声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第六章

百五十話 不穏な着信(壱弦視点)

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 保科先生は俺が泣き止むまでただずっとそばにいてくれた。
 何も聞かず、何も言わずにずっと、ずっと。
 ようやく涙が止まった頃、あれだけ赤く色付いていた景色が今度は群青色の世界に足を踏み入れようとしていた。未だ少し残る夕焼け色が、暗くなり始めた濃紺の空をさらに強調しているようだ。

 俺は、俺の頭を抱えたままの先生の手に自分のそれを重ねた。もう大丈夫だと伝える目的だったのだが、どうにも先生には伝わらなかったらしい。手は離されることなく、まだ俺の頭にある。
 重ねた手のひらから伝わるのは氷のような冷たさ。それほど長い時間ではなかったにしろ、この寒空の下に晒されていた彼の手は冷たい。その手の温度にようやく引っ込んだ涙がまた流れそうになった。

「あの……ありがと」

 ――ずっとそばにいてくれて。
 その思いを込めて俺が小さくお礼を言えば、先生はくすりと笑いながら「いいよ」と言った。ちらりと先生の顔を見上げれば、彼も俺を見ていたのかぱちりと視線が合う。まさか目があうとは思っていなくて、不意の出来事に胸の辺りが強く音を立てた。

 なん、だ……これ。
 思わず胸の辺りの服を握りしめると、合ったままの先生の目がすっと細められた。眉尻は下がり、鼻の先が薄らと赤らんでいる。俺を見つめる彼の視線があまりにも柔らかで優しくて、俺はふいと視線を逸らした。
 そりゃあこんな寒空の下にいたら鼻先も赤くなるよなと申し訳なく思うのと同時に、何故かほんの少しだけ嬉しさが湧き起こる。けれど思い浮かんだその感情をすぐさま打ち消すようにふるふると小さく頭を横に振った。こんなことを思っちゃいけない。
 すると何かを感じ取ったのか、俺の肩に回っていた手にぐっと力が入る。再び引き寄せられる身体。さらに頭上から降り注ぐ俺を案じる優しくて穏やかな声に俺の身体はぴしりと固まった。
 
「な……なんでも、ない」
「……そうか」

 そんな会話を最後に、俺たちの間には再び沈黙が訪れる。けれどそれは居心地の悪いものではなく、不思議なことに心地いいとさえ感じるものだった。するりと頭上に乗った大きな手のひらが撫でるように動く。鼓動がほんの僅かに速度を速めた気がした。

「次の電車は――あと十分か」

 この辺りは栄えている中心部からは少し離れているため、電車の本数はそれなりにしか存在しない。ホームも上下の線路に挟まれるように敷かれた一つだけ。その上車両が二両しかないため、長さもそれほどあるわけではない。
 俺たちが乗る電車の運用本数は基本三十分に一本程度だ。時間帯によっては一時間に一本ということもある。そう考えればあと十分で電車に乗れるというのは中々運の良い方なのかもしれない。

 この電車の終点は俺たちが乗り換えに使う大きな駅だ。ご飯を食べに行くというのも多分その大きな駅でのことなのだろう。この電車に乗ろうかという先生の言葉にこくりと頷く。あと十分かとほっとしたような、名残惜しいような気持ちを抱えながら、赤く火照った目元に僅かに冷たさの移った手のひらを当てた時だった。

 疎にしか人のいない静かなホームに聞き慣れた音が響き渡る。音が近かったために最初は俺のスマホかとも思ったが、どうやら先生のスマホへの着信だったようだ。初めは面倒くさそうだった彼の表情だが、その画面を見た瞬間に怪訝そうなものへと変わった。

「……はい」

 誰からだろうと思いはするが、流石に画面を勝手に盗み見るわけにはいかなくて、俺は隣で通話をする先生の声を聞きながら空を見上げた。今いる場所は俺が住んでいるところに比べれば開けているせいか、なんだか空が広く見える。あんなにも赤く色付いていた空ももうほとんど暗い。けれど見え始めた月と一際輝く一番星のお陰かほんのりと明るかった。
 ホームの明かりはまだついていない。夕焼けと濃紺のコントラストに彩られた空に浮かぶ小さな星を見ていると、俺の悩み事なんてちっぽけなものなのかも……なんて思うから不思議だ。まあ事実、この世界にいる人間の数や他の人の悩みを思えば俺のものなんてちっぽけなものなんだろうけど。

「――え?……はい、俺も連絡してみます。はい……はい」

 ホームにあかりが出されると同時に先生の驚いたような声音が聞こえ、思わず横を見た。さっきまで不思議そうだった表情は、今は不安に彩られている。どうかしたのかと聞きたかったが生憎まだ通話中だ。それに相手が誰かもわからないから下手に話しかけることもできない。

 それから二言三言話して、保科先生は通話を終えた。俺は何をどう話しかければいいのかわからなくて、ただおろおろと彼を見つめることしかできない。
 しばらく固まっていたかと思えば、今度は先生の指が画面の上を忙しなく動いていく。もしかして誰かに連絡を取ろうとしているのだろうか。

「……?」
「あの……どうかしたんですか?」

 口を挟むのもどうかと思ったのだが、スマホの画面を見ながら怪訝そうに首を傾げる姿に思わず声をかけてしまった。関係ないと怒られるかとも一瞬思ったが、俺の杞憂だったようだ。保科先生は少し考えるような仕草をしたあと、眉間に皺を寄せながら口を開いた。

「律樹に……瀬名先生に連絡がつかないらしい」
「……え?」
「さっき電話が来ただろう?あれは数学の和泉先生からだったんだが……なんでも仕事のことで急ぎの相談があって連絡したのに、何度掛けても電話が繋がらないらしい」
「あー……でもそれってお風呂だったり……?」

 電話に出られない原因としては入浴中だったり、大分早い時間ではあるがもうすでに眠っている可能性が考えられる。しかし保科先生はそのどれもに納得していないようだ。

「あいつ……最近調子が悪そうで……今日は早く帰って休めとは言ったが……」

 不安げな保科先生に心臓の辺りがちりっと痛む。理由?……そんなのは知らない。けれど胸の辺りがざわざわとして落ち着かなかった。


 
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