あやめ祭り～再び逢うことが叶うなら～

第二章

43．石黄（１）

　賢宝シアンバオが内廷に戻ってきたのは、戌いぬの刻をすぎたころだった。

　即位して六年。近頃は、皇太后が外廷にあらわれることも少なくなってきた。母親は、孫の誕生を機に摂政を辞し、千花チェンファに国母の教育をほどこしたいようだ。
　産まれてくる子供が男子と決まったわけではないのに、気が早いというべきか。しかし、賢宝シアンバオは周囲を散々待たせた自覚があるので、これは仕方がないかもしれない。

　英明インミン宮で初めて千花チェンファに会ったとき、可愛らしい方言と小動物のような顔立ちに賢宝シアンバオは一も二もなく陥落した。公務中も彼女のことが頭から離れず、戸部省に勇景海ヨンジンハイという兄がいると聞けば、早速呼び出した。助言に従い用意したボタンの簪かんざし。それが、あのぬばたまの髪に挿さるところを想像しただけで、頭がくらくらした。
　幾千の官吏を前にしても臆することはないのに、小さな宮女相手に緊張で言葉がでてこない。そんな自分をわらう余裕もなかった。
　その彼女が今子供をはらんで、賢宝シアンバオをこの上ない幸福に導いてくれる。彼にはまるで奇跡のような結末だった。
　　　
　すべてが順風満帆と思った矢先、黄恵嬪ホワンけいひんが自ら毒をあおった。気丈な彼女が自殺を図るなどありえない。仔細を聞くために、内侍長を乾清チェンチン宮に待たせておいたが、そこには千花チェンファの姿もあった。

「陛下。何かあったのですか？　女官や内侍もピリピリして、後宮全体の空気が張りつめています」

　何も知らされていないとみえ、肩にかかる被帛ひれを心細げに握りしめている。賢宝シアンバオは彼女を座所に座らせ、卓子をはさんだ隣に腰を下ろした。

「余も詳しいことは分からぬ。内侍長の報告を聞こうか」
「……はい」

　気が付くと、白髪交じりの内侍監が千花チェンファに物憂げな視線を送っているではないか。黄ホワン恵嬪、毒、千花チェンファ。話がみえてきた賢宝シアンバオは、じぶんの胸に怒りの炎がともるのを感じた。
　内侍長が床に膝をつき、拱手こうしゅをする。

「本日未ひつじの刻、長福宮にて王ワン貴妃様が七人の側室様を招きました。その席で、永華ヨンファ宮のそばの井戸に石黄せきおうの粉を投与するよう、もちかけたのです」

　思った通りの展開に、賢宝シアンバオは紫壇の卓を爪で叩いた。びっくりした千花チェンファが身を乗り出してくる。

「陛下、セキオウとはなんですか？」
「皮膚炎の治療薬や黄色の顔料として使われるが、ヒ素という猛毒が含まれている。誤って口にする事故が続いたため、今は宮中で使用を禁止している」

　それを聞かれた彼女は、一気に青ざめた。無理もない。他の妻たちが自分に毒を盛ろうと画策したことを聞かされ、背筋が凍る思いであろう。

「王ワン貴妃様はその毒が何であるか知りませんでした。ただ、勇ヨン安嬪様の具合が一時的に悪くなり、そのあいだ他のお妃様へのお通いが再開することを期待したようです。黄ホワン恵嬪様は招かれませんでしたが、宮女に扮して潜入され、お妃様方の前で石黄をあおられました」
「溪蓀シースン様が毒を吞まれたのですか！？」

　千花チェンファが腰を上げたので、賢宝《シアンバオ》は卓に置かれた小さな手を握りしめた。彼女はすぐにでも、英明インミン宮目掛けて走り出しかねなかったのだ。

「恵嬪は、毒と知って飲んだのか？」
「ご本人は呑んだ振りをして、倒れるおつもりだったようです」
　
　千花チェンファには特別に毒見役を付けているから、簡単に毒を盛ることは出来ない。主犯は側室たちに日を分けて少量ずつ井戸に投与させることで、彼女に慢性的な中毒を起こさせ自然死にみせかけようとした。
　千花チェンファが胎の子とともに死ねば、側室たちは自分たちの罪を知る。負の連帯感が後宮を包み、日常的に陰謀や暗殺が横行する。彼女たちは自分に火の粉が降りかからぬように、見て見ぬ振りをするようになるだろう。黄ホワン恵嬪は側室たちに分かりやすい警告を見せ、それを未然に防いだ。彼女の行動は早計であったが、間違いでない。ただ、王ワン貴妃同様、毒を軽視していた。