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最終話 私は魔導匠エルミーヌ(中)
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そうやってすっかり現実逃避している私に、特大のビンタを食らわせるように現実へと引き戻したのは、イオニス様の至極落ち着いた声でした。
「オルトリンデ」
「はい」
「私はエルミーヌと話がある。あとのことは任せた」
そう言って、私の右手を強引に引っ張って、イオニス様は進みます。戸惑う私を叱咤しながら。
「来い。まだ私の妻である自覚があるのなら」
そんなものありません、と言えそうにはなかったですし、私にはもうそんな気力もありません。
たった数歩、幽霊か亡霊のように生気なく歩く私に業を煮やしたイオニス様は、ついには私をひょいと抱き上げてしまいました。
「きゃっ!」
「とぼとぼと歩くな。まったく」
はい、私はこののち数秒間、まったく記憶がありません。
気付けば私はイオニス様の胸の前に抱えられて、屋敷の廊下を運ばれていました。自分の顔の前に精悍な男性の横顔がある、そんな体験は初めてです。あと、前も思いましたが、イオニス様の胸板ってものすごく頼り甲斐があります。力を抜いてもたれたってどっしりと包み込んでくれる安心感、よくよく背中の感覚を感じ取ってみれば両腕も筋骨隆々で何があっても落とされそうにありません。
(こ、これが、殿方に抱き抱えられるということなの……? えぇ!? すごく、これ、嬉しい? 恥ずかしい? 両方だわ!)
今はそれどころではない、という冷静な視点は、今の私にはありません。ええ。陰鬱で空虚な気持ちはいつかのイオニス様のようにどこかへ吹き飛んでいきました。
浮かれた私へ、イオニス様の声が耳元のすぐ近くからかけられます。
「角は治った。安心しろ」
「へ!? え、あ、はい! それは、よかったです」
「元々放っておけば治るものだ。それなのに、高価な薬などわざわざ調達して」
——そうだったのですか? え? 本当?
(私、金貨一千枚を……薬のために……あれ? 無駄だったのかしら?)
しかし、突きつけられた真実は、私の考えの足りなさを叱責するものではありませんでした。
イオニス様はまるで、しょうがないやつだ、とばかりの呆れ半分、喜び半分といった口調だったのです。
一体どういうことなのか。そんな疑問を口に出す機会は、イオニス様がある部屋に入室したことで永久に失われます。
そこは、応接間でした。私がこのお屋敷に来た日に招かれた、あの応接間です。すっかり穴は塞がれ、調度品も元どおりになっていました。すごい。それに、やけに私の目に景色が鮮明に見えるのは、気のせいではないでしょう。
私はゆっくりとソファに降ろされ、イオニス様はその隣に座ります。あの抱かれ心地は名残惜しいですが、それどころではありませんよ、私。
イオニス様はこんなことをおっしゃったのですから。
「この部屋の中では、魔力は一切使えないようになっている。試してみろ」
イオニス様がそうおっしゃるなら。半信半疑でしたが、そういえば修繕のとき、イオニス様は老大工へ魔法防壁の改良を指示されていましたから、もしかして。
ちょっと期待しつつ、私は——えい、と手のひらにある魔力を開放してみました。そういうイメージで放ってみたわけですが、その瞬間応接間の隅に置かれていた飾りの空の花瓶が破裂しました。ついでに焦げ臭い匂いもしました、どうやら陶器なのに破片が黒く焦げています。破裂ではなく爆発ですね、はい。粉々になった花瓶を見下ろすイオニス様が、苦い表情をなさっています。
「あの……花瓶が爆発しました」
「改良の余地ありだな……だが、威力は抑えられたはずだ」
あ、それはそうですね。確かに。前と同じであれば、部屋のどこかに大穴が空いているところでしたが、花瓶以外何事もありません。新鮮な気持ちです。
私たちは横並びに座って、何となく顔を見合わせることなく、訥々と話しはじめました。
「エルミーヌ」
「は、はい、何でしょうか、イオニス様」
「もっと早くに尋ねるべきだった。私との結婚は嫌か?」
即座に、私は首を横に振りました。
「いいえ。ただ、心の準備ができていない上に、私は馬鹿ですから、イオニス様にご迷惑をかけるばかりです。お屋敷を破壊してしまったり、角にヒビを入れてしまったり」
「オルトリンデ」
「はい」
「私はエルミーヌと話がある。あとのことは任せた」
そう言って、私の右手を強引に引っ張って、イオニス様は進みます。戸惑う私を叱咤しながら。
「来い。まだ私の妻である自覚があるのなら」
そんなものありません、と言えそうにはなかったですし、私にはもうそんな気力もありません。
たった数歩、幽霊か亡霊のように生気なく歩く私に業を煮やしたイオニス様は、ついには私をひょいと抱き上げてしまいました。
「きゃっ!」
「とぼとぼと歩くな。まったく」
はい、私はこののち数秒間、まったく記憶がありません。
気付けば私はイオニス様の胸の前に抱えられて、屋敷の廊下を運ばれていました。自分の顔の前に精悍な男性の横顔がある、そんな体験は初めてです。あと、前も思いましたが、イオニス様の胸板ってものすごく頼り甲斐があります。力を抜いてもたれたってどっしりと包み込んでくれる安心感、よくよく背中の感覚を感じ取ってみれば両腕も筋骨隆々で何があっても落とされそうにありません。
(こ、これが、殿方に抱き抱えられるということなの……? えぇ!? すごく、これ、嬉しい? 恥ずかしい? 両方だわ!)
今はそれどころではない、という冷静な視点は、今の私にはありません。ええ。陰鬱で空虚な気持ちはいつかのイオニス様のようにどこかへ吹き飛んでいきました。
浮かれた私へ、イオニス様の声が耳元のすぐ近くからかけられます。
「角は治った。安心しろ」
「へ!? え、あ、はい! それは、よかったです」
「元々放っておけば治るものだ。それなのに、高価な薬などわざわざ調達して」
——そうだったのですか? え? 本当?
(私、金貨一千枚を……薬のために……あれ? 無駄だったのかしら?)
しかし、突きつけられた真実は、私の考えの足りなさを叱責するものではありませんでした。
イオニス様はまるで、しょうがないやつだ、とばかりの呆れ半分、喜び半分といった口調だったのです。
一体どういうことなのか。そんな疑問を口に出す機会は、イオニス様がある部屋に入室したことで永久に失われます。
そこは、応接間でした。私がこのお屋敷に来た日に招かれた、あの応接間です。すっかり穴は塞がれ、調度品も元どおりになっていました。すごい。それに、やけに私の目に景色が鮮明に見えるのは、気のせいではないでしょう。
私はゆっくりとソファに降ろされ、イオニス様はその隣に座ります。あの抱かれ心地は名残惜しいですが、それどころではありませんよ、私。
イオニス様はこんなことをおっしゃったのですから。
「この部屋の中では、魔力は一切使えないようになっている。試してみろ」
イオニス様がそうおっしゃるなら。半信半疑でしたが、そういえば修繕のとき、イオニス様は老大工へ魔法防壁の改良を指示されていましたから、もしかして。
ちょっと期待しつつ、私は——えい、と手のひらにある魔力を開放してみました。そういうイメージで放ってみたわけですが、その瞬間応接間の隅に置かれていた飾りの空の花瓶が破裂しました。ついでに焦げ臭い匂いもしました、どうやら陶器なのに破片が黒く焦げています。破裂ではなく爆発ですね、はい。粉々になった花瓶を見下ろすイオニス様が、苦い表情をなさっています。
「あの……花瓶が爆発しました」
「改良の余地ありだな……だが、威力は抑えられたはずだ」
あ、それはそうですね。確かに。前と同じであれば、部屋のどこかに大穴が空いているところでしたが、花瓶以外何事もありません。新鮮な気持ちです。
私たちは横並びに座って、何となく顔を見合わせることなく、訥々と話しはじめました。
「エルミーヌ」
「は、はい、何でしょうか、イオニス様」
「もっと早くに尋ねるべきだった。私との結婚は嫌か?」
即座に、私は首を横に振りました。
「いいえ。ただ、心の準備ができていない上に、私は馬鹿ですから、イオニス様にご迷惑をかけるばかりです。お屋敷を破壊してしまったり、角にヒビを入れてしまったり」
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