!」
「ねえ……どうして、ここにいるの……?もしかして会わせたい人って、弓月のこと……なの?」
「おい、ちょっと待て桃矢!お前もなんか変だぞ!?」
苦しそうな表情のトウヤくんが足元をふらふらとさせながら一歩、また一歩と俺の方へと近付いてくる。ドクンドクンと心臓の音がうるさく鳴り響いて、胸が痛かった。
どうしてなんて、俺だって聞きたい。
なんで俺は君に罪悪感ではなく恐怖を抱いているのか。
壱弦に止められながらも俺の目の前まで近寄ってきた彼は、俺のすぐ目の前で俺と同じようにぺたりと床に座り込んだ。そして顔を伏せて項垂れる。俺はというとその様子から視線を外せないでいた。
彼――打木桃矢くんはDomだ。
それも多分高ランクのDomだと思う。
俺の本能がDomである彼から離れたほうがいいと言っているが、残念ながら俺の身体は震えたまま全く動きそうにない。そのまま目の前にある頭頂部を見つめていると、不意に目の前の彼が顔を上げた。俺と同じ黒色の瞳に――いやこれは黒に見えるけれどもよく見ると焦茶色の瞳だった――顔色の悪い痩せこけた自分の顔が小さく映っている。
「……今まで、どこにいたの」
「……」
「ねえ……僕の質問に答えてよ」
「おい、桃矢……弓月は」
「っ、壱弦は黙ってて!」
何も知らないくせに、と桃也くんが吐き捨てるようにこぼした言葉が棘のように俺の胸に刺さる。壱弦よりも知らないのは俺の方なんだよ。本当は俺が一番、何も知らない。けれどそんなことを言えるわけもなく、俺はきゅっと拳を握りしめた。
桃矢くんに言葉を遮られ、怒鳴られてしまった壱弦は驚いたように彼を見ている。しかしそれも一瞬のことで、すぐに我に返った壱弦は俺と桃矢くんの顔を交互に見てから溜息を吐いた。そして座り込む桃矢くんの隣に膝をつき、肩に手を置いてもう一度深い溜息をこぼす。
「あのな桃矢、弓月は今話せない」
「…………は?」
「声が、出ないんだ」
「……う、そ」
「残念ながら本当だ。色々あって、声を失くした」
まるで幼い子どもにでも言い聞かせるかのように、壱弦は桃矢くんにそう話していく。そっと顔を上げると、こちらを見ていた壱弦と目があった。優しげな焦茶色の瞳が僅かに憂いを帯びているように見え、俺はすっと目を逸らした。
桃矢くんは譫言のように「うそだ」と繰り返している。本当だよと言うことも出来ない俺は、その微かに震える頭頂部を見つめながら心の中でごめんなさいと呟いた。
今日はもう解散をした方がいいだろうと壱弦は提案してくれたが、桃矢くんはそれを拒否した。「いやだ」というたった一言が俺に重くのしかかる。
落ち着いてきたらしい桃矢くんが床から立ち上がり、ふらりと俺の方へと倒れ込んで来た。咄嗟のことに俺は何もすることが出来ず、ただただ倒れ込んでくる彼の様子を眺めていた。まるでスローモーションのようだった。桃矢くんの奥で壱弦が慌てた様子で俺に手を伸ばそうとしている。けれどそれよりも早く俺の全身に重みが加わり、肩口に息が掛かった。
「……Stay」
「……!」
耳に入ってきたコマンドに身体がぴしりと固まる。元々あまり効いていなかった体の制御が今完全に彼のものになったのがわかった。頭の中がぐるぐると回り、お腹の奥がどろりとし出す。久しくこの感覚になることはなかったので忘れかけていたが、やっぱり辛いなぁと思った。
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