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CASE 06:砂に書いた「愛」 遠藤雅代(53)仮名
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遠藤雅代(53)の人生は、家族という名の大きな器に自分を注ぎ込む日々だった。夫の博文(57)は大手企業の課長として定年を目前に控え、娘の沙織(24)も社会人として独立した。ようやく肩の荷が下りたはずの雅代を襲ったのは、静まり返った家の中を漂う「私という存在の賞味期限」への焦りだった。
そんな時、趣味の陶芸教室で講師の宮本(55)に出会った。
「雅代さんの作品は、あなたの繊細な生き方を写していますね」
土を捏ねる雅代の手に、宮本の手が重なる。博文からは何年も触れられていない皮膚が、熱を帯びて蘇るのを感じた。宮本との密会は、雅代にとって自分を「一人の女」として繋ぎ止めるための聖域だった。
「定年後の博文と二人きり、死ぬまでこの家に閉じ込められるなんて耐えられない」
雅代は宮本の「二人で新しい場所へ逃げよう」という言葉に全てを賭けた。彼女は博文との共同口座から少しずつ金を移し、密かに離婚と再出発の準備を進めた。それは、家族のために捧げた25年間の報酬を、最後に自分のために使い切るという、雅代なりの反逆だった。
しかし、決行の日は思わぬ形で訪れた。
「お母さん、これ、どういうこと?」
週末、連絡もなく帰宅した娘の沙織(24)がリビングに立っていた。彼女の足元には、雅代がクローゼットの奥に隠していたはずの、宮本からの手紙と、着実に残高を増やした隠し口座の通帳が散らばっていた。
「沙織、これは……」
言い訳を探す雅代に、沙織は吐き捨てるように言った。
「お父さんが、毎日どんな思いで満員電車に揺られてきたか知ってるの? 還暦近くなって、家族のために一生懸命だったお父さんを裏切って、その上お金まで盗んで逃げるつもりだったの? 気持ち悪い……。お母さんのこと、心底軽蔑するよ」
沙織の言葉は、雅代が最も恐れていた「母としての失格」を突きつける刃だった。沙織は冷徹だった。彼女はすでに全ての証拠をスマートフォンで撮影し、博文に送信していた。
帰宅した博文は、荒れ果てたリビングで立ち尽くした。彼は怒鳴らなかった。ただ、幽霊のような足取りでソファーに座り、力なく笑った。「そうか、俺たちの25年は、陶芸教室の男に負けたのか」
その寂しげな背中を見た瞬間、雅代が信じていた宮本との「真実の愛」は、一気に色褪せ、安っぽい火遊びにしか見えなくなった。
雅代は縋るように宮本に電話をした。だが、宮本は雅代が家族に露呈したことを知るや否や、温度を失った声で告げた。
「悪いけど、家族沙汰になるのは困るんだ。もう連絡してこないでくれ」
彼は、雅代の「金」と、自分を崇拝する「従順さ」を楽しんでいただけだった。
結局、離婚は成立しなかった。しかし、それは許されたからではない。
博文は冷え切った声で命じた。
「今さらお前に一人で生きる能力はない。ここにいろ。ただし、今日からお前はただの同居人だ。俺の食事と洗濯だけはしろ」
沙織からも絶縁された。孫ができても「子供には会わせたくない」と告げられ、雅代は家族の輪から永遠に追放された。
今、雅代は広い家の中で、言葉を失った夫に仕え続けている。
あの日、宮本の手に触れなければ。あの日、自分の「賞味期限」を受け入れていれば。
砂の上に築いた蜃気楼のような愛のために、雅代は「家族」という何物にも代えがたい居場所を、一生をかけて贖い続ける地獄を選んでしまったのだ。
そんな時、趣味の陶芸教室で講師の宮本(55)に出会った。
「雅代さんの作品は、あなたの繊細な生き方を写していますね」
土を捏ねる雅代の手に、宮本の手が重なる。博文からは何年も触れられていない皮膚が、熱を帯びて蘇るのを感じた。宮本との密会は、雅代にとって自分を「一人の女」として繋ぎ止めるための聖域だった。
「定年後の博文と二人きり、死ぬまでこの家に閉じ込められるなんて耐えられない」
雅代は宮本の「二人で新しい場所へ逃げよう」という言葉に全てを賭けた。彼女は博文との共同口座から少しずつ金を移し、密かに離婚と再出発の準備を進めた。それは、家族のために捧げた25年間の報酬を、最後に自分のために使い切るという、雅代なりの反逆だった。
しかし、決行の日は思わぬ形で訪れた。
「お母さん、これ、どういうこと?」
週末、連絡もなく帰宅した娘の沙織(24)がリビングに立っていた。彼女の足元には、雅代がクローゼットの奥に隠していたはずの、宮本からの手紙と、着実に残高を増やした隠し口座の通帳が散らばっていた。
「沙織、これは……」
言い訳を探す雅代に、沙織は吐き捨てるように言った。
「お父さんが、毎日どんな思いで満員電車に揺られてきたか知ってるの? 還暦近くなって、家族のために一生懸命だったお父さんを裏切って、その上お金まで盗んで逃げるつもりだったの? 気持ち悪い……。お母さんのこと、心底軽蔑するよ」
沙織の言葉は、雅代が最も恐れていた「母としての失格」を突きつける刃だった。沙織は冷徹だった。彼女はすでに全ての証拠をスマートフォンで撮影し、博文に送信していた。
帰宅した博文は、荒れ果てたリビングで立ち尽くした。彼は怒鳴らなかった。ただ、幽霊のような足取りでソファーに座り、力なく笑った。「そうか、俺たちの25年は、陶芸教室の男に負けたのか」
その寂しげな背中を見た瞬間、雅代が信じていた宮本との「真実の愛」は、一気に色褪せ、安っぽい火遊びにしか見えなくなった。
雅代は縋るように宮本に電話をした。だが、宮本は雅代が家族に露呈したことを知るや否や、温度を失った声で告げた。
「悪いけど、家族沙汰になるのは困るんだ。もう連絡してこないでくれ」
彼は、雅代の「金」と、自分を崇拝する「従順さ」を楽しんでいただけだった。
結局、離婚は成立しなかった。しかし、それは許されたからではない。
博文は冷え切った声で命じた。
「今さらお前に一人で生きる能力はない。ここにいろ。ただし、今日からお前はただの同居人だ。俺の食事と洗濯だけはしろ」
沙織からも絶縁された。孫ができても「子供には会わせたくない」と告げられ、雅代は家族の輪から永遠に追放された。
今、雅代は広い家の中で、言葉を失った夫に仕え続けている。
あの日、宮本の手に触れなければ。あの日、自分の「賞味期限」を受け入れていれば。
砂の上に築いた蜃気楼のような愛のために、雅代は「家族」という何物にも代えがたい居場所を、一生をかけて贖い続ける地獄を選んでしまったのだ。
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