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第六話 講義中の遭遇
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ダンジョンにはご丁寧に門扉や玄関マットはなく、どこから侵入したことになるのかは外からでは分からない。
そんなことをイフィクラテスは言っていたようだが、急激に声が遠かった。タビは意識がぐるんと一回転して、何とか地面を踏み締める。何が起きた、と顔を上げれば——そこは緑の青臭さがむせ返るほどに漂う、木々が密集した森だ。
タビは周囲を見回す。獣道が続くほかは、見通しが悪く、空さえも枝葉の隙間にわずかに見える程度だ。そして何より、隣を歩いていたはずのイフィクラテスがいない。
「師匠?」
タビの呼びかけはむなしく、甲高い鳥の鳴き声と葉の擦れた音であっという間にかき消えた。
「はぐれた? まさか、一歩しか入ってないのに?」
そこでやっと、タビは異常事態だと認識する。原因は考えるまでもない、ダンジョンに侵入したからだ。
後ろを振り向いても、歩いてきた道はない。
——こういうときって、どうすればいいんだろう?
あいにくとイフィクラテスもイフィゲネイアも、タビへダンジョンでの心得は話してくれていなかった。危険に対処する方法も知らないし、タビは棲家近くの林で薪になる枝拾いはしても、深い森に入ったことはない。
つまりは、タビはあっさりと途方に暮れた。動けばいいのか、それともじっとしていればいいのかさえ分からず、だんだん不安も首をもたげてくる。そういえばダンジョンにはモンスターがいる、襲われればひとたまりもなく、そもそもイフィクラテスはタビにまだこれと言った武器を持たせていない。
「ぶ、武器……『共鳴器』しか」
タビは自分の右手親指にはまったガラスの指輪を見る。
確かに、それは武器になる。本来の使い方ではないものの、できなくはない。
タビの小さな迷いが緊張の糸を張り詰めさせていた、そんなときだった。
「聞こえるか、タビ」
「うわあ!?」
いきなりタビの指先からイフィクラテスの声がした。だが、周囲にイフィクラテスの姿はない。きょろきょろと隠れ潜んでいるかもしれないイフィクラテスに警戒するタビへ、さらに声が聞こえてくる。
「昨日、『共鳴器』の新しい使い方を教えただろう。声を電波に変換して、ダンジョン中に送れ」
そう言われて、タビは瞬時に言われた意味を理解した。
タビは『共鳴器』ごと右手を天へ掲げる。人差し指の爪で『共鳴器』を弾き、起動する。
「電波……」
徐々に『共鳴器』が震えはじめる。その振動がタビの耳に音として伝わってきた、その段階を見計らって、もう一度人差し指の爪で『共鳴器』を弾いた。
『共鳴器』の励起状態が固定される。タビにはまだ原理が理解できていないが、この状態だと声が遠くへ——音ではなく電波という形で届くのだ。
とはいえ、どこへでも、というわけではなく、現状はイフィクラテスとイフィゲネイアの持つ錫杖へ、つまりタビは電波の『発信機』であり『受信機』ともなる『共鳴器』を使って、遠隔地にいる同様の役目を果たす道具を持つ二人と会話することができた。
『共鳴器』を口に近づけ、タビは声を吹き込む。
「聞こえますか?」
ざざっという耳障りな音がして、タビは顔をしかめる。タビは、大きな音や高い音が苦手だ。指輪に触れたり持ち上げたりして微調整しながら、イフィクラテスからの電波を問題なく受け取れるよう試してみる。
ようやく、指輪を目線よりも上に持ち上げることで、クリアな音声が発せられるようになった。イフィクラテスの声が聞こえたことに、ではなく、まるで今そこにいるかのように聞こえる不思議に好奇心を刺激されたタビは、すっかり不安も和らいでいた。
「ああ、問題ない。さて、身をもって理解したと思うが、ダンジョンとは過剰なエネルギー源の存在によって一種の異次元化した空間のことで、あらゆる時間、空間といったものが歪んでいる。たとえば、ダンジョン内で一時間過ごした場合、外では一日が経過している、ということさえある。もちろん、それは極端な例だがな」
異次元、聞いたことのない単語にタビは思考がつっかえた。
いけない、そこは飛ばして考えよう。すぐに頭を回転させて、タビはイフィクラテスの説明からキーワードを抜き出す。
時間、空間、歪み。タビの知るかぎり、今の実用的な錬金術において、空間という実体のないものを扱うことはまれで、時間もそれほど重視はされない。しかし、そこに在り、しかして認知できぬものは存在する。たとえ五感が捉えられずとも、そこに概念はあり、神が宿り、人間の知はいつかはその正体を暴く。
それは電波にしても同じだ、見えずともその存在はあって、『共鳴器』のように錬金術は捉えるための道具を作り出せる。
では、時間も空間も歪ませる何かは本当に存在するのか?
そう問われたなら、タビはこう答えられる。あるのだろう、きっと。そうと定められたなら、錬金術はすっかり不思議を手中に収めるのだ。
では次に、それはどうやって、触れられる?
そこまで考えて、タビは少し悩む。道具があれば、捉えられるだろうが——時間と空間を捉えて利用できる道具は今のところここにはないし、タビも聞いたことがない。もちろん、調べればあるのかもしれないが、現状では対処できない。
となれば、歪んだ時間、空間を持つダンジョンにどうやって触れられるか? その答えは、内部から、原因となっている『過剰なエネルギー源』に干渉することしかタビは思いつかない。外部からダンジョンへ何かをするには、歪んだ時間や空間を突破する必要があるのだ。そしてそれは、非効率的だ。
「じゃあ、たとえば、外からダンジョンを削っても、歪んだ時間や空間に邪魔をされてしまう、ってことですか?」
「そうなるな。物理的にどうにかする、つまり外部からダンジョンを消し去るにはこの森を丸ごと焼失させるような、よほどの大火力をぶつけるくらいしか方法はないだろう。そこまでする必要は特にないな、環境破壊甚だしい」
なるほど、とタビは納得した。一歩足を踏み入れれば出入り口も分からなくなる迷宮にわざわざ侵入するだけの理由はあって、実質的に外からダンジョンを排除できない理由も明らかになった。
「それだけ聞くと邪魔者でしかないが、しかしてこうしたダンジョンの存在が、人間に資するケースは多くある。一例を挙げよう。土地に根ざすモンスターたちにとっては、この空間は天敵の侵入がない楽園で、繁殖し放題だ。増えてきたら大量に狩って、減ってきたら狩ることを止めて……と人間は持続的に核という資源を強奪することを可能とした。そのためにはダンジョンの大元、歪みの根源たる『管理人』をあえて討伐しない、という選択を取る」
イフィクラテスの講義は止まらない。ふむふむ、とタビはすっかり熱中して、聞き入っている。
そう、聞き入っていたから、目の前になぜか大木がいることに気付かなかった。
わしゃわしゃ、と下草が踏まれた音が続いて、やっとタビは視線を目の前の見上げるほどの大木に注ぎ、そして——大木の無数の太い根っこが、蜘蛛や蟻のように足となって歩いてきていることを認めた瞬間、叫んだ。
「うわああああ!?」
そんなことをイフィクラテスは言っていたようだが、急激に声が遠かった。タビは意識がぐるんと一回転して、何とか地面を踏み締める。何が起きた、と顔を上げれば——そこは緑の青臭さがむせ返るほどに漂う、木々が密集した森だ。
タビは周囲を見回す。獣道が続くほかは、見通しが悪く、空さえも枝葉の隙間にわずかに見える程度だ。そして何より、隣を歩いていたはずのイフィクラテスがいない。
「師匠?」
タビの呼びかけはむなしく、甲高い鳥の鳴き声と葉の擦れた音であっという間にかき消えた。
「はぐれた? まさか、一歩しか入ってないのに?」
そこでやっと、タビは異常事態だと認識する。原因は考えるまでもない、ダンジョンに侵入したからだ。
後ろを振り向いても、歩いてきた道はない。
——こういうときって、どうすればいいんだろう?
あいにくとイフィクラテスもイフィゲネイアも、タビへダンジョンでの心得は話してくれていなかった。危険に対処する方法も知らないし、タビは棲家近くの林で薪になる枝拾いはしても、深い森に入ったことはない。
つまりは、タビはあっさりと途方に暮れた。動けばいいのか、それともじっとしていればいいのかさえ分からず、だんだん不安も首をもたげてくる。そういえばダンジョンにはモンスターがいる、襲われればひとたまりもなく、そもそもイフィクラテスはタビにまだこれと言った武器を持たせていない。
「ぶ、武器……『共鳴器』しか」
タビは自分の右手親指にはまったガラスの指輪を見る。
確かに、それは武器になる。本来の使い方ではないものの、できなくはない。
タビの小さな迷いが緊張の糸を張り詰めさせていた、そんなときだった。
「聞こえるか、タビ」
「うわあ!?」
いきなりタビの指先からイフィクラテスの声がした。だが、周囲にイフィクラテスの姿はない。きょろきょろと隠れ潜んでいるかもしれないイフィクラテスに警戒するタビへ、さらに声が聞こえてくる。
「昨日、『共鳴器』の新しい使い方を教えただろう。声を電波に変換して、ダンジョン中に送れ」
そう言われて、タビは瞬時に言われた意味を理解した。
タビは『共鳴器』ごと右手を天へ掲げる。人差し指の爪で『共鳴器』を弾き、起動する。
「電波……」
徐々に『共鳴器』が震えはじめる。その振動がタビの耳に音として伝わってきた、その段階を見計らって、もう一度人差し指の爪で『共鳴器』を弾いた。
『共鳴器』の励起状態が固定される。タビにはまだ原理が理解できていないが、この状態だと声が遠くへ——音ではなく電波という形で届くのだ。
とはいえ、どこへでも、というわけではなく、現状はイフィクラテスとイフィゲネイアの持つ錫杖へ、つまりタビは電波の『発信機』であり『受信機』ともなる『共鳴器』を使って、遠隔地にいる同様の役目を果たす道具を持つ二人と会話することができた。
『共鳴器』を口に近づけ、タビは声を吹き込む。
「聞こえますか?」
ざざっという耳障りな音がして、タビは顔をしかめる。タビは、大きな音や高い音が苦手だ。指輪に触れたり持ち上げたりして微調整しながら、イフィクラテスからの電波を問題なく受け取れるよう試してみる。
ようやく、指輪を目線よりも上に持ち上げることで、クリアな音声が発せられるようになった。イフィクラテスの声が聞こえたことに、ではなく、まるで今そこにいるかのように聞こえる不思議に好奇心を刺激されたタビは、すっかり不安も和らいでいた。
「ああ、問題ない。さて、身をもって理解したと思うが、ダンジョンとは過剰なエネルギー源の存在によって一種の異次元化した空間のことで、あらゆる時間、空間といったものが歪んでいる。たとえば、ダンジョン内で一時間過ごした場合、外では一日が経過している、ということさえある。もちろん、それは極端な例だがな」
異次元、聞いたことのない単語にタビは思考がつっかえた。
いけない、そこは飛ばして考えよう。すぐに頭を回転させて、タビはイフィクラテスの説明からキーワードを抜き出す。
時間、空間、歪み。タビの知るかぎり、今の実用的な錬金術において、空間という実体のないものを扱うことはまれで、時間もそれほど重視はされない。しかし、そこに在り、しかして認知できぬものは存在する。たとえ五感が捉えられずとも、そこに概念はあり、神が宿り、人間の知はいつかはその正体を暴く。
それは電波にしても同じだ、見えずともその存在はあって、『共鳴器』のように錬金術は捉えるための道具を作り出せる。
では、時間も空間も歪ませる何かは本当に存在するのか?
そう問われたなら、タビはこう答えられる。あるのだろう、きっと。そうと定められたなら、錬金術はすっかり不思議を手中に収めるのだ。
では次に、それはどうやって、触れられる?
そこまで考えて、タビは少し悩む。道具があれば、捉えられるだろうが——時間と空間を捉えて利用できる道具は今のところここにはないし、タビも聞いたことがない。もちろん、調べればあるのかもしれないが、現状では対処できない。
となれば、歪んだ時間、空間を持つダンジョンにどうやって触れられるか? その答えは、内部から、原因となっている『過剰なエネルギー源』に干渉することしかタビは思いつかない。外部からダンジョンへ何かをするには、歪んだ時間や空間を突破する必要があるのだ。そしてそれは、非効率的だ。
「じゃあ、たとえば、外からダンジョンを削っても、歪んだ時間や空間に邪魔をされてしまう、ってことですか?」
「そうなるな。物理的にどうにかする、つまり外部からダンジョンを消し去るにはこの森を丸ごと焼失させるような、よほどの大火力をぶつけるくらいしか方法はないだろう。そこまでする必要は特にないな、環境破壊甚だしい」
なるほど、とタビは納得した。一歩足を踏み入れれば出入り口も分からなくなる迷宮にわざわざ侵入するだけの理由はあって、実質的に外からダンジョンを排除できない理由も明らかになった。
「それだけ聞くと邪魔者でしかないが、しかしてこうしたダンジョンの存在が、人間に資するケースは多くある。一例を挙げよう。土地に根ざすモンスターたちにとっては、この空間は天敵の侵入がない楽園で、繁殖し放題だ。増えてきたら大量に狩って、減ってきたら狩ることを止めて……と人間は持続的に核という資源を強奪することを可能とした。そのためにはダンジョンの大元、歪みの根源たる『管理人』をあえて討伐しない、という選択を取る」
イフィクラテスの講義は止まらない。ふむふむ、とタビはすっかり熱中して、聞き入っている。
そう、聞き入っていたから、目の前になぜか大木がいることに気付かなかった。
わしゃわしゃ、と下草が踏まれた音が続いて、やっとタビは視線を目の前の見上げるほどの大木に注ぎ、そして——大木の無数の太い根っこが、蜘蛛や蟻のように足となって歩いてきていることを認めた瞬間、叫んだ。
「うわああああ!?」
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