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第六章
百四十六話 不安定な感情
しおりを挟む瀬名家を訪れた後から俺と律樹さんの接触は極端に減った。というよりも寧ろなくなったと言った方がいいだろう。それまでは日常的にしていた言葉の掛け合いや触れ合いはその日を境にぴたりとなくなってしまった。
だから今こうして触れているのが夢みたいだ。数日、たった数日触れていなかっただけなのに、この長い指も筋張ってごつごつした手の感触もなんだか懐かしく感じてしまう。いつもと違うのはその手の温かさだろうか。
まるで氷のように冷たいその手を両手で優しく包み込みながら、俺は緩みそうになる頬をなんとか引き締める。そして高い位置にある彼の顔を見上げた。
「――……」
開いた口からこぼれたのは声ではなく空気の漏れるような微かな音だった。出そうとした言葉は紡がれることなく空に消えていく。たとえ蚊の鳴くような声だったとしてもさっきまでは出ていたというのに、伝えたいと強く思ったことだけは声になってくれないんだろう。
喉の奥が詰まっているみたいにそこから先へ声が出ない。どんなに口を動かしても俺の喉は少しも震えてはくれず、言葉を紡ぐことは出来なかった。
「……っ」
ただ一言言えればいいだけなのに。
たった一言律樹さんとプレイがしたいんだって、プレイをしようって言いたいだけなのに、なぜか俺の喉は張り付いたようになにも発することが出来ない。それが、酷くもどかしい。
見上げた先にある律樹さんの顔色はかなり酷いものだった。天井から吊り下げられた明かりのせいで逆光になっているため暗く見えるのかもしれないが、それにしても酷い。目の下に浮かんだ隈は近くで見るとより一層色濃く見え、俺は思わず息を呑んだ。
(このままじゃ……)
もしこのままプレイをしなければ、確実に彼の体調は悪化の一途を辿るだろう。今は薬で誤魔化せているとはいってもやっぱり実際のプレイには敵わないのだと担当医の竹中先生も言っていた。薬はあくまでも保険でしかないのだと、特に高ランクの第二性持ちはその傾向が強いのだと。
もし、もしも律樹さんの体調がこれ以上悪くなって倒れることがあれば、その時に俺以外の誰もいなかったら――そう考えると言いようのない恐怖が腹の奥底から込み上げてきて、俺は身体を僅かに震わせた。
だって今の俺はまともに声を出すこともままならない。そんな状態で、果たして誰かに助けを求めることが出来るだろうか。緊急を伝える電話をすることが出来ず、手遅れにならないと言い切れるだろうか。
「弓月……?」
「……」
――もし律樹さんにもしものことがあったら……。
想像しただけで全身が恐怖に包まれていくようだった。居間で眠ってしまう前に起こったホラーみたいな状況なんかよりも、今考えていることの方がずっとずっと怖かった。
「……何かあった?」
小さく溜息を吐いた律樹さんが静かに俺の隣に腰を下ろす。ソファーが軋んだ音を立て、体が僅かに沈んだ。俺と彼の肩が触れ合い、衣擦れの音が聞こえると同時にふわりと彼の優しい香りが鼻腔を擽る。
最後にこの香りを嗅いだのはいつだったか。もう随分と嗅いでいなかったようにも思うそれを吸い込んだだけで俺の心臓は大きく跳ね上がった。
恐怖と歓喜が入り混じったような奇妙な感情に、頭の中がグラグラと揺れる。腹の奥底から湧き上がろうとしてくる欲求をどうにか抑え込みながら、俺は律樹さんの琥珀色の瞳を見つめた。
「今日は……どうだった?」
そう問いながら、すっと逸らされた瞳。
疲れた色を帯びた琥珀色は俺をちらりとも見ることなく、その青白い瞼の下に隠れてしまう。
俺は彼の手を握ったままの自分の手にほんの少し力を込めた。びくっと微かに跳ねる肩。そしてようやく俺の方へと向けられた琥珀色は僅かに歪んでいた。
「刈谷と……いや、なんでもない」
何か言いたそうに開かれた口は、けれど二度三度僅かに動いた後に閉じられた。なんでもいいなんて、とてもじゃないけれどそんなふうには見えない。だが律樹さんはそれ以上言葉を続けようとはしなかった。
そんな彼の反応に、俺はもしかしてと思う。
もしかして律樹さんは俺が壱弦と何かあったんじゃないかって思ってるんだろうか。……まあでもそう考えるのも当然か。だって俺が今日一日――本当は数時間のことなんだけど――壱弦と一緒にいたことを知っているんだから。恋人、もしくはパートナーとして少しでも気にしてくれているのだろうか。
律樹さんが再び溜息をついた。かなり体調が悪いのか、その吐息はか細くて微かに震えている。そうしてゆっくりと立ちあがろうとする律樹さん。その手を俺は咄嗟に軽く引き、そして頭をふるふると緩く振った。
「弓月……?あの……俺帰ってきたばかりだから、シャワー浴びないと」
嫌だ、今は行かないでと駄々っ子のように頭を振り続ける俺を律樹さんは困ったような表情で見ている。
俺はといえば、今この手を離したらもう律樹さんとこうして話す機会もなくなってしまうんじゃないかという不安でいっぱいだった。さっきは恐怖と歓喜だった感情が、今度は不安と焦燥に彩られていく。我ながら情緒不安定だなと思いながらも、俺の身体はこの手を離すまいと必死に両手に力を入れ続けていた。
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