声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

百十六話 壱弦の家 前編

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「じゃあ六時に迎えに来るけど、もし何かあればすぐに連絡してね。……いってらっしゃい、弓月」

 駅のロータリーで車を降りる。忘れ物がないかを確認し終えた後、開いた車の窓から心配そうな表情の律樹さんがそう言った。そんなに心配しなくても大丈夫だよと笑うが、彼はまだ少し不安そうだ。そんな律樹さんを安心させるように笑みを浮かべながらこくりと頷くと、ようやく彼の表情も少し柔らかくなり、同じようにこくりと頷いてくれた。
 でも本当は緊張でどうにかなりそうだった。心臓はバクバクとしているし、足が微かに震えている。俺は少しでも自分を落ち着かせるように、律樹さんが持たせてくれた白い紙の箱の取手部分と斜め掛け鞄の肩紐をぎゅっと握りしめた。するとほんの少しだけ震えがおさまってきたような気がする。
 
 律樹さんが窓を閉め、止まっていた車が進み出した。俺は小さく深呼吸をしてから肩紐から手を離し、ひらひらと小さく手を振る。そうして小さくなっていく車の後ろ姿を見えなくなるまでじっと見つめていた。

 

 一週間前、律樹さんは俺に『トウヤくん』に会いたいかと聞いてきた。それに対して俺が返したのは肯定。けれどまさかこんなに早く会うことになるなんて夢にも思わなくて、突然訪れた今の俺にとっては初めての友人宅への訪問にカチカチに緊張していた。
 本当は律樹さんの家で彼と壱弦を含めた四人で会う予定だったんだけど、なんでも学校の方でやることができてしまったようで、今日は休日なのに出勤をしなければならなくなってしまったらしい。教師という職業は大変だなぁ、なんて思いながら俺は緊張をやり過ごすようにふうと息を吐き出した。

 今から向かうのは壱弦の家である。実は『トウヤくん』――打木桃矢くんは壱弦の幼馴染で家も近所らしく、今日は壱弦の家で会うことになったのだ。

「あっ、弓月!こっちこっち!」
「!」

 俺を呼ぶ声が聞こえて振り向くと、そこには笑顔で大きく手を振る壱弦の姿があった。それに小さく手を振り返しながらこちらに向かって歩いてくる壱弦の元へと足早に向かっていく。するとそんな俺の様子に気付いたらしい壱弦も同じように駆け足でこっちにきてくれた。何日かぶりに見る壱弦は当たり前だがほとんど変わっていないというのに、たった数週間の期間が開いただけでなんとなく懐かしさを感じる。

 二人で横並びになりながら壱弦の家までの道のりをゆっくりと歩いていく。道中、俺は壱弦が話すことに対して頷いたりいう反応を返すだけではあったが、楽しそうに話をする彼の姿に俺も楽しくなって自然と笑顔になっていた。

「そういえば声も少し出るようになったんだっけ?瀬名先生が保科先生に嬉しそうに話してたよ」
「……!」
「瀬名先生、弓月のことになるとすごく感情が豊かになるよな」

 え?律樹さんはいつも表情も感情も豊かだと思うけど?と首を傾げると、壱弦は一瞬動きを止めた後に「やっぱり弓月の前では違うんだな……」とぽつりと呟いた。声を出さずとも通じていることにもびっくりだが、それ以上に普段は知りえない律樹さんの情報にも驚いてしまう。
 けれどそれは多分壱弦の勘違いだと思った。別に俺の前でだけじゃなくて家だから穏やかなのかもしれないし、感情表現が豊かになるんじゃないのかななんて思いながら首を横に振る。否定をしているつもりはなかったのだが、俺の表情を見た壱弦が困ったように笑った。

「……弓月は変わらないな」
「?」
「悪い意味じゃなくて、良い意味だよ。……変わらないでいてくれてありがとうって」
「??」

 帰ってきた答えにますます意味がわからないと首を傾げれば、わからなくて良いよと頭をくしゃくしゃに撫でられた。なんだかはぐらかされたような気もするが、壱弦もそれ以上は話すつもりはないらしい。

「――ここだよ」

 沈黙の中、数分間歩き続けた俺の視界に入ってきたのは、駐車スペースの隣にレンガ敷きのおしゃれなアプローチがあり、反対側には小さな庭がある白い壁が綺麗な二階建ての家だった。今の季節は庭に何も植えていないのか置かれたプランターが少し寂しげだが、春になればきっと綺麗な花に囲まれるんだろうなと想像出来る素敵な庭だ。きっと手間暇かけてしっかりと手入れされているのだろう、荒れた様子は微塵もない。

 促されるがままにアプローチを通って玄関扉から中に入り、靴を脱いだ。知らない家の香りが鼻腔をくすぐり、なんだか不思議な気分になる。洗面台で手洗いをした後、俺たちは壱弦の案内で彼の部屋へと入っていった。

「ここが俺の部屋。どこでも好きなところに座って。……あと今日は俺以外の家族はみんな出掛けてるから、そんなに緊張しなくていいよ」
「……!」
「流石にわかるって。……だって弓月、ずっとそわそわしてるし」

 どうやら緊張していたことがバレていたらしい。驚く俺の頭をぽんぽんと撫でながら、壱弦はくすくすと笑っていた。

「中学生の頃はたまに遊びに来てたんだけど……思い出せそう?」
「……」

 そう言われ、少しの間考えてみる。しかしうまく思い出すことができず、ゆっくりと頭を横に振った。すると壱弦は寂しげに微笑みながらもどこかすっきりしたように、そっかと呟いた。

 飲み物を用意してくるという壱弦に、俺は自分の持ち物を思い出して慌てて手に持っていた紙の箱を差し出した。取手のついた白くて四角い箱が壱弦の手に渡る。初めは驚いた様子で目をぱちくりと瞬かせていた彼だったが、何かに納得した様子でふっと笑みを浮かべた。

「……瀬名先生って、本当こういうところきっちりしてるよな……」

 ぽつりと呟かれた声に俺は軽く笑みをこぼした。確かに律樹さんは几帳面だし、色んなことに対して丁寧だと思う。今日も朝から出掛けて、帰ってきたと思ったらこの箱を持っていた。壱弦の家に行くんだからと持たせてくれたそれには、きっと俺や壱弦の好きなケーキも入っているのだろう。

「……あ、俺の好きなチーズケーキと弓月の好きなフルーツタルトもあるじゃん。あといくつか入ってるし、先に一緒に食べるか」
「ぇ……」
「あいつ来るのまだだし、ちょっとくらい食べたってバレない…………え?」
「……?」

 箱を開けて中身を確認しながら悪戯っ子のような笑みを浮かべていた壱弦は、一瞬の沈黙の後に箱から顔を上げて俺を見た。呆然といった様子で見つめられる。
 突然変わった壱弦の様子に俺は戸惑いながら、そっと首を傾げた。

 
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