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CASE 09:空っぽの約束 松本志津香(46)仮名
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松本志津香(46)は、看護師として人の命に向き合う日々の中で、自分自身の人生がひどく乾いていると感じていた。夫の隆史(48)は真面目な公務員だが、会話といえば息子の蓮(17)の進路や、老後の資金といった現実的なことばかり。そんな志津香の前に現れたのが、患者家族だった関口(45)だった。
「志津香さん、君のような人がどうしてそんなに寂しそうな顔をしているんだ。僕が君を連れ出したい」
関口の言葉は、乾いた砂に染み込む水のように志津香の心を潤した。彼は会うたびに、自分の妻がいかに理解がないか、そして志津香といかに深い魂の繋がりを感じているかを熱烈に説いた。
「今の生活を捨てて、二人でやり直そう。君を絶対に幸せにする」
その約束を、志津香は「真実」だと信じ込んだ。
隆史(48)との冷え切った家を出る決意をしたのは、蓮(17)が大学受験という人生の正念場を迎えていた時期だった。
「最低な母親だと言われてもいい。私は、一人の女として生きたいの」
志津香は、泣いてすがる隆史を振り切り、困惑する蓮に背を向けて、離婚届を叩きつけるように置いて家を飛び出した。すべては、関口という新しい「家」が待っていると信じていたからだ。
身一つで家を離れ、安ホテルの部屋から、志津香は震える指で関口に電話をかけた。
「私、すべてを捨ててきたわ。今、ホテルにいるの。迎えに来て」
しかし、受話器から聞こえてきたのは、志津香の記憶にある甘い声ではなかった。
「……え、本当に離婚したの? 冗談だろう? 俺は……そんなつもりじゃなかったんだ」
関口の声は、怯えていた。
「家庭を壊すなんて、最初から一言も言ってないじゃないか。君が勝手にやったことだ。これ以上、俺の生活を脅かさないでくれ。妻にバレたらどうするんだ!」
そのまま、電話は切れた。何度かけ直しても、二度と繋がることはなかった。
志津香は、ホテルの冷たいベッドの上で、自分の愚かさにようやく気づいた。
関口にとって、志津香は「今の生活を彩るためのスパイス」に過ぎず、自分の人生を懸けるほどの価値など最初からなかったのだ。彼が語った「約束」は、その場を盛り上げるための空っぽな台詞に過ぎなかった。
家を焼き払い、戻るべき橋をすべて壊してしまった後で、目的地が最初から存在しなかったことを知る絶望。
志津香は隆史に謝罪のメールを送ったが、返ってきたのは、かつて温厚だった夫からの、氷のような言葉だった。
「蓮は、お前のせいで志望校を変えた。母親が男と逃げるために受験直前の自分を捨てたことを、あの子は一生忘れないだろう。二度と、俺たちの前に現れるな」
今、志津香は職場の近くの狭いアパートで、一人きりの夜を過ごしている。
夜勤明けの疲れ果てた体で帰宅しても、迎えてくれる人は誰もいない。
「幸せにする」という空っぽな約束を信じた代償は、家族の愛、住み慣れた家、そして「母親」という自分自身のアイデンティティ、そのすべてを失うことだった。
暗い部屋の中で、志津香はかつて自分が捨てた「退屈な日常」を思い出す。
隆史と蓮と囲んだ、何の変哲もない食卓。あの場所こそが、世界で唯一、彼女を「松本志津香」として認めてくれていた場所だったのだ。
「志津香さん、君のような人がどうしてそんなに寂しそうな顔をしているんだ。僕が君を連れ出したい」
関口の言葉は、乾いた砂に染み込む水のように志津香の心を潤した。彼は会うたびに、自分の妻がいかに理解がないか、そして志津香といかに深い魂の繋がりを感じているかを熱烈に説いた。
「今の生活を捨てて、二人でやり直そう。君を絶対に幸せにする」
その約束を、志津香は「真実」だと信じ込んだ。
隆史(48)との冷え切った家を出る決意をしたのは、蓮(17)が大学受験という人生の正念場を迎えていた時期だった。
「最低な母親だと言われてもいい。私は、一人の女として生きたいの」
志津香は、泣いてすがる隆史を振り切り、困惑する蓮に背を向けて、離婚届を叩きつけるように置いて家を飛び出した。すべては、関口という新しい「家」が待っていると信じていたからだ。
身一つで家を離れ、安ホテルの部屋から、志津香は震える指で関口に電話をかけた。
「私、すべてを捨ててきたわ。今、ホテルにいるの。迎えに来て」
しかし、受話器から聞こえてきたのは、志津香の記憶にある甘い声ではなかった。
「……え、本当に離婚したの? 冗談だろう? 俺は……そんなつもりじゃなかったんだ」
関口の声は、怯えていた。
「家庭を壊すなんて、最初から一言も言ってないじゃないか。君が勝手にやったことだ。これ以上、俺の生活を脅かさないでくれ。妻にバレたらどうするんだ!」
そのまま、電話は切れた。何度かけ直しても、二度と繋がることはなかった。
志津香は、ホテルの冷たいベッドの上で、自分の愚かさにようやく気づいた。
関口にとって、志津香は「今の生活を彩るためのスパイス」に過ぎず、自分の人生を懸けるほどの価値など最初からなかったのだ。彼が語った「約束」は、その場を盛り上げるための空っぽな台詞に過ぎなかった。
家を焼き払い、戻るべき橋をすべて壊してしまった後で、目的地が最初から存在しなかったことを知る絶望。
志津香は隆史に謝罪のメールを送ったが、返ってきたのは、かつて温厚だった夫からの、氷のような言葉だった。
「蓮は、お前のせいで志望校を変えた。母親が男と逃げるために受験直前の自分を捨てたことを、あの子は一生忘れないだろう。二度と、俺たちの前に現れるな」
今、志津香は職場の近くの狭いアパートで、一人きりの夜を過ごしている。
夜勤明けの疲れ果てた体で帰宅しても、迎えてくれる人は誰もいない。
「幸せにする」という空っぽな約束を信じた代償は、家族の愛、住み慣れた家、そして「母親」という自分自身のアイデンティティ、そのすべてを失うことだった。
暗い部屋の中で、志津香はかつて自分が捨てた「退屈な日常」を思い出す。
隆史と蓮と囲んだ、何の変哲もない食卓。あの場所こそが、世界で唯一、彼女を「松本志津香」として認めてくれていた場所だったのだ。
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