声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

百十七話 壱弦の家 中編

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「……っ、」
「……!」

 ぽかんとした表情で俺を見つめていた壱弦の目が水面のように揺らぎ、次の瞬間には透明な雫が一筋流れ出ていた。俺は慌てて斜め掛け鞄の中から新品のタオルハンカチを取り出し、壱弦の頬に当てる。突然涙を流し始めた壱弦に戸惑いつつ、俺は彼の目を見ながら大丈夫かと首を傾げた。

「あっ……ご、ごめん……なんで俺、泣いて……っ」

 どうして泣いているのか、壱弦本人にもわからないらしい。壱弦は焦るように手で目元を拭うが、流れる涙は止まらない。俺はそっと壱弦の側に寄り添いながら、壱弦の目元をタオルハンカチで優しく抑え続けた。

 暫くしてようやく涙が止まった壱弦は、ありがとうと言いながら俺の頭を撫でた。本当に大丈夫?と首を傾げる俺に彼は「もう大丈夫」と眉を八の字に下げて笑っている。壱弦の目も目の周りも同じように赤くなっているのが痛々しくて、俺は眉じりを下げながら壱弦の手に持っていたタオルハンカチを握らせた。

「ん……?ああ、本当にもう大丈夫だから気にするなって。……もう、なんで弓月の方が泣きそうなんだよ」
「……っ」

 ……だって壱弦の顔が辛そうに見えたから。
 スマホもペンも紙も手元にない俺にはそう言うことが出来ない。その代わりに壱弦がハンカチを持つ手を摩りながら首を横に振った。きっとこれだけじゃ、俺が言いたかったことの十分の一ほども伝わっていないだろう。それでも俺は壱弦を元気づけたくて、必死で笑顔を作って見せた。

「……!」
「……ありがと」

 壱弦が手を握ったままの俺の手を引く。なんの抵抗もなくぽすんと飛び込んでしまった壱弦の胸は律樹さんよりも厚くはなかったが、それでも俺なんかよりもよっぽどしっかりしていた。さっきまで泣いていたからか、胸に当たった耳から伝わる心臓の音が少し速い。けれど俺のそれも多分同じくらい速くなっているような気がした。

「……もう少し、このまま」
「……」

 背中に回された腕に力が入り、強く抱きしめられる。だが加減はしてくれているようで少しも苦しくはなかった。
 息を吸い込むと壱弦の香りがした。律樹さんとは全く違うその香りからはなんだか懐かしさを感じる。高校時代を思い出したからだろうか、胸がつきりと痛むと同時にほんのりとあかりが灯ったかのようにじんわりと熱を帯びていった。
 壱弦が俺の肩に額を当てる。そうしてさらに腕に力が入った時、大きなチャイム音が俺たちの耳に届いた。

「っ……はあ……ちょっと待ってて」

 溜息をついた壱弦が俺から離れていく。俺の頭に手を置いてぽんぽんと軽くバウンドさせてから、壱弦はこの部屋を出ていった。
 俺は呆然とその背中を見送り、ぱたんと扉が閉まると同時にへなへなとその場に座り込んだ。胸に手を当てると、まるで走った時のように心臓がどくんどくんと大きく鼓動しているのがわかる。律樹さんの時とは違い甘い雰囲気なんてものはなかったのに、どうしてこんなにも心臓が煩くなっているのかわからない。
 ……さっき別れたばかりだというのに、なんだかもう律樹さんに会いたくなってきた。今頃は学校で仕事中だろうか。……保科さんも一緒なのかな。そう思った時、俺の手は無意識に首元にやっており、指先がそっと首輪を撫でていた。

「――で、僕に会わせたい人って誰なの?」

 遠くから聞こえてきた声を聞いた途端、俺の身体がびくんっと大きく跳ねた。階段を登る音の合間に聞こえてくる声は二つ、一つは壱弦でもう一人が恐らく『トウヤくん』なのだろう。
 律樹さんが言うには多分俺の友人だろうとのことだったが、確かにこの声は俺が夢の中で聞いた声そのものだった。もしこの声が本当にトウヤくんなら、あの時のことを謝りたいとあの夢を見た時からずっと思っていた。
 なのに今、どうしてか俺の身体は震えていた。さっきよりも大きく鼓動する心臓の音が振動に変わり、手や足を震わせる。なんで震えているのかなんてわからない。でもその声を聞いた瞬間俺が思ったのは「謝らないと」ではなく、なぜか「逃げないと」だった。
 
 声と足音が近づいてくる。痛いほどに大きな心臓の鼓動がさらに大きくなっていく。背筋に冷たい物が流れ、額から汗が一筋伝う。握り締めた手のひらがじっとりと濡れていた。逃げ場なんて、ない。俺はこの部屋唯一の出入り口である扉をじっと見つめた。
 足音が止まる。ドアノブが動き、扉が音を立てて開いていく。暑くもないのに額から流れた汗が頬を伝い、顎から膝の上にぽとりと落ちた。

「……」
「……」

 扉が開いた先、黒い瞳と目があった。夢で見たその人と同じ黒くて大きな目が徐々に見開かれていく。半開きになった口の中はからからに渇いていた。

「……ゆづ……き……?」
「……ぁ」

 形の良いピンク色の唇が動き、俺の名前を紡ぐ。その表情はまるで信じられないと言っているようだった。

「……弓月、こいつが桃矢だ。打木桃矢――俺の幼馴染で、瀬名先生が聞いてきた『トウヤくん』だよ」

 壱弦の声が遠く感じる。まるで薄い膜が張っているような感じだった。胸が痛い。ドクドクと強く鼓動が鳴り響き、頭がガンガンと痛む。
 脳裏に浮かんだのは、あの日彼から向けられた目。今も俺を見つめるこの黒い瞳から、あの時と同じようにやっぱり目を逸らすことができなかった。
  

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