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イングラム家のパンプキンパイ
7話(ケイジュ視点)
しおりを挟む最初に聞こえたのは、狂った女の哄笑。
貴族への怨嗟を叫び、自分が受けた仕打ちを嗤いながら語った。
その次に聞こえたのは金属が軋むような耳障りな声。
カアサン、という単語だけは聞き取れた。
そして少女の悲鳴。
更に狂気を増していく女の高笑い。
それは少女の悲痛な叫びと混じり合い、聞くに耐えない音がおれの耳を劈く。
その後ろでかすかに聞こえる、やめて、やめて、という幼い声。
それがセオドアの声だとわかった瞬間、おれは水晶板が割れそうなくらい握り締めた。
心臓が痛い。
胃から苦いものがこみ上げて、おれは歯を食いしばる。
その音声はさほど長いものではなかった。
だが、発狂した女の侮辱の言葉と、徐々に生命を失っていく少女の悲鳴、そして絶望に染まった幼い少年の懇願の言葉が、おれからも正気を削り取っていく。
永遠にも感じる時間が過ぎ、水晶板がようやく沈黙した。
おれは怒りと吐き気で、まともに立っていられなかった。
四阿の柱に寄りかかり、いつの間にか荒くなっていた呼吸を整える。
殺したい。
セオドアを苦しめたこの女を、今すぐに。
だが、犯人はすでに死んでいる。
犯行のきっかけとなった貴族も。
怒りをぶつける矛先がどこにもないことが、おれを更に苦しめた。
おれは寄りかかっている石の柱に力任せに拳を打ち付ける。
「……返してもらおう……」
押し殺した声で、ヴァージルがおれに言った。
ヴァージルはもう激昂してはおらず、酷く疲れた表情にも見えた。
「……流石に理解できただろう?セオドアを想うならば、お前は離れるべきだ。誘拐犯が淫魔だったから、全ての淫魔が悪だと言うつもりはない。それに、そもそものきっかけを作ったのは貴族だ。だから、私は君を恨んでいるわけではない。ただ、セオドアに幸せになってほしいだけだ。このまま何も思い出さず、平穏に生きていてほしいだけなのだ。わかってくれたか?」
その声色は、幼い子どもに言い聞かせるように穏やかだった。
おれはヴァージルに水晶板を返し、もう一度真っ直ぐに立った。
深く息を吸い込み、前を向く。
「…………ああ、わかった。だが、おれは折れない。おれはセオドアと共にある」
同じ言葉を繰り返すおれに、ヴァージルは再び眉を吊り上げた。
「……どうしてだ……どうしてそこまで固執する?セオドアを苦しめてまで、お前の願望を貫きたいのか?」
「…………理由なんて、愛しているから以外にない。おれがセオドアを苦しめることがあったとしても、おれから離れることはない。おれと共に生きるか、それとも別れを告げるか、それを決めるのはセオドアだ。お前ではない」
おれはヴァージルから目を逸らさなかった。
これはおれの人生だ。
何に従って生きるかは、おれが決める。
そしてセオドアの人生も、セオドアのものだ。
「……貴様…!」
「もしセオドアがおれのせいで記憶を取り戻して苦しんだなら、おれは一生をかけてセオドアを支えよう。二度と姿を見せるなと言うならば、その通りにしよう。だが、それを命じることができるのは、セオドアだけだ。おれは、お前の言葉には従わない」
「……セオドアが、こんなことを思い出すくらいなら、お前に出会わなければよかったと後悔したらどうするつもりだ。私の言うことを聞いておけばよかったと、その時になって反省するつもりか?」
「反省はしない。セオドアが後悔しないぐらい、全力で愛する」
「口だけならなんとでも言える……そんな綺麗事で私を説き伏せるつもりか?」
ヴァージルの唇には、嘲りと呆れと諦念が混じり合った歪な笑みが浮かんでいた。
おれは頷く。
「この先何年もかけて、おれの決意を証明するだけだ」
ヴァージルの唇から、はは、と乾いた笑い声が漏れた。
「……お前は、そんなやり方でこの先も生きていくつもりなのか?愚直にも程がある……馬鹿なのか?」
「……そう思われても構わない」
ヴァージルの身体がゆらりと揺れて、それから石のベンチにすとんと腰を落とした。
放心したような顔で、しばらく黙り込む。
おれとヴァージルの間を、ひんやりと冷たい秋の風が吹き抜けていく。
木々のざわめく音が、おれの心を落ち着けてくれた。
やがて、ヴァージルがぽつりと呟いた。
「……セオドアは、おれのかわいい弟なんだ……」
その言葉は、今までのどんな言葉よりおれの胸に刺さった。
一番単純で、純粋な想い。
だからこそ重かった。
「……あんな辛いことがあっても、セオドアは笑顔を失わなかった。記憶がないとはいえ、姉を失い、父親と対立して、貴族社会でも女性恐怖症のせいで立場を失って……希望を失ってもおかしくない。だけど、セオドアは立ち止まらなかった。自由を求めて外に飛び出して、今や父上からも認められるくらい成果を残している。散々人の汚れた部分を見てきたのに、それでも人の本性は善だと信じている……優しいんだ……セオドアは」
おれは黙って頷く。
壮絶な過去を経験してなおも人を信じる純粋さを失っていないのは、セオドア自身が願っているからだ。
この世界は、人は、素晴らしいものであると。
「おれの、大事な弟なんだ……それを、お前は勝手に横から掻っ攫って、馬鹿みたいに共にあるって一つ覚えで押し切りやがって……いけ好かないに決まってるだろ。しかもセオドアにトラウマを植え付けた淫魔ときた。許せるはずない……お前がおれと同じ立場なら、お前もおれと同じように思うはずだ。そうだろ?」
貴族の仮面を被っていないヴァージルは、セオドアと驚くほど似ていた。
言葉遣いまでよく似ていて、おれは今更セオドアとこの男が一緒に育ったことを思い知った。
「ああ。おれも同じように、恋人を排除しようとするだろう」
「じゃあ、身を引いてくれるか?」
「断る」
すぐさま返答すると、ヴァージルは気の抜けたような笑みを薄っすらと浮かべた。
「…………今回は、その強情さに負けたよ……けど、覚えておけ。お前が自信満々に語った愛が嘘だとわかったら、ただではおかないぞ」
「……本気だとわかるまで、好きなだけ監視すればいい」
おれが挑むような言葉を返すと、ヴァージルの眉間にしわが寄った。
「……クソ、やっぱりいけ好かないな」
そう吐き捨てながら、ゆっくりと立ち上がる。
そして再びおれの顔を見たときには、また貴族としてのヴァージルに戻っていた。
「……最後に一つだけ、忠告しておこう。水晶板を盗み出すように指示した男は、未だ行方がつかめていない。誘拐犯の弟というのはおそらく本当で、灰色の髪の淫魔だそうだ。事件のことをどこまで知っているかわからないが、注意してくれ。唯一の生き残りであるセオドアのことが知られたら、接触してくる可能性が高い。とにかくセオドアを守れ。いいな?」
「ああ。忠告に感謝する」
おれが目礼を返すと、ヴァージルはまた苛立たしげに唇をぴくりとさせたが、すぐにおれに背を向けて歩き始めた。
「……そろそろ戻ろう。父上の話も終わっている頃だ」
おれもヴァージルの後をついて歩く。
おれは出来るだけ無心になるように心がけた。
だが、セオドアを見てしまうと感情を抑えきれないかもしれない。
しかし、最初に誓ったように、過去を知ってしまったことをセオドアに悟られるわけにもいかない。
表情を取り繕う自信はないので、セオドアになんて説明するか考えておかなければ。
考えがまとまる前に温室に辿り着いてしまったので、セオドアには話の内容は明かせないので聞かないでくれと正直に頼み込むことになってしまった。
おれの横をすり抜けて行ったヴァージルが、下手くそめ、と声には出さずに唇を動かしたのがわかる。
それに関しては言い訳しようもないので、その後は大人しく黙っていることにした。
最後の最後までヴァージルはおれに厳しい視線を向けていたが、無事に帰路につくことができた。
どっと精神的な疲れを感じたが、セオドアも表情に疲労が滲んでいる。
父親からはどんな話をされたのだろう。
しかし、誰が聞いているともわからない道端で出来る話ではないのか、セオドアはその話題に触れない。
おれも家に帰り着いて、安全が確保できてから考えを整理したかったのだが、セオドアの横顔をちらりと見てしまうともう抑えきれなかった。
強引に腕を引いて路地裏に連れ込み、力任せに抱き締める。
おれの脳裏に、女の狂った嗤い声と少女の悲鳴が蘇っていた。
消え入りそうな痛々しい少年の声も。セオドアは驚いて何か言っていたが、おれは必死にしがみつくことしか出来ない。
セオドアは今ここにいる。
それを確かめないと、気が狂いそうだった。
セオドアの手が、おれの背中に触れる。
その温かさを感じて、ようやくおれは言葉を絞り出せた。
もう少しこのままで、と。
セオドアは何も言わず、おれを抱きしめ返してくれた。
この優しい男を、おれは守ってみせる。
在来生物からも、人間からも。
残酷な記憶が蘇っても、おれはその記憶すら塗りつぶせるくらい愛してみせる。
おれは決意と共に、セオドアの耳飾りに口付けを贈った。
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