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魔女の薬湯
6話
しおりを挟む翌朝。おれは久々に熱も寒気も頭痛もない朝を迎えることができた。
起きてすぐにケイジュに額を触られて、熱は下がったようだ、とお墨付きももらう。
一人で立ち上がると目眩がしたが、ゆっくり動けば大丈夫そうだ。
昨日の粥の残りを食べ、砂糖菓子も食べる。
食べ終わる頃にはほとんどいつもと変わらない身体の感覚を取り戻せた。
今回おれが罹った病は咳も鼻水もほとんど無かったので、後引く症状もない。
しっかりと服を着込み、久々に外に出る。
明るい日の光に照らされて、眩しすぎて目が痛い。
目を閉じ、深呼吸をする。
爽快な気分だ。やっぱり健康であることは大事だ。
外気と明るさに慣らすためしばらくぼんやり立ち尽くす。
目を開けられるようになったら次は小屋の周りをゆっくりと歩いて一周した。
まだ身体は少しだるいが、普通に動ける。
ケイジュは少し離れた所からおれの様子を見守っていた。
おれは最後に思いきり伸びをして、ケイジュに歩み寄る。
「ケイジュのおかげで、また旅を再開できそうだ」
「ああ。だが、今日まではここに留まるぞ。出発は明日だ」
今から自動二輪車に乗って移動するのはまだきつそうだし、おれは素直に頷く。
仕事の期限はあるが、あと一日くらい遅れても問題はない。
もう焦る必要はないのだ。
おれは辺りを見回した。
森の魔女、ユリエ嬢も近くでキャンプしているという話だったが、どこにいるのだろうか。
おれは荒野を眺めているうちに奇妙なものに気が付いた。
荒野には似つかわしくない、立派な幹と青々とした葉を持つ木が生えている。
あんな木、あったか?
おれが首を傾げると、ケイジュが隣にやってきて耳打ちする。
「あれが森の魔女のキャンプらしい。助手だか護衛だかの男が魔法で生やしているところを見た。凄まじい魔法の使い手だ」
おれはなるほどと頷く。
竜人ならば可能だ。
髪の色や雰囲気から、おそらく木を司る森竜の血を引いているのだろう。
ご丁寧に、太い幹には階段になりそうな枝が一定間隔に並んでおり、幹の上の方には大きな樹洞がある。
その入り口はうまく葉で隠れており、中の様子まではわからないが快適そうだ。
秘密基地めいていて子供心が擽られる。
おれが眺めていると、その樹洞から森の魔女が現れた。
一瞬おれの方を見たあと、ゆったりとした動きで枝を伝い、幹を降りていく。
その後すぐに竜人の男も現れて、彼女の手を取って下に降りてきた。
おれはケイジュに告げる。
「彼女と話してくる。待っていてくれるか?」
ケイジュは眉間に皺を寄せ険しい顔で渋々頷く。
おれは気楽に笑ってみせると、森の魔女の方へと歩き出した。
「魔女様、おはようございます」
日の光に照らされていてもなおも黒い髪をなびかせるユリエ嬢に、まずは挨拶をする。
少し気まずそうな顔をしながらも、彼女はおれの顔色をじっと見る。
「おはよう。体調は良さそうね。それで、起きて早々に話を聞きに来たの?」
「ええ。不都合があれば出直しましょう」
おれがお伺いをたてると、ユリエ嬢は小さい溜め息のあと、いいわよ、と軽く返事をした。
「さっさと終わらせてちょうだい。それと、私には礼儀も敬語も必要ないわ。あなたと同じ、貴族の身分を捨てた身よ」
おれは少し頭を下げて、すぐに口を開いた。
「わかった。まずは、ありがとう。助かった。おれの用心棒、ケイジュと言うんだが、彼から代金は受け取っていると思う。けど、引き止めて治療してもらったにしては安い気もしている。追加の礼金を受け取ってくれないか?」
「いいえ、結構よ。彼からは適正な金額を受け取ってる」
きっぱりとした物言いに、おれは引き下がることにした。
こんなことで口論になったら面倒だ。
「そうか、じゃあ本題に入らせてくれ」
おれは一度深く息を吸い、気持ちを落ち着ける。
「もう知っているかもしれないが、おれはセオドア。イングラム家の三男で、家出して運び屋をしている。先日、ヘレントスでミンシェン伯爵本人から、亜人を貴族の支配から解放したいから協力してくれと打診があった」
おれは一気に言ったのだが、ユリエ嬢の表情は揺らがない。
それはそばに控えている竜人も同じだ。
知っているらしい。
ヘレントスに居るのだ、ミンシェン伯爵からの接触がすでにあったのだろう。
「おれは今の所、亜人解放革命に協力する気はない。だが、ミンシェン伯爵が言っていたことが事実なら、協力することも考えている。亜人には、純粋な人間を愛するように魅了魔法のような術がかけられているというのは本当か?もし、知っていたら教えてくれないだろうか?」
ユリエ嬢の人形めいた美貌がようやく揺らぐ。
読み取れるのは嫌悪感。
何も知らないという顔ではない。
おれは一歩踏み出しながら懇願する。
「なんの見返りもなく教えろとは言わない。交換条件があるなら言ってくれ」
竜人はほのかな微笑みをたたえながらユリエ嬢を見て、その肩に優しく手を置く。
その手に触れながら、ユリエ嬢はおれとしっかりと向き合った。
「核に、誓ってちょうだい。この話を、むやみに他言しないと。亜人を虐げるために利用したりしないと」
おれは迷わず服の中に手を差し込み、精霊術の核を取り出す。
この状態では精霊術を使えない。
約束を必ず守るという誓いのポーズなのだ。
おれは核を手のひらの上に載せたまま前に突き出した。
青みを帯びた灰色の球体が、無防備に太陽の下に晒される。
廃れた慣習なので正式なやり方は知らないが、これで気持ちが伝われば十分だ。
「核に誓う。おれはこれから聞く話を、むやみに他言しない。亜人を虐げるために利用しない」
ユリエ嬢はおれの覚悟の程を知りたかっただけなのだろう。
おれが迷わず核を取り出したのを見て、諦めたように頷いた。
「いいわ。話すから、もう良いわよ」
おれが核を胸にはめ直すのを見届けて、ユリエ嬢は語り出した。
「術は、実在する。鐘の音や歌に紛れ込ませ、それを聞いた亜人に、純粋な人間への愛情を植え付ける術、インゲルの福音、と、父は呼んでいたわ」
「インゲルの、福音」
おれは目眩を感じて足を踏ん張る。
じゃあ、ケイジュは……
「インゲルの福音の存在は、知識の匣に入った者しか知らない。私はスズカ家の跡取りとして知識の匣に入り、それを知って、貴族であることに嫌気が差して家出したの。ミンシェン伯爵も、そう思ったから亜人を解放したいと考えているのでしょうね」
「じゃあ、本当に……」
絶望にのまれそうだ。
おれはユリエ嬢を見つめる。
「私もミンシェン伯爵に打診されたわ。亜人を望まない好意で縛り付けるのは間違ってる、力を貸してくれって……残念だけど、私はもう力を貸せない。目立てば家に連れ戻される可能性があるし、家族と敵対するつもりもない。あなたも、似たような立場でしょう?」
おれは何も言えずに虚空を見つめた。
身分は違うが、ユリエ嬢とおれはほとんど同じ立場にある。
ミンシェン伯爵の思想には同意できる所もある。
しかし、本格的にミンシェン伯爵の話に乗るならば、家族との敵対は避けられない。
革命なのだ。
家族や親しい人を自らの手で殺めることになるかもしれない。
逆に、家族から殺されることになるかもしれない。
そこまでの覚悟は、まだできていない。
けれど、インゲルの福音が実在し、それを破壊することができるなら、おれは、
「死にそうな顔になってるわよ」
ユリエ嬢の言葉でおれの思考が止まる。
ユリエ嬢は少しだけ優しげに表情を緩めていた。
「もう少し聞きなさい。インゲルの福音は、神話時代に作り出された、魅了魔法の一種よ。当時は凄まじい力を持った魔法で、亜人の思考力を根こそぎ奪うほどだった。けれど、今はもう劣化が進んでいて、しかも亜人にも抵抗力がついてきたから、昔ほどの威力はないと言われてる。それでも、亜人は純粋な人間に好意を抱きやすい、程度の力は残っている。もっと時間が経てば、おそらく自然にインゲルの福音は効果を失うでしょうね」
おれはその言葉に希望を見出しかけた。
けど、おれとケイジュの関係においては、今、魅了されていることが問題なのだ。
おれは拳を握りしめる。
「それと、インゲルの福音が効かない亜人も存在するわ。例えば、竜人よ。インゲルの福音よりも更に強力な魔法を使いこなす竜人にはこの術は効かない」
おれは顔を上げる。
ユリエ嬢は肩に置かれた竜人の手を優しく撫でる。
その仕草には確かに愛情が見えた。
おれは泣き出したくなったが、ユリエ嬢が視線をおれに向けたので必死に堪えた。
「それから魔人にも、インゲルの福音は効果がないわ。もともと、インゲルの福音は魔人たちが持つ魅了魔法を引用して作られた魔法。オリジナルである魔人には効かないのよ」
おれはその言葉を聞いて、たまらずよろけた。 膝から力が抜けて、地面の上に膝をつく。
「ちょっと、大丈夫?」
流石にユリエ嬢が慌てた様子でおれに歩み寄る。
おれはそれを片手を上げて止めた。
「大丈夫、大丈夫だ……安心しただけなんだ……」
おれは地面に座り込み、ぽたぽたと地面にシミが増えていくのを見ていた。
いつの間にか涙が溢れている。
ここ何日か張り詰めていた緊張の糸が急に切れて、涙腺がおかしくなっているんだ。
ユリエ嬢が呆れたようなため息をついている。
「あなたと、あなたの用心棒、似たようなことで思い詰めてて大変そうね」
おれは涙で濡れた顔をあげて、ぽかんとユリエ嬢を見てしまった。
「昨日の夜、聞かれたのよ。純粋な人間に魔人の魅了は本当に効かないのか、と。効くはずないじゃない。魅了したくないとか、魅了してるかもしれないとか、女々しい悩みに私を巻き込まないでいただけるかしら」
ユリエ嬢の声は心底面倒くさそうだ。
隣の竜人も気の抜けた笑みを浮かべている。
「まぁまぁ、これで患者殿の不安は晴れたようですし、良かったじゃないですか」
竜人がユリエ嬢を宥めたところで、おれは我にかえり立ち上がった。
涙を急いで拭うが、気まずさは変わらない。
「わ、悪かった……取り乱して……けど、おかげで安心した。一応、聞くけど、今の話は真実か?」
「……核に誓いましょうか?」
ユリエ嬢は胸に手を持っていったが、おれは慌てて首を横に振る。
そこまでしてもらわなくても、ユリエ嬢がおれに嘘を吐く理由は思いつかない。
きっと真実だ。
そして、ミンシェン伯爵も嘘は言っていなかった。
おれには大事な部分をあえて伝えなかっただけで。
見事におれはミンシェン伯爵の手のひらの上で踊りかけたが、なんとか自力で操り人形からは脱せたようだ。
おれはもう一度頭を深く下げる。
「話を聞かせてくれて、ありがとう。君には救われてばかりだ。何か力になれることがあったら言ってくれ。恩返しがしたい」
おれは心からそう言ったのだが、ユリエ嬢はそっけなく手を振って、おれを追い払うような仕草をした。
「何もないわ。フランが居れば不自由はないし、家出生活を楽しんでいるの。もう二度と私の手を煩わせないように、せいぜい元気に過ごすことね」
おれは笑い、最後にもう一度頭を下げて踵を返した。
頭の片隅に陣取っていた不穏な霧が、きれいサッパリ晴れている。
きっと今聞いた話は、エレグノア規模で見れば大変なことで、インゲルの福音のことも放っておいていい問題じゃない。
けど、自分勝手なおれは、今は喜びでいっぱいだった。
よかった。
ケイジュには、魅了は効かない。
冷静に考えてみれば、ごく当然の話にも思えてくる。
とにかく、おれは、正々堂々、ケイジュの隣に立っていていいんだ。
そこから先に進めるかどうかは、おれ次第。
さっきよりも、足が軽く感じる。
陽光も温かく、風は爽やかで、景色も鮮やかで美しい。
おれは自分の単純さがおかしくなってきて、一人で不審に笑い声を押し殺しながらケイジュが作った小屋に戻った。
応援ありがとうございます!
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