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第一章
精霊(スピリット)と魂霊(ソウル)
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「ヴァルターって戻ってきているかな?」
ユーリに案内されて「ケルークス」に入店してきた二体の精霊のうち、背の高い方が店内をキョロキョロと見回した。
「まだだけど、店内で待ちますか?」
「そうするよ。アンブロシアは……奴が戻ってきたときにしたいから、このウーロンチャというのをお願いするよ」
「こっちも同じので」
「ウーロン茶は暖かいのと冷たいのがありますけど、どちらになさいますか?」
「冷たいのをお願いする」「こっちも同じで」
「畏まりました。少々お待ちください」
新たに入店してきたのは男性型の精霊二体。姿形から二体とも地の精霊ノームだと思う。
残念ながら私の知った顔ではない。
彼らが待つヴァルターというのは存在界に出張している地の精霊だ。種類はクロノスで、平原を司る。
「おお、そこにいるのはリーゼか。珍しいね」
背の高い方のノームがリーゼに声をかけてきた。リーゼの知り合いだったのか。
「あ、ウドにヴィート。お久しぶり、です。契約したアーベルさまに連れてきてもらいました」
リーゼが本から目を離して、ぺこりと頭を下げた。
「アーベルと言います、よろしくお願いします」
リーゼの知り合いなら私も挨拶をしておいた方がよさそうだ。
「私はウド、こっちがヴィートだ。地下室の工事とかは得意だから必要になったら呼んでくれよ。私たちの住処はリーゼかカーリンに聞けばわかるから」
背の高い方のノームが手を挙げて答えてくれた。
こちらがウドで、背の低い方がヴィート、ということらしい。
ノームは個体ごとの外見の差が少ないから、見分けがつきにくい。
ウドは気さくな性質のようだ。ごく一部の例外を除いて精霊や魂霊に非友好的な態度をとる精霊というのはいないのだけど。
「アーベルさま。あの二人はお姉ちゃんが作業に使う壺を作ってくれました」
リーゼが小声で教えてくれた。
私がカーリンやリーゼと契約したとき、カーリンは既にアンブロシア酒造りに使う壺を持っていた。
ということは壺を入手したのは私と契約する前だろう。
私がウドやヴィートを知らないのも無理はない。
「アーベルよ、リーゼの契約者ということは魂霊だな? なら存在界のことはわかるかい?」
「ウドさん、こっちに移住してきたのがかなり前ですから、最近のことだと厳しいかもしれないです」
「知っていたらで構わないのだが、ヴィートの契約者が○○のあった場所が今どうなっているか知りたがっている。アーベルは知っているだろうか?」
○○というのは施設の名前だ。
私が二十代のころに取り壊されたというニュースを見たことがある。
跡地が何になったのかは知らないが、大体の場所はわかる。
存在界に出張する精霊に頼んで、写真を撮ってきてもらうくらいならできそうだ。
「やっぱりアーベルに聞いてもらって正解ね。近くに出張する精霊に頼んでみるわ。アーベル、後でどう頼んだらいいか教えて」
いつの間にかユーリが私のすぐ後ろに立っていた。
ユーリは○○という施設を知らなかったとのことで、知ってそうな私に聞いてみたらとウドに言っていたらしい。
「……魂霊というのも難儀だな」
今度はヴィートが口を開いた。
ウドと比較すると口数が少ないタイプのようだ。
「そうですね、魂霊は存在界に行くことができないですし……」
確かにヴィートの指摘通りだから、私としてもあまり言えることがない。
「見てくれは我々精霊と大差ないのにな。アイリス、何とかならんのか?」
ウドは面倒見の良い性格なのか、今度はアイリスに突っ込んできた。
人間を魔法で魂霊に変えるのは彼女など「精霊界移住相談所」の精霊の相談員だから、意見を言う先としては正しい。
「魂霊と精霊はもともと造りが違うからね。人間や魂霊は存在界と精霊界の両方に存在できるように造られていないのよ。両方に存在できるように造ると、私たち精霊が本性をさらけ出せる相手にならないし……」
アイリスがやれやれと両手を広げた。
なかなかうまくいかないものだ。
そう、精霊は精霊界と存在界を行ったり来たりできるが、魂霊は精霊界でしか存在できない。
これは「精霊は魔法を使うことができるが、魂霊は魔法を使うことができない」という精霊と魂霊の決定的な違いによるものだ。
「おお、ウドとヴィートか。スマン、遅くなった。ちょっと待っていてくれ」
いつの間にか人間用の入口から作業着を着た筋骨隆々の男が店内に入ってきていた。
背中には大きなリュックを背負っている。
「ヴァルター、来たか。待ってたぞ」
ウドが手を挙げた。
「ポテチとやらは入手できたのか?」
ヴィートはチラチラとヴァルターの背中のリュックを見ている。
なるほど、存在界から持ってくる荷物が目的だったか。
筋骨隆々の精霊ヴァルターが精神を集中すると、作業着姿から魔法使いのようなローブ姿へと変身した。魔法を使ったのだ。
この瞬間ヴァルターは精霊界用の身体になった。
存在界では魔法というと人間の力でなし得ない科学で説明不能な術とみなされているようだが、精霊界でいう「魔法」とは次のようなものだ。
「魔法」とは魔力を用いて自分や他者、物を精霊界の存在から存在界の存在へと変えること、またはその逆を行うことである。
ちなみに「魔法」以外の魔力を用いた作業はすべて「魔術」という。
「魔法」と「魔術」を区別するのは精霊にとって意味があるからだそうなのだが、私にはよくわからない。
ヴァルターは、自分の身体を存在界の存在から精霊界の存在へと変えたので、魔法を使ったことになるわけだ。
ちなみに魂霊や人間は魔法が使えない。
「アイリス、さっきのウドの質問の答えだけど、魂霊を人間に変えることについて聞かれたらどうするつもりだったんだ?」
私は敢えて小声でアイリスに尋ねた。
「できない、って答えたわよ。実際やろうとしても魂霊の存在が壊れて無に帰すだけだし、そんなことしたら契約した精霊があっという間に溢壊してしまうわ」
実はあまり知られていないことなのだが、魂霊を人間に戻そうとすると、アイリスの言う通りの事態となる。
だから精霊界でも公には「魂霊を人間に変える魔法はない」とされているのだ。
これを行った場合に生じる事態について知っているのは、「精霊界移住相談所」のメンバーと、実際にこうした場面を見たことのある数少ない精霊だけなのだ。
私は過去に半ば禁忌とされている魂霊を人間に変える魔法で起きた悲劇を知っているから、先ほどのウドの質問には安直に答えない方がいいとアイリスに警告したつもりだった。
アイリスもこの悲劇を知っているから、というよりも彼女の場合は限りなく当事者に近いからもう少し慎重になったほうが良いと私は思う。
ヴァルターは自分の身体を精霊界の存在へと変えた後、魔法で持ってきた荷物を次々に精霊界の存在へと変えていった。
荷物は菓子類と書籍が多く、わずかにゲームソフトが混じっている。
もちろん、ウドやヴィートが求めているポテチもある。
「おお! ユーリ、ポテチを大皿で出してもらえるか?」
ウドが待ちきれないといった様子でユーリに注文をいれた。
ヴィートも落ち着かないようで、ポテチの袋と厨房を交互に見ている。
「きゃっ! いたたたた……」
不意に「ケルークス」の店内に上半身裸で下半身が魚の姿の女性が降ってきた。
店や客にとっては運よく何もない床の上に落ちてきたので、降ってきた本人以外に被害はなさそうだ。
このように店内に精霊が降ってくることは時々あることなのだが、何とかならないかとは思う。
「こら、バネッサ! 何やっているのよ?!」
落ちてきた女性に向かってユーリが怒鳴った。
というのもバネッサという女性型の精霊が「ケルークス」の店内に降ってくるのは、私が居合わせたときだけで少なくとも五度目だからだ。
「ゴッメ~ン、またトラブっちゃったぁ。ちょっと待って」
バネッサが下半身を魚の姿から人の脚へと変えて立ち上がった。
彼女はセイレーンという歌を司る精霊だ。
存在界に出没すると声で男性を惑わせるという厄介な力を持っている。
ある程度力を抑えることも可能らしいのだが。
「ねえ、バネッサ、今回は何やったの?」
半ば呆れ、残りの半分は興味本位といった様子でアイリスが尋ねた。
バネッサを存在界に送り込んでいる責任者はアイリスなのだが。
「あははははっ、何かよくわからないんだけど、遊んでくれるって人の家に行ったら、ベランダから突き落とされちゃったんだよね~。面白かったからいいけど」
ケラケラ笑いながらとんでもないことを言っている。
もっとも、とんでもないと思う私の感覚が存在界に毒されているのかもしれない。
「バネッサ、何度目なのよ? 懲りないわねぇ。私もそういうの興味あるけどさぁ」
アイリスは呆れ顔だ。
「存在界で無用なトラブルを起こすのはどうかと思いますけど。精霊が存在界の人たちから警戒される原因になるような気がします」
聞いた話なので、バネッサが事実を言っていないのなら的外れな指摘にはなってしまうが、これは言っておいた方がよいだろう。
「でも、向こうから誘ってくるんだよねぇ。断るのも悪いかなぁ、って」
バネッサは悪びれることなくあっけらかんと言い放った。
このあたり、精霊と元人間であった私の感覚がかなり異なる部分なのだろう。
「そうねぇ、誘われるのなら要求には応えてあげるべきよね。私も契約を結んで、って誘ってくれるのなら喜んで応えるのに」
肝心なところでアイリスが脱線してきた。この責任者だからバネッサが未だに存在界に行くことができるということか。
アイリスはともかく、バネッサには悪びれる様子がない。
話を聞いている限りだととんでもなく人が好い (精霊なのだが)といった感じだ。
「今回はマンションの七階からだったから、ちょっと痛かったなぁ。それはそれで新鮮かも、なんだけど」
バネッサが人間が聞いたら卒倒しかねない台詞を堂々と吐いているが、このような感覚になるのも理由があるように思う。
精霊は精霊界で痛みを感じたり傷つくことはない。
だから精霊に寿命はないし、存在が失われることもない。
しかし、存在界に行った場合は別だ。
この場合、精霊は存在界で存在できるよう自分の存在を魔法で作り替える。
存在界用に作り替えられた精霊をこちらでは「妖精」と呼んでいるが、妖精は人間と区別がつかないものが多い。
普通に怪我もすれば痛みも感じるし、病気にもなる。
そして身体へのダメージが限界を超えれば、妖精は存在界で存在できなくなる。
存在界で存在できなくなった妖精は、精霊となって精霊界に戻されるのだ。
戻される場所は近くにある精霊界と存在界の境界になることが多い。
バネッサもマンションの七階から転落して存在界での存在を維持できなくなり、精霊界と存在界の境界となる「ケルークス」に精霊となって戻されてきたのだろう。
「バネッサは宣伝専業だから、また行ってくればいいじゃない。どうするの?」
どうやらアイリスにはバネッサの存在界行きを止める気がないようだ。
「ここでちょっと休んだら行ってくるね。ユーリ、冷たいウーロン茶をお願いね。あ、ポテチ入ったんだ。大皿でひとつ!」
バネッサが近くの空いている席に陣取った。
ティーブレイクを楽しんだら、再び存在界に出発する気らしい。
全然凝りていないんだなぁ、とこちらが感心してしまった。
いくらでもやり直しがきくと、こうなってしまうのかも知れない。
「はーい。今度は気を付けるのよ」
「わかっているって」
ユーリの忠告をとても理解しているとは思えない様子でバネッサが答えた。
近いうちにまた、ここにバネッサが降ってくるだろうな、と私は思った。
ユーリに案内されて「ケルークス」に入店してきた二体の精霊のうち、背の高い方が店内をキョロキョロと見回した。
「まだだけど、店内で待ちますか?」
「そうするよ。アンブロシアは……奴が戻ってきたときにしたいから、このウーロンチャというのをお願いするよ」
「こっちも同じので」
「ウーロン茶は暖かいのと冷たいのがありますけど、どちらになさいますか?」
「冷たいのをお願いする」「こっちも同じで」
「畏まりました。少々お待ちください」
新たに入店してきたのは男性型の精霊二体。姿形から二体とも地の精霊ノームだと思う。
残念ながら私の知った顔ではない。
彼らが待つヴァルターというのは存在界に出張している地の精霊だ。種類はクロノスで、平原を司る。
「おお、そこにいるのはリーゼか。珍しいね」
背の高い方のノームがリーゼに声をかけてきた。リーゼの知り合いだったのか。
「あ、ウドにヴィート。お久しぶり、です。契約したアーベルさまに連れてきてもらいました」
リーゼが本から目を離して、ぺこりと頭を下げた。
「アーベルと言います、よろしくお願いします」
リーゼの知り合いなら私も挨拶をしておいた方がよさそうだ。
「私はウド、こっちがヴィートだ。地下室の工事とかは得意だから必要になったら呼んでくれよ。私たちの住処はリーゼかカーリンに聞けばわかるから」
背の高い方のノームが手を挙げて答えてくれた。
こちらがウドで、背の低い方がヴィート、ということらしい。
ノームは個体ごとの外見の差が少ないから、見分けがつきにくい。
ウドは気さくな性質のようだ。ごく一部の例外を除いて精霊や魂霊に非友好的な態度をとる精霊というのはいないのだけど。
「アーベルさま。あの二人はお姉ちゃんが作業に使う壺を作ってくれました」
リーゼが小声で教えてくれた。
私がカーリンやリーゼと契約したとき、カーリンは既にアンブロシア酒造りに使う壺を持っていた。
ということは壺を入手したのは私と契約する前だろう。
私がウドやヴィートを知らないのも無理はない。
「アーベルよ、リーゼの契約者ということは魂霊だな? なら存在界のことはわかるかい?」
「ウドさん、こっちに移住してきたのがかなり前ですから、最近のことだと厳しいかもしれないです」
「知っていたらで構わないのだが、ヴィートの契約者が○○のあった場所が今どうなっているか知りたがっている。アーベルは知っているだろうか?」
○○というのは施設の名前だ。
私が二十代のころに取り壊されたというニュースを見たことがある。
跡地が何になったのかは知らないが、大体の場所はわかる。
存在界に出張する精霊に頼んで、写真を撮ってきてもらうくらいならできそうだ。
「やっぱりアーベルに聞いてもらって正解ね。近くに出張する精霊に頼んでみるわ。アーベル、後でどう頼んだらいいか教えて」
いつの間にかユーリが私のすぐ後ろに立っていた。
ユーリは○○という施設を知らなかったとのことで、知ってそうな私に聞いてみたらとウドに言っていたらしい。
「……魂霊というのも難儀だな」
今度はヴィートが口を開いた。
ウドと比較すると口数が少ないタイプのようだ。
「そうですね、魂霊は存在界に行くことができないですし……」
確かにヴィートの指摘通りだから、私としてもあまり言えることがない。
「見てくれは我々精霊と大差ないのにな。アイリス、何とかならんのか?」
ウドは面倒見の良い性格なのか、今度はアイリスに突っ込んできた。
人間を魔法で魂霊に変えるのは彼女など「精霊界移住相談所」の精霊の相談員だから、意見を言う先としては正しい。
「魂霊と精霊はもともと造りが違うからね。人間や魂霊は存在界と精霊界の両方に存在できるように造られていないのよ。両方に存在できるように造ると、私たち精霊が本性をさらけ出せる相手にならないし……」
アイリスがやれやれと両手を広げた。
なかなかうまくいかないものだ。
そう、精霊は精霊界と存在界を行ったり来たりできるが、魂霊は精霊界でしか存在できない。
これは「精霊は魔法を使うことができるが、魂霊は魔法を使うことができない」という精霊と魂霊の決定的な違いによるものだ。
「おお、ウドとヴィートか。スマン、遅くなった。ちょっと待っていてくれ」
いつの間にか人間用の入口から作業着を着た筋骨隆々の男が店内に入ってきていた。
背中には大きなリュックを背負っている。
「ヴァルター、来たか。待ってたぞ」
ウドが手を挙げた。
「ポテチとやらは入手できたのか?」
ヴィートはチラチラとヴァルターの背中のリュックを見ている。
なるほど、存在界から持ってくる荷物が目的だったか。
筋骨隆々の精霊ヴァルターが精神を集中すると、作業着姿から魔法使いのようなローブ姿へと変身した。魔法を使ったのだ。
この瞬間ヴァルターは精霊界用の身体になった。
存在界では魔法というと人間の力でなし得ない科学で説明不能な術とみなされているようだが、精霊界でいう「魔法」とは次のようなものだ。
「魔法」とは魔力を用いて自分や他者、物を精霊界の存在から存在界の存在へと変えること、またはその逆を行うことである。
ちなみに「魔法」以外の魔力を用いた作業はすべて「魔術」という。
「魔法」と「魔術」を区別するのは精霊にとって意味があるからだそうなのだが、私にはよくわからない。
ヴァルターは、自分の身体を存在界の存在から精霊界の存在へと変えたので、魔法を使ったことになるわけだ。
ちなみに魂霊や人間は魔法が使えない。
「アイリス、さっきのウドの質問の答えだけど、魂霊を人間に変えることについて聞かれたらどうするつもりだったんだ?」
私は敢えて小声でアイリスに尋ねた。
「できない、って答えたわよ。実際やろうとしても魂霊の存在が壊れて無に帰すだけだし、そんなことしたら契約した精霊があっという間に溢壊してしまうわ」
実はあまり知られていないことなのだが、魂霊を人間に戻そうとすると、アイリスの言う通りの事態となる。
だから精霊界でも公には「魂霊を人間に変える魔法はない」とされているのだ。
これを行った場合に生じる事態について知っているのは、「精霊界移住相談所」のメンバーと、実際にこうした場面を見たことのある数少ない精霊だけなのだ。
私は過去に半ば禁忌とされている魂霊を人間に変える魔法で起きた悲劇を知っているから、先ほどのウドの質問には安直に答えない方がいいとアイリスに警告したつもりだった。
アイリスもこの悲劇を知っているから、というよりも彼女の場合は限りなく当事者に近いからもう少し慎重になったほうが良いと私は思う。
ヴァルターは自分の身体を精霊界の存在へと変えた後、魔法で持ってきた荷物を次々に精霊界の存在へと変えていった。
荷物は菓子類と書籍が多く、わずかにゲームソフトが混じっている。
もちろん、ウドやヴィートが求めているポテチもある。
「おお! ユーリ、ポテチを大皿で出してもらえるか?」
ウドが待ちきれないといった様子でユーリに注文をいれた。
ヴィートも落ち着かないようで、ポテチの袋と厨房を交互に見ている。
「きゃっ! いたたたた……」
不意に「ケルークス」の店内に上半身裸で下半身が魚の姿の女性が降ってきた。
店や客にとっては運よく何もない床の上に落ちてきたので、降ってきた本人以外に被害はなさそうだ。
このように店内に精霊が降ってくることは時々あることなのだが、何とかならないかとは思う。
「こら、バネッサ! 何やっているのよ?!」
落ちてきた女性に向かってユーリが怒鳴った。
というのもバネッサという女性型の精霊が「ケルークス」の店内に降ってくるのは、私が居合わせたときだけで少なくとも五度目だからだ。
「ゴッメ~ン、またトラブっちゃったぁ。ちょっと待って」
バネッサが下半身を魚の姿から人の脚へと変えて立ち上がった。
彼女はセイレーンという歌を司る精霊だ。
存在界に出没すると声で男性を惑わせるという厄介な力を持っている。
ある程度力を抑えることも可能らしいのだが。
「ねえ、バネッサ、今回は何やったの?」
半ば呆れ、残りの半分は興味本位といった様子でアイリスが尋ねた。
バネッサを存在界に送り込んでいる責任者はアイリスなのだが。
「あははははっ、何かよくわからないんだけど、遊んでくれるって人の家に行ったら、ベランダから突き落とされちゃったんだよね~。面白かったからいいけど」
ケラケラ笑いながらとんでもないことを言っている。
もっとも、とんでもないと思う私の感覚が存在界に毒されているのかもしれない。
「バネッサ、何度目なのよ? 懲りないわねぇ。私もそういうの興味あるけどさぁ」
アイリスは呆れ顔だ。
「存在界で無用なトラブルを起こすのはどうかと思いますけど。精霊が存在界の人たちから警戒される原因になるような気がします」
聞いた話なので、バネッサが事実を言っていないのなら的外れな指摘にはなってしまうが、これは言っておいた方がよいだろう。
「でも、向こうから誘ってくるんだよねぇ。断るのも悪いかなぁ、って」
バネッサは悪びれることなくあっけらかんと言い放った。
このあたり、精霊と元人間であった私の感覚がかなり異なる部分なのだろう。
「そうねぇ、誘われるのなら要求には応えてあげるべきよね。私も契約を結んで、って誘ってくれるのなら喜んで応えるのに」
肝心なところでアイリスが脱線してきた。この責任者だからバネッサが未だに存在界に行くことができるということか。
アイリスはともかく、バネッサには悪びれる様子がない。
話を聞いている限りだととんでもなく人が好い (精霊なのだが)といった感じだ。
「今回はマンションの七階からだったから、ちょっと痛かったなぁ。それはそれで新鮮かも、なんだけど」
バネッサが人間が聞いたら卒倒しかねない台詞を堂々と吐いているが、このような感覚になるのも理由があるように思う。
精霊は精霊界で痛みを感じたり傷つくことはない。
だから精霊に寿命はないし、存在が失われることもない。
しかし、存在界に行った場合は別だ。
この場合、精霊は存在界で存在できるよう自分の存在を魔法で作り替える。
存在界用に作り替えられた精霊をこちらでは「妖精」と呼んでいるが、妖精は人間と区別がつかないものが多い。
普通に怪我もすれば痛みも感じるし、病気にもなる。
そして身体へのダメージが限界を超えれば、妖精は存在界で存在できなくなる。
存在界で存在できなくなった妖精は、精霊となって精霊界に戻されるのだ。
戻される場所は近くにある精霊界と存在界の境界になることが多い。
バネッサもマンションの七階から転落して存在界での存在を維持できなくなり、精霊界と存在界の境界となる「ケルークス」に精霊となって戻されてきたのだろう。
「バネッサは宣伝専業だから、また行ってくればいいじゃない。どうするの?」
どうやらアイリスにはバネッサの存在界行きを止める気がないようだ。
「ここでちょっと休んだら行ってくるね。ユーリ、冷たいウーロン茶をお願いね。あ、ポテチ入ったんだ。大皿でひとつ!」
バネッサが近くの空いている席に陣取った。
ティーブレイクを楽しんだら、再び存在界に出発する気らしい。
全然凝りていないんだなぁ、とこちらが感心してしまった。
いくらでもやり直しがきくと、こうなってしまうのかも知れない。
「はーい。今度は気を付けるのよ」
「わかっているって」
ユーリの忠告をとても理解しているとは思えない様子でバネッサが答えた。
近いうちにまた、ここにバネッサが降ってくるだろうな、と私は思った。
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