声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第六章

百六十二話 雨音の記憶⑤(律樹視点)

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 坂薙兄弟と一緒に暮らし始めて数日が経った。
 相変わらず弟の弓月は一言も喋らない。

 三歳児ってもっと喋るものだと思っていたとこぼすと、母も祖母も「確かに」と不思議そうに首を傾げていた。
 でも個人差もあるのよ、と言った母に「そうなの?」と返せば、そりゃそうでしょうと驚かれてしまった。

「律樹も六花も話すのは早かったし、特に六花なんて言葉が出たなぁ……なんて思った次の日には、喃語だったけどずっと何かしら喋ってたわよ。でも法子の時は……そうねぇ、三歳になっても言葉がほとんど出なくて色々診てもらったわ……あの時は本当に大変だったんだから」

 結局原因はわからず、突然言葉を発したと思ったらすぐに他の子と同じように話し始めたんだって。
 多分話す気がなかっただけだったのかもなんて言われたと笑う母に、そんなこともあるのかと驚いてしまう。

 弓月の場合はどうなのかはわからないけれど、少なくとも言葉は理解しているように思う。だって初めて一緒に遊んだ時、トランプのルールを教えたらその通りに出来たし、俺が「おいで」といえばすぐに来てくれたから。
 だから言葉は理解しているはずなんだけど、どうしてか言葉を発しないのだ。

「精神的なものなのかもねぇ……あんなに小さいのに」
「せいしんてき?」
「心が疲れてちゃったってことよ」
「心が、疲れる……疲れたんだったら休めば喋れる?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。……心ってのはね、体よりもずっとずっと傷つきやすくて、治りにくいのよ」

 小学生の俺には些か難しい話だったが、俺が思っているよりもずっとずっと難しい話なんだってことは祖父母や母の様子から理解した。
 それは姉さんも同じだったみたいで、眉間に皺が寄っている。

 そうしてまた数日が経ち、もうすぐ夏休みが終わるという頃、俺たちは泣く泣く家に帰った。
 また冬になれば会えるとわかっていても祖父母の家から帰りたくなくて駄々を捏ねたが無理だった。
 それが当たり前だってことはわかってる。
 でもどうしても弓月たちと離れたくなくて俺たちと一緒にくれば良いのにと母に言ったが、色々と手続きとかがあるのよと大人の事情を出されてしまえば、それ以上子どもの俺が何かを言うことなんて出来なかった。

 学校が始まり、それから数ヶ月が経って冬休みがやってきた。
 母と一番上の法子姉さんは後から来るとかで、今回も俺と六花姉さんの二人で祖父母の家に来ている。
 数ヶ月離れていただけなのに、総一郎も弓月も少し大きくなっていた。総一郎なんかは元来の性格なのだろうか生意気になっていて、毎日悪戯をしては祖父母に怒られている。弓月は大人しいままだったが、ババ抜きができるようになっていた。

「すごいな、弓月!」
「……ん」
「えっ……弓月、今……声……っ!」

 祖父母の話によれば、最近ようやく弓月は少しだけ声が出るようになったらしい。毎日絵本を何冊も読み聞かせたり、一緒に幼児向けアニメを見たりしていたのが功を奏したんじゃないかって祖父母は大喜びだった。
 もちろん俺も喜んだ。
 でもそれは俺がやりたかったな……なんて。

 弓月を見ていると何でもしてあげたい気持ちになる。
 庇護欲を掻き立てられるというか、つい世話を焼きたくなってしまうというか、そんな感じだ。
 だけど他の人が弓月に対して世話を焼いているのを見ると、胸の辺りがモヤモヤとした。

 俺は冬休みの間ずっと弓月と一緒に過ごした。
 文字通り、おはようからおやすみまでずっとだ。

 朝は一緒に起きてご飯を食べ、六花姉さんと総一郎も交えて遊ぶ。
 お昼ご飯を食べた後は弓月を寝かしつけ、その間に俺と六花姉さんは冬休みの宿題をして、起きたらまた四人で遊ぶ。
 夜になれば祖父も含めた男四人でお風呂に入り、みんなで揃ってご飯を食べて、一緒に寝た。

 後からやってきた母と法子姉さんには「そんなに世話焼きだったっけ?」と驚かれたが、俺もこんな自分自身に驚いている。
 けれど同時に弓月だけになのかもなんて思った。
 だって同じ従兄弟である総一郎相手にはここまで献身的にしたいなんて露程も思わないから。
 ……まああいつが生意気だってこともあるかもしれないけど。

「弓月、みかん食べる?」
「ん」

 座椅子に座って炬燵に入りながら弓月とみかんを食べる。
 今までで一番満たされた時間に、俺はずっと頬が緩んでいた。
 蜜柑の皮を剥き、その中の一房を取って弓月の開かれた小さな口に入れる。すると美味しかったのか、弓月が幸せそうに表情を蕩けさせた。

「ん、ん!」
「わかったわかった……はい、あーん」
「あー……ん!」

 可愛い。最高に可愛い。
 俺に弟がいたらこんな感じなのかな。

「あー……う……いっく、もっこ」
「はいはい、ちょっと待って…………え?今、俺のこと……」
「う?」

 餌付けされている雛みたいで可愛いとか思いながら可愛さを噛み締めていると、不意に名前を呼ばれたような気がした。
 顔を上げると、そこでは弓月が「あー」と口を開けながら不思議そうに首を傾げている。

 ……あれ、今「りっくん」って言わなかった?
 俺があまりにも求めるばかりに遂に幻聴でも聞こえ始めたのかもしれない。いや、でも。
 助けを求めるように向かいに座る六花姉さんの方を見るが、姉は俺たちなんかどうでもいいとでも言うかのようにテレビから視線を外そうともしなかった。

「……弓月、もっかい言って?りっくん、って」

 出来なくても構わない。
 手に持った蜜柑が小さく震えている。
 
「……いっく?」
「……っ‼︎」

 正直嬉しすぎて言葉にならなかった。
 この家に来て初めて呼んだ名前が俺の名前だなんて、嬉しすぎてどうにかなってしまいそうだ。
 胸がきゅうぅと締め付けられるように苦しくなり、それと同時に目頭が熱くなって全身が幸福感に包まれていく。
 堪らなくなった俺はぎゅっと小さな弓月の体を抱きしめた。

 
 そうして初めて名前を呼んでもらえた冬が終わり、春が来て、また夏がやってきた。
 はやる気持ちを抑えながら、今年も六花姉さんと二人祖父母の家へと向かう。
 
 けれど待ち侘びたこの夏が一生忘れることのない最悪の夏になることを、この時の俺はまだ知らなかった。
 
 
 
 
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