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第六章
百六十六話 長い夢から(律樹視点)
しおりを挟む意識が浮上する。
ふわりとした浮遊感とともに重い瞼をゆっくりと押し上げていくと、そこは白い空間だった。
ゆっくりと何度か瞬きをすれば、ぼんやりとしていた視界は徐々に晴れていく。それと同時に膜が張ったようだった聴覚もまた機能し始めた。
ピッ、ピッという規則正しい電子音が耳に届く。
聞き覚えのあるその音と目の前に広がる清潔感のある白い天井に、俺はようやく自分が病院にいることを悟った。
ずっと、長い夢を見ていた。
それは泣きそうなほど懐かしくて幸せな夢、けれど終わりはあの時と同じく唐突だった。
幸福な日々の中、突然現れた悪夢のようなあの瞬間。
今でもあの時のことを思い出す。そして思い出してはまた後悔するのだ。あの頃の幼い俺にはどうしようもなかったと分かっているのに、それでもどうにか出来なかったのかと、雨の音を聞きながらずっと……もうずっと後悔している。
だからはっきりとあの日を思い出す雨の音も川の音も、俺は嫌いだ。
「ゆ……き……」
耳の奥でずっと雨の音がする。
大事な人の命の灯火が消えるその瞬間を思い出す、嫌な音だ。
あの日、弓月は濁流に飲み込まれた。
それを助けようとしたじいちゃんもまた飲み込まれ、そして亡くなった。弓月を助ける際、川の流れに翻弄されて岩場に頭をぶつけてしまったのが原因だった。
どうして高熱を出して寝込んでいたはずの弓月があの時川で溺れていたのか……今でも理由も原因もよくわからないままだ。でもなんとなくこうだったんじゃないかって思うことも、ないわけではない。
あの時――弓月が救急車に乗せられる瞬間、見えてしまったのだ。
見間違いかもしれないと確信が持てないまま誰にも言えなかったが、あの瞬間、弓月の兄である総一郎は確かに笑っていた。背筋が凍ってしまうくらい、酷く歪んだ笑みだった。
救急車で運ばれていくじいちゃんと弓月の姿を見て笑うその様子は、今思い出しても異常だったと思う。大きな口を開けたり、大声で笑っていたわけじゃない。ただひっそりと口元を歪めているだけの暗く冷たい笑みだった。
だから俺は熱で寝込んでいた弓月を連れ出したのは総一郎だったんじゃないかって思っている。
川に落ちたのは故意か、それとも事故かまでは現場を直接見ていない俺にはわからない。けれど結果的に事故だったとしても、きっかけを作ったのは多分総一郎だ。
「……っ」
頭がズキンと痛んだ。
思わず顔を顰めた時、コンコンと扉が叩かれた。続いて扉が開かれ、誰かが室内に入ってくる。
痛みを堪えながら扉の方へと視線を向ければ、そこには溢れんばかりに見開かれた焦茶色の瞳があった。
「え……あっ……起き……っ!」
全身をわなわなとさせていたかと思えば、次の瞬間には弾かれたように部屋を出ていってしまった。病院内では騒ぐな、走るなと注意したいところだが、残念ながらそれは出来な……いや、そもそもなんであいつがここにいるんだ?弓月と一緒に出掛けたんじゃなかったのか――そう思考を巡らせようとした瞬間、つきりと頭が痛む。
ズキズキと増していく痛みに目を閉じ、そっと息を吐いた。ゆっくりと深く呼吸をするうちにいつの間にか寄っていた眉間の皺が僅かに和らいでいく。
「瀬名さん、聞こえますか?」
開け放たれたままの扉の向こうから再び足音が聞こえてきたかと思えば、すぐ近くで声がかけられた。
それはさっき出ていった刈谷のものではなく、聞き覚えのある大人の落ち着いた声だ。うっすらと瞼を開いた先、そこにいたのは弓月がいつもお世話になっている竹中医師だった。
どうしてこの人がここにと思うと同時に、ここは病院なんだからいてもおかしくはないかと一人納得する。
「……ご気分はどうですか?どこか痛んだり、違和感があったりなどはありますか?」
俺は少し迷った後、頭が痛いと答えた。酷く掠れた声だった。
すると彼は一つ頷いた後、俺の目を見ながらここに至るまでの経緯を簡単に説明してくれた。
どうやら俺は何日も眠り込んだままだったそうだ。
家で倒れていたところを病院に運ばれてきたらしい。その際何処かにぶつけたのか、頭を三針ほど縫う怪我をしていた。頭が痛いのはそのせいかと乾いた笑いが溢れた。
けれど、ふと思う。
俺はどうして倒れたのか、と。
……いやそもそも、弓月が刈谷と出掛けてからの記憶がない。
まるでぽっかり穴が空いているみたいだ。
「……どうかしましたか?」
問診の途中で黙ってしまった俺を心配したのだろう、気遣うような声がかけられる。
俺は潤すように喉を上下させ、口を開いた。
「なんで、おれ……ここに……?」
「思い出せない?」
ゆっくりと瞬きを一つする。
するとそれを肯定と受け取ったのか、彼は僅かに眉尻を下げた。そしてゆっくりと後ろを振り返りながら言葉を続ける。
「二人が助けてくれたんですよ」
その言葉につられ、扉の方へと視線を向ける。
そこにいたのは横にはさっき駆け出していった刈谷と慶士だった。
さっきはどうして刈谷がここにいるんだと思っていたが、あの二人が助けてくれたのか。
ありがとうと伝えようとして、はっとする。
「……どうかしましたか?」
突然視線を彷徨わせ始めた俺に心配そうな声が降り注ぐ。
だが今の俺に答える余裕はない。
「ふたり……ゆづ、きは……?」
視線をぐるりと動かしてみても、そこに弓月はいない。
あんな夢を見たせいか、弓月が近くにいないことがひどく不安だった。
「大丈夫。弓月くんは元気ですよ」
そんな俺の不安を見透かしたのかのように竹中医師は穏やかな口調でそう言った。
弓月を担当する彼の口から発せられた『元気』という言葉に少し体から力が抜ける。
俺がほっとしたことに気がついたのか、それともついていないのか。そういえばと刈谷が声を上げた。
「弓月、昨日退院したんですよ。今日もこの後保科先生と一緒に様子見に行くんですけど……よかったら俺、明日弓月連れてきますよ」
そう言って笑った刈谷は「ね、保科先生?」と隣を見上げながら同意を求めるようにそう言った。そんな刈谷に慶士も目元を緩めながら小さく頷いている。
少し前とは違う二人の雰囲気に何かあったのかと考えを巡らせようとしたが、ズキズキと増していく痛みにすぐに断念した。
正直刈谷からの申し出はかなり嬉しい。
あの日のことを夢に見た後だからなのか、はやく弓月に会いたいと思う。
唐突に終わりを迎えた夢、その最後に見た光景は力なく横たわる小さな体。ぐったりとして血の気を失ったあの子を思い出し、背筋がぶるりと震える。
俺は痛みを堪えるようにそっと目を閉じた。
耳の奥の方で雨の音が鳴り響いている。
少し考えた後、俺はありがとうという言葉と共に頼むと一言口に出した。さっきよりはましになったとはいえ、まだ声は掠れていた。
けれどそんな聞こえづらかっただろう俺の言葉に、刈谷は少し嬉しそうな声音で返事をしたのだった。
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