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第四章

人間時代のアーベル

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「アーベルさま。お姉ちゃんを連れてきました」
 リーゼがカーリンの手を引いてリビングに戻ってきた。
 私の人間時代の話を聞かせるために、リーゼにそう頼んだのだ。

「こっちはニーナを呼んだわよ。お茶の準備をするから待ってて、って」
 メラニーは一人で戻ってきた。
 遅れてニーナがやってきて、リビングを通り抜けてキッチンに入った。

 しばらくしてニーナがお茶のポットを載せたお盆を持ってリビングへと戻ってきた。
「準備できました。本日は貴重なお話をいただけると聞いて飛んで参りました」
 恭しく首を垂れるニーナを見て「そんな重大事じゃない」と私は思わず声をあげてしまった。

「そうかもしれないですけど、私もアーベルさんが人間だった頃の話はほとんど聞いたことがないですよ」
 カーリンがポットからカップにお茶を注ぎながら私の顔を覗き込んでいる。

「そうだな……何から話したらいいかよくわからないが、子供のころの記憶はあまりないから、仕事をするようになってから精霊界に移住を決めるまでの話でいいかい?」
 私が子供時代の話をしないのは記憶が曖昧なのと、私のパートナーたちが精霊だからだ。

 精霊は造られたときから精神、肉体共に成長することがないのだそうだ。
 そのため、成長過程にある人間の話をしても訳がわからないのではないか、と私は考えた。
 だからわかりやすい大人になってからの話をしようと思う。

「学校を出てニ四のときに就職したのだけど、最初の会社では書類の整理ばかりやっていたな……」
 私は一浪一留で大学を出て、中堅の計測器のレンタル会社に就職した。
 大学時代の専攻は生産工学だったのだが、あまり真面目に勉強してなかったので大手メーカーなどには就職できなかったからなぁ……

「書類の整理って、ゲームや本にはあまり出てこないお仕事ですね……」
 リーゼが首を傾げている。私のパートナーの中では一番存在界のことに詳しいが、情報の入手元がマンガやゲームに偏っているのでこうした地味な仕事はよく知らないのだと思う。

「出された書類がルール通り記入されているとかのチェックとか、ルールを守るために残さなきゃいけない記録を整理していたんだよ」
「なるほど。長老会議で記録を保管しておくとか、そんな感じのお仕事なのですね」
 リーゼが理解できたかどうかはわからないが、納得はしてくれたみたいだ。

「最初の会社には二年半いて飽きたので辞めて、次に入ったのは計測器の部品を作っている会社だったな。存在界に行っている妖精たちのような仕事を三年くらいしていたよ」
 精霊たちにはこの説明の方がわかりやすいが、正確にはWebサイトのメンテナンスをしていたのだ。
 妖精として存在界へ行く精霊たちは主に精霊界への移住の宣伝活動をしているから、私の説明もそんなにズレたものではないはずだ。

「妖精のような仕事って、宣伝のこと? アーベルはそういうのあまり好きじゃないと思ったけど」
 メラニーが意外そうな顔をしている。彼女は少し勘違いをしているようだ。
「宣伝そのものをしていたわけじゃない。宣伝のビラを人通りの多いところに貼ってくるような仕事だよ」
「あ、そうか。それならわかるわ」

「アーベルさんは計測器の検査をされていたのですよね? そのお話が全然出てこないような?」
「カーリン、検査員をしていたのはその次の会社なんだ。私のいた事業部が中堅の計測器メーカーに買収されたときに検査員になるか会社を辞めるか選べって言われたのでね」
 私が三〇のときに勤めていた部品メーカーの事業部が買収された。
 幸か不幸か買収した側は強力な宣伝チームを持っていたので、私のいたWebサイトの管理部署のメンバーは他部署に異動するか会社を辞めるかの選択を迫られることになった。
 たまたま最初の会社で社内の計測器を校正、すなわち計測器が正しく計測できているかを確認する仕事をしたことがあった私は検査員の仕事を持ち掛けられたのだ。

「そういうことなら検査員も悪くないと思ってね。こっちに移住してくるまでずっと検査員だったのさ。こう話すと大した話はないな……」
 こうやって話をすると驚くほど自分が存在界で何もしていなかったことに気付かされた。

 私が次に何を話そうかと頭を悩ませているところに、おずおずとニーナが手を挙げた。
「あの……お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「いいよ」
「アーベル様は存在界で……その……契約されていた方などはいらっしゃったのでしょうか?」
 ニーナが言いにくそうに尋ねてきた。
 他の三人がずいっと身を乗り出してきた。興味があるのか。

「存在界での契約というと結婚のことか。私は存在界では生涯独身でね、契約はカーリンとリーゼが初めてなんだ」
 事実そうだったのだが、私のパートナーたちは顔を見合わせて黙ってしまった。
 あれ? この話はしたことがなかったか?

「カーリンとリーゼには話していたと思ったけど……知らなかったっけ?」
 思わずカーリンとリーゼに尋ねてしまった。

「……私の勘違いかもしれませんけど、今日初めて聞いたような気がします……」
 リーゼがどこか自信なさげに答えた。
 記憶力に関しては私よりリーゼの方がしっかりしているだろう。ということは私が話していなかったのだな、と理解する。

「……そうか。それはすまなかった。正直なところ人間時代には浮いた話もなかったからね。カーリンとリーゼを紹介してもらうまでは契約相手がいるかどうかは半信半疑だったのだよ」
 実際、契約の相手が出てくるなど私は考えてもいなかった。
 形だけの紹介くらいはあるだろうと考えていたが、実際に契約することはまずないだろうな、くらいに考えていたのだ。

「……アイリスからアーベルさんを紹介してもらって本当に良かったです! あのときは私、溢壊していましたし……」
 カーリンが私の両手をがしっと取った。
「ありがとう。私は皆と契約出来て嬉しいし、これからも今までのように仲良く暮らしていきたいけどね」

「はい、アーベルさん!」
「アーベルさま、勿論です」
「私もだよ、アーベル」
「アーベル様……」
 何故かパートナーたちはみんなガシッと私の手を取りだした。

 しばらく妙な雰囲気になっていたが、ようやく落ち着きを取り戻して話を再開した。

「……申し訳ございません。アーベル様が存在界でパートナーと契約されたことが無いとは夢にも思っておりませんでしたので……」
 ニーナが平身低頭している。そこまでする必要はないと思うが……

「おかげで存在界にパートナーを残すことなくこちらに引っ越してこられたのだからね。その意味でも良かったと思っているよ」
 これは心からそう思っている。私の場合は精霊界に移住して本当に良かったと思う。

「ところでアーベルさま。アーベルさまは存在界でどのような遊びをされていましたか?」
 リーゼからの質問だ。存在界に対する興味は彼女が一番旺盛だ。

「ゲームや本は中学生の頃から遊んでいたな。大人になってからは旅行と食べ歩きか」
「チューガクセー?」
 私が予想もしていないところでメラニーが反応した。確かに学生という概念は精霊にはないので仕方ない。

「メラニー、人間は生まれてからしばらくの間、暮らしていくための方法を学ぶのです。中学生は学んでいる段階を示す言葉で十二歳から十五歳の段階のことを言います」
 リーゼの答えに私は感心した。精霊の感覚からするとそういう解釈になるのか、と。

「……そうか、なるほど。食べ歩き以外は今もやっていることなんだね」
「言われてみればそうだな。魂霊になっても人間のときとやることはあまり変わってないな」
 そうだ、仕事とかパートナーがいるという点は変わっているけど、それ以外は人間時代とあまり変わっていない。

「不躾な質問になると思いますが……アーベル様は今の暮らしを幸せに感じておりますでしょうか?」
 ニーナが不意にそう問いかけてきたが、この質問に対する答えは決まっている。
「勿論幸せさ。これからもよろしく頼むよ」

「絶対飽きさせないわよ。ドライアドのプライドに賭けても、ね。アーベルも飽きないでよ」
 メラニーがぎゅっと私の左腕を抱きしめた。
 ドライアドはパートナーを飽きさせないことに並々ならぬ情熱を持っているらしい。
 メラニーも例外ではなく、私を飽きさせないよう色々と手を尽くしてくれる。

「メラニー、わかった。私も同じだな。皆には笑っていてほしいから」
 私はいつまでも今の暮らしが続いてくれればと願ってやまない。
 パートナーには恵まれたし、精霊界の暮らしというのは私に合っている。
 あとはパートナーたちも幸せであってほしい。

「私はアーベルさまにもっと存在界のゲームや本を教えて欲しいです」
「わかった。ゲームは新しいシリーズを試してもいいかもな」
 リーゼの要望には割と簡単に応えられそうだ。
 今までは私が存在界で遊んでいたシリーズの続編だけを入手していたが、そろそろ新しいものに手を付けても良いかもしれない。

「アーベルさん、私は今まで通りお酒造りに付き合って欲しいのと、時々『ケルークス』に連れていって欲しいです」
「わかった。『ケルークス』へは月に一度くらいかな」
 カーリンの要望も簡単に実現できそうだ。

「ニーナは?」
「アーベル様、わ、わたくしは……趣味にお付き合いいただきたいです……」
 ニーナは服作りが好きで、自分で作った服を着るのも好きだ。これは見ている私の方が楽しい。

「もちろん。楽しみにしているよ」
「ありがとうございます!」
 ニーナが礼を言ってきたが、礼を言いたいのはこちらの方だ。

 人間から魂霊になり、存在界から精霊界へと住処を変えたけど、私は私で本質的には何も変わっていないようだ。
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