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第六章
百六十五話 雨音の記憶⑧(律樹視点)
しおりを挟む――なん、だよ……これ……。
目の前の光景に頭が追いつかない。
何があったのか、今何が起こっているのか。
眼前に広がる光景が現実なのかすらも、わからない。
「え……あ……」
大粒の雨が激しく降り注いでいるというのに、俺の喉は渇ききっているみたいに張り付いて思うように声が出ない。
混乱、戸惑い、不安、そして恐怖。
様々な感情が一気に湧き上がると、人というのは途端に無になるらしい。どの感情を一番表現したら良いのかわからなくなって、結果何もなくなるのかもしれない。
唇が震える。手も足も、いや全身が震えていた。
確かに冷たい雨に打たれ続けているせいで体温は下がっている。
けれどきっとそれだけじゃない。
……それだけじゃ、ない。
「――っ、うそ……やだ……いやぁ……っ‼︎」
聞き慣れた声が耳に届き、体がぴくりと小さく跳ねる。
呆然と見つめる先――ようやく視線が定まった瞬間、喉がヒュッと鳴った。
――なん、で……どう、して……。
頼むから、誰か冗談だって言ってくれ。
そう願いながらゆっくりと瞼を閉じる。次に開いたときにはいつもと変わらない二人がそこにいるんだと言い聞かせながら、ぎゅっと強く閉じた目をほんの少しづつ開いていった。
「……っ」
けれどそんな願いは叶わない。
だって残念ながらこれは冗談でも、況してや夢でもない――現実なんだから。
朝とは違い、外は土砂降りの雨だった。
ずっとショッピングモールの中にいたから気付かなかっただけで、もしかすると俺たちがここに来てから今までずっと降っていたのかもしれない。見える範囲のコンクリートやアスファルトはどこも水に浸り、排水溝との境目はあやふやになっていた。
「……いい天気だったのに」
六花姉さんの言う通り、朝は雨が降るなんて一ミリも思えないくらい清々しく晴れ渡っていた。今日はお出かけ日和だね、なんて言っていたくらいだ。
けれど今の空は青空の『あ』の字すらも見当たらないほどに分厚くて暗い雲に覆われていた。青なんて一寸たりとも見えないほどに黒く染まったそこからは、大きな雨粒がとめどなく降り注いでいる。決して優しくはないそれは、まるで親の仇かのように全てを激しく打ち付けていた。
そんなどこまでも暗く淀んだ空に、なんだか胸騒いだ。
「弓月くんが……?」
電話の最中、父さんはそう呟いた。
不安と困惑が入り混じったような声と表情だった。
父さんに掛かってきた電話は母さんからだった。
内容は聞いていないし、教えてもらえなかったけれど、父さんの呟きから弓月に関することだってことくらいはわかった。それも良い話じゃないんだろうなってことも。
仮にもし良い話だったとしたらきっと父さんの表情も違っていたと思う。いつもみたいに優しく穏やかな笑顔だっただろうし、雰囲気もほわほわとあたたかなものだったはずだ。
それに、と車の中に視線を移した。
きっと悪くない話なら今頃はみんなで仲良くショッピングモールの中にある飲食店で、当初の予定通りにご飯を食べていたことだろう。そうじゃなかったとしても、少なくとも今のように激しく降る雨の中、急いで祖父母宅に戻ろうとはしていなかったと思う。
車内はしんと静まり返っていた。
誰も何も話さない車の中、車体に打ち付けられる雨粒の音の合間から微かに聞こえてくるラジオの声だけが虚しく響いている。
『――三分間の物語。本日最後のお話は――』
所々聞こえない部分はあるが、今はこのラジオ番組を聞いているリスナーから寄せられたショートストーリーを読み上げているようだ。
途切れ途切れに聞こえてくる三分間の物語に、俺は既視感を抱く。普段からラジオを聞いているわけではない。だからこの話も今日初めて聞いたはずなのに、どうしてか聞き覚えのあるような気がした。
所謂デジャブというやつだ。
いつどこで、誰から聞いたのかもわからない。ただ前にもこうして雨音と一緒に聞いたことがあるような気がした。
『――続いて天気予報です。お昼頃から降り続いている雨は――』
首を捻っているうちに番組が終わり、続いて天気予報が始まる。
ラジオから聞こえてくる声が男性の声から女性の声へと変わり、淡々と今後の空模様について話し始めた。
どうやら今でさえ強い雨が、時間を追うごとにさらに激しくなっていくらしい。まるで台風だな、と思いながら再び窓の外に視線を移した時、突然脳裏に映像が浮かんだ。
(っ……え……?)
それはたった一瞬のことだった。
浮かんだのは大雨で増水した激しく流れる黒く濁った川と、河原に横たわる二つの人影。人影は大小一つずつあり、その周囲には雨合羽を着た数人の大人たちが囲んでいた。
顔はモザイクがかかっているみたいにはっきりとは見えない。
けれど誰なのかわからない状態だったにも関わらず、氷のように冷たい手に心臓が鷲掴まれた感覚とともに嫌な予感がした。
咄嗟に胸を掻き抱くが、酷い胸騒ぎと悪寒が止まらない。お腹の奥がざわざわとざわつき、妙な心地がする。
それは治るどころか、祖父母の家に近づくごとにどんどん強くなっていった。
そうしてようやく祖父母宅にたどり着いた時、俺の心臓は通常よりもずっとずっと大きく速く鼓動していた。まるで激しく運動した後のようだ。
車を降りると同時に六花姉さんが俺の手を掴んだ。ぎゅっと強く握りしめてくるその手は小さく震えている。
なんだか嫌な予感がした。
……胸騒ぎが、とまらない。
玄関の軒下で泣き崩れている祖母を母さんが抱きしめている。雨音の間から聞こえてくる慟哭のような祖母の叫び声に、心臓が強く縛り付けられているみたいにギシギシと痛んだ。
声は聞こえているはずなのに、言葉が理解できない。なのに、全身から血の気が引き、地面が消えていくみたいに頭や足元がぐらぐらと揺れている。
「――っ、ゆづ、弓月が……っ‼︎」
声が、言葉が耳に届いた瞬間、頭の中でパリンッと何かが割れた。
そして脳裏にまた映像が一つ浮かび上がる。それは車の中で浮かんだ映像と同じ、流れの激しい濁った川の近くで横たわる大小二つの人影。
もしかして、と思うより速く体は動き出していた。
俺の頭がただおかしくなっているだけならそれで良い。
これが俺の妄想や夢ならいいんだ。
……でも、もし現実だったら?
「律樹……っ⁈」
強く握られていたはずの手はいつの間にか解かれており、俺は駆け出していた。俺を呼ぶ声が後ろから聞こえてくる。けれど俺の足は止まらなかった。
何も考えず、ただただ弓月を探して無我夢中で雨の中を走り続け、気付けば河原に立っていた。
隣を見ればそこには少し険しい表情の法子姉さんと、俺よりも息を切らした六花姉さんがいる。どうやらずっと俺を追いかけてくれていたらしい。
俯いていた六花姉さんが顔を上げた。
水が滴る前髪から覗く俺と同じ色の目が不安そうに揺れている。でもそれも当たり前か。だって弟が誰の静止も聞かずに大雨の中を急に走り出したんだから。
少し視線をずらせば、法子姉さんの横顔が見えた。
こっちを見る六花姉さんとは違い、法子姉さんの目は俺を見ていない。それどころか俺たちとよく似た色の瞳が驚いたように見開かれていた。
「おじいちゃん……?」
それは雨音に紛れてしまいそうなほどの小さな呟きだった。
多分すぐ近くにいた俺にしかその声は聞こえていなかったと思う。その証拠に反対隣にいる六花姉さんはなんの反応もしていなかった。
俺は法子姉さんが見ている方向に視線を移した。
そこは少し先にある橋の真下だった。
バケツをひっくり返したような激しい豪雨の中でも雨が掛からない唯一の場所だろう橋の下、見えるのは横たわった二つの体と数人の大人たち。激しく打ちつける雨音のせいで声は聞こえないが、二つの体の周りで何かをしているのが見えた。
周囲に大人たちがいるせいで横たわる人の顔は見えない。顔が見えなかったらそれが誰なのかわかるはずもないのに、心臓が嫌な音を立てている。どんどんと大きくなっていく鼓動に息苦しさを覚え始めた頃、俺は無意識に口を開いていた。
「……ゆづ、き……?」
そう呟いた瞬間、頭が真っ白になった。
心臓がぎゅうと握りつぶされそうなくらい、痛い。
ふらりと体が蹌踉めく。僅かに動いた足が河原にある石を踏み、ゴツリと重い音が鳴った。
「え……? あれ……う、そ……っ」
すぐ隣から聞こえてきた悲鳴のような叫び声にびくりと体が跳ねる。視界が揺れると同時に大人たちの体が僅かに動いた。さっきまで見えなかった場所が僅かに見えるようになり、俺の視線は吸い寄せられるようにそこに向かっていく。
瞬間、開いた口からヒュッと乾いた音が鳴った。
「……っ」
これは夢だ。……ただの、悪い夢。
目が覚めればそこにはいつもと変わらない日常があって、またじいちゃんや弓月たちと一緒になんでもない日々を過ごせるはず――そう思いたいのに、頭の中で何かがそれを否定する。
多分、頭のどこかではこれが現実だってわかっていたんだと思う。けれど同時に、俺は言いようのない違和感に襲われた。
――また、だ。
これは既視感だ。ラジオの放送を聴いている時にも感じた既視感を、今もまた俺は抱いている。
さっき突然脳裏に浮かんだ映像と同じだから?
……ううん、違う。そうじゃない。これはまるで実際に経験したかのような既視感だった。
そう思った瞬間耳の奥でキンッと甲高い音が鳴り、つきりとした痛みが頭に走った。思わず目を閉じる。どくんどくんと心臓が二回ほど鼓動する間に痛みは消えていき、俺はゆっくりと目を開いた。
「あ……」
――……思い、出した。
これは俺が見ている夢だ。
けれど同時に紛れもない現実だった。
「あ……あ……っ」
夢だったならと何度も願ってきた過去。
大好きだった祖父を亡くし、同時に弓月が俺の前から姿を消した悪夢のような日。
目の前が一気に暗くなっていく。
あれほどまでにうるさかった雨音がすっと遠のいていき、代わりにキーンという甲高い音が耳鳴りのように鳴り響いた。耳が痛くてぎゅっと眉頭を寄せると同時に、ふわりとした浮遊感が体を襲う。
引き寄せられるような感覚だった。
体が徐々に重さを増していったところで、俺の意識はぷつりと途切れた。
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