声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

百二十話 始まりの日(桃矢視点)

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※このお話は桃矢視点の過去のお話です。
※虐めなどの暴力表現や描写が含まれていますので、苦手な方はご注意ください。



 僕――打木桃矢はその昔内気な性格だった。
 大人たちからは大人しくていい子だとか、静かで穏やかな性格の子だとか言われていたけれど、実際はただ何に対しても臆病だっただけだ。今でもまだ自分の意見を言うことは苦手だし、気が弱くて怖がりなところは変わっていないと思う。けれどそれでも昔よりもまだましになったのは、幼馴染である刈谷壱弦の存在があったからだろう。

 幼い頃、僕は女の子と間違われることが多かった。別に特別女の子のような顔をしていたわけではない。十人に聞いたら七人が「女の子?」と言うくらいのどっちにも見えるような顔立ちだっただけだ。
 まあ両親を見ていればそれも仕方のないことなのかもしれないと今なら思う。中性的な美人である父親と儚げ美人らしい母親、親戚を見てみても中性的な顔立ちの人が多いから、もしかするとこれは血筋なのかもなんて思わなくもない。
 
 この男にしては可愛らしい顔が僕は嫌いだった。いくら大人たちから可愛い可愛いと言われても、同じくらいの歳の子どもたちからは女みたいだとか色々と揶揄われたり虐められたりすることが多かったから。容姿なんて幼い僕にはどうこうしようもないのに、それをネタに酷いことを言われたりされたりするのは本当に苦痛だった。
 
 思えばあの日も、近所の悪ガキ連中に心ない言葉を言われたり、突き飛ばされたりと散々な日だった。前日に降った雨の影響で公園の地面はぐちょぐちょで、綺麗だった僕の服はみるみるうちにぐちゃぐちゃのどろどろに汚れていったんだ。

「うわ、きたね……おい、あっち行こうぜ!」
 
 なんでいつもこんなふうになっちゃうんだろう。
 買ってもらったばかりの新しくて綺麗だったお気に入りの靴が泥に塗れて汚くなっていく光景に、僕はついに涙を堪えきれなかった。

「――大丈夫?」

 汚れた茶色の水たまりにぽとんと涙が落ちた時、どこかで聞いたことがあるような不思議そうな声が頭上から降ってきた。ゆっくりと頭を上げ、ぼんやりとした目でその人を見る。
 どうせまた酷いことをするんだろ?そう思いながらも何もできない悔しさに涙がこぼれ落ちて行く。擦りむいた膝は痛いし、水溜りに使ったままの服や靴がぐちょぐちょとして気持ち悪い。

 次に来るだろう衝撃に備えて唇を噛み締め、ぎゅっと強く目を瞑るが、いくら待っても一向に訪れる様子はない。不思議に思って恐る恐る目を開けて顔を上げてみると、そこには陽の光に輝くきらきらとした綺麗な髪と今までに見たことのないような程に綺麗な瞳があった。
 
「どっか痛い?うわっ、ここ血でてる……よし!こっちきて!」
「えっ……あ……」

 突然目の前に現れたその子はガシッと僕の手を掴んで立ち上がらせたかと思えば、すぐに手を繋いだまま僕を連れて公園を横切って行く。彼は前だけを見ているから戸惑っている僕に気がついていない。けれど不思議と嫌だとは思わなかった。いつもならこんなふうに手を掴まれてどこかに連れて行かれる時は怖くて仕方がなかったのに、彼の手はどうしてか怖いとは思わなかった。
 
 公園から道路へと出る。繋がれた手を強く引かれながら、僕はそっと後ろを振り返った。アスファルトの地面に付いた足跡が、一歩歩くごとに薄くなっていく様子が見える。服が乾いたわけでもなく汚れていることには変わりないのに、どうしてかその消えかけの足跡を見て僕は不思議とほっとしたのだ。

「おかあさーん!きてー!」

 汚れたまま家の中に入ることを躊躇していると、不意に僕の手を引いていたその子が大きな声を上げた。突然の大声に体がビクッと大きく跳ね上がる。
 家の中から聞こえてきた女の人の声とパタパタというスリッパの音にかたかたと体が震えた。知らない人の家の玄関を汚してしまったことへの罪悪感に泣きそうになる。しかし扉から姿を現したその女性を見た瞬間、僕は目を見開いた。
 
「あら壱弦、早かったわね?……あら?桃矢くん?」
「とーや?」
「打木桃矢くんよ。壱弦も何度か一緒に行ったでしょ?」
「うつぎ……?……あっ!あのいっつも隠れてる子!」
 
 僕はこの女性を知っている。確かお母さんとお父さんのお友達で家にも何度か来ていたはずだ。僕よりも少し年上の女の子がいたことは覚えているけれど、この子がいたかどうかは全く覚えていなかった。僕がぽかんとしながら見ていることに気がついたのか、彼――壱弦はあのきらきらとした目で僕を見る。

「とーや!おれは刈谷壱弦。壱弦でいいよ」
「え……あ……」
「そんなことよりも壱弦、早く桃矢くんをお風呂に連れていってあげなさい。このままじゃ風邪を引くわ。桃矢くん、着替えを置いておくから着てね」
「あ……あの……」

 あまりにも小さすぎる僕の声は誰にも届かないまま空に消えていく。どうしてこの二人は何も聞いてこないんだろう。こんなにも汚れている理由が気になったりしないんだろうか。
 ……いや聞いて欲しいわけじゃない。寧ろ聞かれたとしてもうまく答えられる自信がないし、多分何も話せない。だって僕が理由を言えばきっとそれは僕の両親にも伝わってしまうから。

 壱弦とお風呂に入って綺麗になった後、綺麗な服を着て、擦りむいた傷を手当てしてもらってから壱弦のお母さんが作ってくれたホットケーキを食べた。それは素朴な味だったけれど本当に美味しくて、気づけば僕はまた涙を流していた。

 思えば多分、これが始まりだったんだと思う。
 この時から刈谷壱弦は僕の憧れで、ヒーローだった。
 僕を揶揄ったり虐めたりせずに優しく助けてくれ、僕にないものを全て持っていた壱弦に惹かれていくのは当然のことだったんだろう。

 
 
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