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3、真実
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翌朝。
食堂で食事を終えると、騎士たちは中庭へ出て訓練を始めた。
剣で打ち合う音が朝の空気を震わせ、掛け声が高く響き渡る。
「わぁ……!」
ヒナが目を輝かせて駆け寄った。
「かっこいい! わたしもやりたい!」
「また始まった……」
テルが額に手を当てて嘆息する。宿舎で日々を過ごすうちに、騎士に憧れを抱いたようだった。
「ヒナ、剣なんてまだ早いよ」
「やるの! わたし、騎士になるの!」
両手を腰に当てて胸を張る姿に、周りの兵士たちが苦笑した。
「おいおい、小さなお姫さまが相手じゃ剣のほうが重いぞ」
「木の棒でも危ないからなあ」
「やだ! やりたいの!」
ヒナは頑なに首を振り、ぐずり出しそうな勢いだ。
そのとき、訓練を終えたコリスが歩み寄ってきた。
「……仕方ない」
低く呟くと、傍に立てかけてあった木剣を一本取り、しゃがんでヒナに手渡した。
「えっ、いいの!?」
「構えだけだ。振り回すなよ」
ヒナは小さな手で木剣を抱え込むように持ち、真似をして腰を落とした。
だが剣の先はふらふら揺れ、まるで子猫の尻尾のように頼りない。
「えーっと、右足を少し引いて……そうだ。腕はこう」
コリスが手を添えて直してやるが、次の瞬間――
「きゃっ!」
バランスを崩したヒナは尻もちをついた。
「はははっ!」
周囲の兵士たちから大爆笑が起こる。
「こりゃ騎士になるよりパン屋のほうが向いてるな!」
「剣よりスプーンのほうが似合ってるぞ!」
ヒナは顔を真っ赤にして「もう一回!」と立ち上がった。
その横で、テルがため息をつきつつもハンカチで妹の服を払ってやる。
「だから言ったのに……ほんと、世話が焼けるなあ」
呆れたように言いながらも、テルの声には優しさが滲んでいた。
「よし、もう一回!」
ヒナは意気込んで木剣を握り直したが、今度は力を入れすぎて――
ぶんっ!
大きく振りかぶった拍子に、木剣が手からすっぽ抜け、くるくる回転しながら宙を舞った。
「わああっ!」
あまりのことに騎士たちが慌てて頭を伏せる。
テルはヒナを守るようにして抱え込んだ。
木剣は勢いよく飛んで、ちょうど水桶に――
どぼんっ。
盛大な水しぶきと共に沈んだ。
一瞬の沈黙の後――
「はははは!」
宿舎の中庭に、爆笑が轟いた。
「おい、あの一撃は強烈だったぞ!」
「桶割りの達人だな!」
ヒナは目を白黒させて桶を覗き込み、情けない声をあげた。
「ヒナの剣……」
「ほら見ろ」
テルが腰に手を当てて呆れる。
「剣をやるより先に、洗濯の手伝いを覚えた方がいいんじゃない?」
「むぅー!」
ヒナは頬をぷくっと膨らませ、すっかり笑いの渦の中心になっていた。
そのとき、訓練帰りのカイルが中庭に姿を現した。
「……何事かと思えば」
落ち着いた声に、ヒナがぱっと振り返る。
「カイルおにいちゃん! 聞いて! ヒナね、剣を振れたんだよ!」
小さな胸を誇らしげに張るが、後ろでテルがすかさず訂正する。
「違うよ。木剣を“飛ばした”んだ」
その一言に、またも笑いが広がる。
ヒナは顔を真っ赤にして兄を叩こうとするが、テルはひょいとかわしてにやにやしていた。
カイルはそんな二人を眺め、わずかに口元を緩める。
「なるほど……かわいい妹と、勇敢な兄か」
彼はしゃがみ込み、テルの肩に手を置いた。
「妹を守ろうとする姿勢は立派だ。騎士としても一番大事なことだぞ」
「……!」
テルの瞳がぱっと輝き、耳まで赤く染まった。
「ぼ、僕も……本当に騎士になれるかな」
「なれるさ。心があれば剣はあとからついてくる」
カイルの静かな声に、テルは深く頷いた。
「じゃあ、わたしも!」
ヒナが勢いよく手を挙げる。
「わたしもカイルおにいちゃんみたいになる!」
「お前はまず……桶を割らずに済む方法を覚えるんだな」
コリスのぼそりとした突っ込みに、またしても爆笑が起こった。
私は笑いながらも、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
夕暮れの陽が中庭を朱に染め、訓練を終えた騎士たちの声も次第に落ち着きを見せていた。
石畳には子どもたちの影が長く伸び、ヒナがその影を踏みながらくるくると回っている。
「ヒナの影、すっごく長い!」
「走ったら転ぶよ、ヒナ」
テルは手を腰に当てて、妹の後を追いかける。
結局、ヒナは勢い余って石段に足を取られ、こてんと尻もちをついた。
「もう……ヒナったら」
テルは小さなため息をつきながらも、妹を抱き起こし、膝の埃を払ってやる。
ヒナは「大丈夫!」と笑って跳ね起きた。
騎士団の面々は、そんな兄妹を眺めて微笑んでいた。
「元気だなあ」
「宿舎が賑やかになったな」
「悪くないもんだな、こういうのも」
硬い石造りの宿舎に、温かい空気が広がっていく。
私はその光景を胸に刻むように見つめていた。
(……こんな日常が、いつまでも続けばいい)
王宮にいた頃には、決して触れることのなかった賑やかで素朴な笑い。
それを守れるなら、どんな脅威にも立ち向かおう。
そんな決意が、胸の奥で静かに形を取っていくのを感じていた。
その時だった。
廊下を駆ける足音がして、騎士の一人が慌ただしく駆け込んできた。
「不審な者が、宿舎の前に!」
空気が一変する。
中庭にいた騎士たちが一斉に剣を取って駆け出した。
テルがヒナの肩を抱き寄せ、私は子どもたちを庇うように立ち上がる。
(まさか……)
胸がざわつくのを抑えきれない。
そして次の瞬間――
「サラーシャ王女ーーッ!」
鋭い声が夕暮れの空気を切り裂いた。
私の心臓が、どくんと大きく跳ねた。
扉の向こうから響いてきたのは、忘れるはずのない声。
「俺の婚約者よ! 隠れても無駄だ! ソシリス王国の王妃様がお前をお待ちだ!」
騎士たちの怒号が交錯する。
「誰だ! 捕らえろ!」
「弓を構えろ!」
外に駆け出した騎士たちの間から、フードを深くかぶった男が姿を現した。
ハビエル――。
忌々しいほどよく通る声で、再び叫んだ。
「第五王女サラーシャ! お前はここにいる!」
その声は、宿舎の石壁を震わせ、談話室にも、中庭にも、響き渡った。
一瞬の静寂が落ちる。
その静寂を破ったのは、小さな声だった。
「……サラおねえちゃん?」
ヒナがきょとんとした瞳で私を見上げる。
「サラーシャってサラおねえちゃんのこと?王女さま……なの?」
テルも、驚愕に目を見開いて私を見つめている。
周囲の騎士たちの間にもざわめきが走った。
「第五王女……?」
「まさか……」
逃げ道は、どこにもなかった。
私は強く唇を噛みしめ、握った拳をゆっくりとほどいた。
(……もう、隠せない)
足が震えるのを堪えながら、一歩前に出る。
子どもたちの視線、騎士たちの視線、すべてを正面から受け止めて。
「……そうよ」
自分の声がこんなにも震えているのに、驚いた。
けれど、逃げずに続けた。
「私は、ソシリス王国の第五王女――サラーシャ」
ざわめきが一斉に高まり、騎士たちが互いに顔を見合わせる。
「第五王女……!」
「本当に……」
ヒナは小さな口をあんぐりと開けたまま、テルの袖を握りしめる。
テルは妹を抱き寄せ、真剣な顔で私を見上げていた。
「でも……」
私は拳を握りしめ、はっきりと声を張った。
「私は、もう“王女”ではない。誰かの駒でもない。私はただの“サラ”。ここで生きると決めたの」
「おのれ……!」
門から響くハビエルの声に、騎士たちが再び剣を構える。
だが私はその声を遮るように叫んだ。
「もう二度と、あなたに縛られない」
その言葉に、ハビエルの顔が一瞬歪んだ。
だが彼はすぐに馬を駆って消え、宿舎の前に重い静寂だけが残された。
正体を隠して過ごした日々は、たったひと声で崩れ去った。
けれど――。
子どもたちが怯えながらも「サラおねえちゃん」と呼んでくれたこと。
騎士たちが動揺しながらも剣を構え、守る姿勢を見せてくれたこと。
それらが、胸の奥で確かな灯となっていた。
だがハビエルの姿が消え去ると、残されたのは重く張り詰めた沈黙だった。
「……第五王女、サラーシャ」
一人の騎士が、信じられないというように呟いた。
「本当に……我らの宿舎に……」
「姫君を匿っていたのか……」
「いや、彼女自身が“サラ”として過ごしていたのだ」
「しかし王女と知れれば、我ら騎士団もただでは済まぬぞ」
ざわめきが広がり、騎士たちの視線が一斉に私へ注がれる。
それは驚き、困惑、そして責務に縛られた視線だった。
私は喉を震わせ、必死に声を絞り出す。
「……確かに、私は第五王女サラーシャ。けれど……私は、もう王女ではないの。誰かに使われる駒じゃない。私は“サラ”として、この国で生きたい」
「……っ」
言葉に宿舎の空気が揺れる。
誰もすぐには反論しなかった。だが、それぞれの瞳に浮かぶ動揺が胸を締め付ける。
そのとき。
「サラおねえちゃん!」
小さな声が静寂を破った。
ヒナが私の前に駆け寄り、両手を広げて抱きついてきた。
「王女さまでもなんでもいい! ヒナにとっては、サラおねえちゃんだもん!」
「ヒナ……」
テルも一歩前に出て、妹の肩を抱きながら真剣な眼差しを向けてくる。
「僕も同じだよ。サラおねえちゃんはサラおねえちゃんだ。僕たちを守ってくれた。……だから、今度は僕たちが守るよ」
幼い言葉なのに、鋭く胸に響いた。
「……」
騎士たちが一斉に息を呑む気配がした。
誰もがその真っ直ぐさに打たれたのだろう。重苦しい空気の中で、少しずつ心が動いていくのを私は感じた。
コリスが前に出て、短く告げる。
「王女であろうと、サラであろうと関係ない。俺は、この人を守ると決めている」
その言葉に、カイルも静かに頷く。
「俺もだ。彼女が望むのなら、“サラ”として守る。それが俺たちの選ぶ答えだ」
「……」
騎士たちの間に再びざわめきが広がった。だが今度は、先ほどまでの動揺ではなかった。
「守るのが俺たちの務めだ」
「王女であろうが、庇護を求める人を守るのが騎士だ」
「それなら……異存はない」
一人、また一人と、剣を鞘に収めていく。
その音が、宿舎の広間に重くも力強く響き渡った。
私は胸の奥で熱くなり、瞳が潤むのを止められなかった。
だが同時に、心の奥底で冷たい声も囁いていた。
――ソシリスの王妃派は必ずまた仕掛けてくる。
今日のことは街に広まり、もう隠すことはできない。
それでも。
私は両の手を強く握りしめ、子どもたちを抱き寄せた。
「大丈夫。私は“サラ”として、ここで生きる。だから、もう泣かないで」
ヒナがしゃくり上げながらも笑顔を見せ、テルは小さく頷いた。
その笑顔に囲まれながら、私ははっきりと胸の奥で誓った。
食堂で食事を終えると、騎士たちは中庭へ出て訓練を始めた。
剣で打ち合う音が朝の空気を震わせ、掛け声が高く響き渡る。
「わぁ……!」
ヒナが目を輝かせて駆け寄った。
「かっこいい! わたしもやりたい!」
「また始まった……」
テルが額に手を当てて嘆息する。宿舎で日々を過ごすうちに、騎士に憧れを抱いたようだった。
「ヒナ、剣なんてまだ早いよ」
「やるの! わたし、騎士になるの!」
両手を腰に当てて胸を張る姿に、周りの兵士たちが苦笑した。
「おいおい、小さなお姫さまが相手じゃ剣のほうが重いぞ」
「木の棒でも危ないからなあ」
「やだ! やりたいの!」
ヒナは頑なに首を振り、ぐずり出しそうな勢いだ。
そのとき、訓練を終えたコリスが歩み寄ってきた。
「……仕方ない」
低く呟くと、傍に立てかけてあった木剣を一本取り、しゃがんでヒナに手渡した。
「えっ、いいの!?」
「構えだけだ。振り回すなよ」
ヒナは小さな手で木剣を抱え込むように持ち、真似をして腰を落とした。
だが剣の先はふらふら揺れ、まるで子猫の尻尾のように頼りない。
「えーっと、右足を少し引いて……そうだ。腕はこう」
コリスが手を添えて直してやるが、次の瞬間――
「きゃっ!」
バランスを崩したヒナは尻もちをついた。
「はははっ!」
周囲の兵士たちから大爆笑が起こる。
「こりゃ騎士になるよりパン屋のほうが向いてるな!」
「剣よりスプーンのほうが似合ってるぞ!」
ヒナは顔を真っ赤にして「もう一回!」と立ち上がった。
その横で、テルがため息をつきつつもハンカチで妹の服を払ってやる。
「だから言ったのに……ほんと、世話が焼けるなあ」
呆れたように言いながらも、テルの声には優しさが滲んでいた。
「よし、もう一回!」
ヒナは意気込んで木剣を握り直したが、今度は力を入れすぎて――
ぶんっ!
大きく振りかぶった拍子に、木剣が手からすっぽ抜け、くるくる回転しながら宙を舞った。
「わああっ!」
あまりのことに騎士たちが慌てて頭を伏せる。
テルはヒナを守るようにして抱え込んだ。
木剣は勢いよく飛んで、ちょうど水桶に――
どぼんっ。
盛大な水しぶきと共に沈んだ。
一瞬の沈黙の後――
「はははは!」
宿舎の中庭に、爆笑が轟いた。
「おい、あの一撃は強烈だったぞ!」
「桶割りの達人だな!」
ヒナは目を白黒させて桶を覗き込み、情けない声をあげた。
「ヒナの剣……」
「ほら見ろ」
テルが腰に手を当てて呆れる。
「剣をやるより先に、洗濯の手伝いを覚えた方がいいんじゃない?」
「むぅー!」
ヒナは頬をぷくっと膨らませ、すっかり笑いの渦の中心になっていた。
そのとき、訓練帰りのカイルが中庭に姿を現した。
「……何事かと思えば」
落ち着いた声に、ヒナがぱっと振り返る。
「カイルおにいちゃん! 聞いて! ヒナね、剣を振れたんだよ!」
小さな胸を誇らしげに張るが、後ろでテルがすかさず訂正する。
「違うよ。木剣を“飛ばした”んだ」
その一言に、またも笑いが広がる。
ヒナは顔を真っ赤にして兄を叩こうとするが、テルはひょいとかわしてにやにやしていた。
カイルはそんな二人を眺め、わずかに口元を緩める。
「なるほど……かわいい妹と、勇敢な兄か」
彼はしゃがみ込み、テルの肩に手を置いた。
「妹を守ろうとする姿勢は立派だ。騎士としても一番大事なことだぞ」
「……!」
テルの瞳がぱっと輝き、耳まで赤く染まった。
「ぼ、僕も……本当に騎士になれるかな」
「なれるさ。心があれば剣はあとからついてくる」
カイルの静かな声に、テルは深く頷いた。
「じゃあ、わたしも!」
ヒナが勢いよく手を挙げる。
「わたしもカイルおにいちゃんみたいになる!」
「お前はまず……桶を割らずに済む方法を覚えるんだな」
コリスのぼそりとした突っ込みに、またしても爆笑が起こった。
私は笑いながらも、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
夕暮れの陽が中庭を朱に染め、訓練を終えた騎士たちの声も次第に落ち着きを見せていた。
石畳には子どもたちの影が長く伸び、ヒナがその影を踏みながらくるくると回っている。
「ヒナの影、すっごく長い!」
「走ったら転ぶよ、ヒナ」
テルは手を腰に当てて、妹の後を追いかける。
結局、ヒナは勢い余って石段に足を取られ、こてんと尻もちをついた。
「もう……ヒナったら」
テルは小さなため息をつきながらも、妹を抱き起こし、膝の埃を払ってやる。
ヒナは「大丈夫!」と笑って跳ね起きた。
騎士団の面々は、そんな兄妹を眺めて微笑んでいた。
「元気だなあ」
「宿舎が賑やかになったな」
「悪くないもんだな、こういうのも」
硬い石造りの宿舎に、温かい空気が広がっていく。
私はその光景を胸に刻むように見つめていた。
(……こんな日常が、いつまでも続けばいい)
王宮にいた頃には、決して触れることのなかった賑やかで素朴な笑い。
それを守れるなら、どんな脅威にも立ち向かおう。
そんな決意が、胸の奥で静かに形を取っていくのを感じていた。
その時だった。
廊下を駆ける足音がして、騎士の一人が慌ただしく駆け込んできた。
「不審な者が、宿舎の前に!」
空気が一変する。
中庭にいた騎士たちが一斉に剣を取って駆け出した。
テルがヒナの肩を抱き寄せ、私は子どもたちを庇うように立ち上がる。
(まさか……)
胸がざわつくのを抑えきれない。
そして次の瞬間――
「サラーシャ王女ーーッ!」
鋭い声が夕暮れの空気を切り裂いた。
私の心臓が、どくんと大きく跳ねた。
扉の向こうから響いてきたのは、忘れるはずのない声。
「俺の婚約者よ! 隠れても無駄だ! ソシリス王国の王妃様がお前をお待ちだ!」
騎士たちの怒号が交錯する。
「誰だ! 捕らえろ!」
「弓を構えろ!」
外に駆け出した騎士たちの間から、フードを深くかぶった男が姿を現した。
ハビエル――。
忌々しいほどよく通る声で、再び叫んだ。
「第五王女サラーシャ! お前はここにいる!」
その声は、宿舎の石壁を震わせ、談話室にも、中庭にも、響き渡った。
一瞬の静寂が落ちる。
その静寂を破ったのは、小さな声だった。
「……サラおねえちゃん?」
ヒナがきょとんとした瞳で私を見上げる。
「サラーシャってサラおねえちゃんのこと?王女さま……なの?」
テルも、驚愕に目を見開いて私を見つめている。
周囲の騎士たちの間にもざわめきが走った。
「第五王女……?」
「まさか……」
逃げ道は、どこにもなかった。
私は強く唇を噛みしめ、握った拳をゆっくりとほどいた。
(……もう、隠せない)
足が震えるのを堪えながら、一歩前に出る。
子どもたちの視線、騎士たちの視線、すべてを正面から受け止めて。
「……そうよ」
自分の声がこんなにも震えているのに、驚いた。
けれど、逃げずに続けた。
「私は、ソシリス王国の第五王女――サラーシャ」
ざわめきが一斉に高まり、騎士たちが互いに顔を見合わせる。
「第五王女……!」
「本当に……」
ヒナは小さな口をあんぐりと開けたまま、テルの袖を握りしめる。
テルは妹を抱き寄せ、真剣な顔で私を見上げていた。
「でも……」
私は拳を握りしめ、はっきりと声を張った。
「私は、もう“王女”ではない。誰かの駒でもない。私はただの“サラ”。ここで生きると決めたの」
「おのれ……!」
門から響くハビエルの声に、騎士たちが再び剣を構える。
だが私はその声を遮るように叫んだ。
「もう二度と、あなたに縛られない」
その言葉に、ハビエルの顔が一瞬歪んだ。
だが彼はすぐに馬を駆って消え、宿舎の前に重い静寂だけが残された。
正体を隠して過ごした日々は、たったひと声で崩れ去った。
けれど――。
子どもたちが怯えながらも「サラおねえちゃん」と呼んでくれたこと。
騎士たちが動揺しながらも剣を構え、守る姿勢を見せてくれたこと。
それらが、胸の奥で確かな灯となっていた。
だがハビエルの姿が消え去ると、残されたのは重く張り詰めた沈黙だった。
「……第五王女、サラーシャ」
一人の騎士が、信じられないというように呟いた。
「本当に……我らの宿舎に……」
「姫君を匿っていたのか……」
「いや、彼女自身が“サラ”として過ごしていたのだ」
「しかし王女と知れれば、我ら騎士団もただでは済まぬぞ」
ざわめきが広がり、騎士たちの視線が一斉に私へ注がれる。
それは驚き、困惑、そして責務に縛られた視線だった。
私は喉を震わせ、必死に声を絞り出す。
「……確かに、私は第五王女サラーシャ。けれど……私は、もう王女ではないの。誰かに使われる駒じゃない。私は“サラ”として、この国で生きたい」
「……っ」
言葉に宿舎の空気が揺れる。
誰もすぐには反論しなかった。だが、それぞれの瞳に浮かぶ動揺が胸を締め付ける。
そのとき。
「サラおねえちゃん!」
小さな声が静寂を破った。
ヒナが私の前に駆け寄り、両手を広げて抱きついてきた。
「王女さまでもなんでもいい! ヒナにとっては、サラおねえちゃんだもん!」
「ヒナ……」
テルも一歩前に出て、妹の肩を抱きながら真剣な眼差しを向けてくる。
「僕も同じだよ。サラおねえちゃんはサラおねえちゃんだ。僕たちを守ってくれた。……だから、今度は僕たちが守るよ」
幼い言葉なのに、鋭く胸に響いた。
「……」
騎士たちが一斉に息を呑む気配がした。
誰もがその真っ直ぐさに打たれたのだろう。重苦しい空気の中で、少しずつ心が動いていくのを私は感じた。
コリスが前に出て、短く告げる。
「王女であろうと、サラであろうと関係ない。俺は、この人を守ると決めている」
その言葉に、カイルも静かに頷く。
「俺もだ。彼女が望むのなら、“サラ”として守る。それが俺たちの選ぶ答えだ」
「……」
騎士たちの間に再びざわめきが広がった。だが今度は、先ほどまでの動揺ではなかった。
「守るのが俺たちの務めだ」
「王女であろうが、庇護を求める人を守るのが騎士だ」
「それなら……異存はない」
一人、また一人と、剣を鞘に収めていく。
その音が、宿舎の広間に重くも力強く響き渡った。
私は胸の奥で熱くなり、瞳が潤むのを止められなかった。
だが同時に、心の奥底で冷たい声も囁いていた。
――ソシリスの王妃派は必ずまた仕掛けてくる。
今日のことは街に広まり、もう隠すことはできない。
それでも。
私は両の手を強く握りしめ、子どもたちを抱き寄せた。
「大丈夫。私は“サラ”として、ここで生きる。だから、もう泣かないで」
ヒナがしゃくり上げながらも笑顔を見せ、テルは小さく頷いた。
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同じ伯爵家の息子であり、王都学院でも才気あふれる青年として知られる彼は、ベアトリスの幼馴染であり、未来を誓い合った相手でもある。だが、学院に入ってからというもの、シャルルは王女殿下と共に生徒会での活動に没頭するようになり、ベアトリスの前に姿を見せることすら稀になっていった。
そんなある日、ベアトリスは前世を思い出した。この世界はかつて病院に入院していた時の乙女ゲームの世界だと。
そして、自分は悪役令嬢だと。ゲームのシナリオをぶち壊すために、ベアトリスは立ち上がった。
レベルを上げに励み、頂点を極めた。これでゲームシナリオはぶち壊せる。
そう思ったベアトリスに真の目的が見つかった。前世では病院食ばかりだった。好きなものを食べられずに死んでしまった。だから、この世界では美味しいものを食べたい。ベアトリスの食への欲求を満たす旅が始まろうとしていた。
巻き込まれて婚約破棄になった私は静かに舞台を去ったはずが、隣国の王太子に溺愛されてしまった!
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