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第二章
44.石黄(2)
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賢宝《シアンバオ》の怒りは、沸点にたっしようとしていた。姉同然の黄恵嬪の命はいまや風前の灯火。千花に毒を盛ろうと一瞬でも賛同した妃たちをいかようにしようとも、自分ならば許される。衝動的な感情に支配されそうになり、眼をつむった。
――暗君になりたいのか? 理で治めろ。
自分の気が晴れても、同時に取り返しのつかないほどの信頼を失う。しかし、念じてもなかなか冷静になれず、すがる思いで千花の指を撫でた。すっと怒りが収まる。
頃合いを見計らっていた内侍長が、静かな声で話を再開した。
「皇太后さまのご命令により、王貴妃様は牢にうつされ、側室様方は各宮にて謹慎中でございます」
「あい、分かった。貴妃は石黄の出どころについて白状したか?」
「名前も知らぬ宮女から、手渡されたそうです」
「……やけに警戒心がないな」
それは、千花をいじめた崔瞳絹の件を彷彿とさせる。あれも金を渡された相手の顔を見ていなかった。だが、内侍長は言いにくそうに背中を丸めたのだ。
「閨ごとの指南を受けただけで、どこの誰とも知らぬとのことでした」
ああ、と賢宝《シアンバオ》は納得した。王貴妃はおそらく宮女の技にほだされて、冷静な判断を失くしてしまったのだ。過去の歴史を振り返って、皇帝に放置された妃が女官や宦官に慰めを見出すことは珍しくなかった。
「貴妃は浅慮なところもあるが、裏表のない女で嘘はつかぬはずだ。その宮女とやらを一刻も早く探せ。石黄の入手経路もおのずと知れるだろう」
「御意にございます」
「恵嬪の様子はどうだ?」
「嘔吐と下痢がおさまり、今は発疹と意識混濁が続いています。しかし、毒のすべてが排出されたかは分からず、お命の保証はできないと、医務官から報告を受けています」
「慣例通りにすれば、恵嬪はどうなる?」
内侍長は深く頭を下げた。
「残念ながら、ヒ素は猛毒です。慣例通りならば、あとは内侍で処理いたします。ご遺体は、両親のもとに返されることになり、英明宮には新しい恵嬪様が入内します」
それを聞いた千花が、短く叫んだ。賢宝《シアンバオ》は、「よい、続けろ」と先を促す。
「……陛下がおのぞみでしたら、黄恵嬪様を御陵に埋葬いたします。――ですが、今は医女に最善を尽くさせます。陛下と勇安嬪様のためにも」
「そうか。ご苦労だった」
内侍長が一礼して去ると、千花は黙って立ち上がった。賢宝《シアンバオ》が握りしめていた手は、無情にも振り払われる。
「どこへ行く?」
あおぎみた顔は、焦燥、怒りといった様々な感情をはらんでいた。普段は鈴のように響く声が、賢宝《シアンバオ》が不安になるほど硬かった。
「溪蓀様のもとにまいります。せめて、お顔だけでも拝見しとうございます」
「英明宮は医女以外入れぬぞ。専属の女官や宮女さえも締めだしている有様だ」
「溪蓀様は、わたしのせいで毒を飲む羽目におちいったのです。ここでじっとしておけとおっしゃるのですか?」
「恵嬪は自分の身を挺して、そなたを守ったのだ。おとなしくしておれ。恵嬪には、医女に代わり内侍たちが付きそうから心配は無用だ」
すると、千花は目をむいて感情を荒げた。
「遺体を片付けるために用意させた者達に念入りな看病をする気があると思いますか? それに、内侍は元は男性ではありませんか。誰でも良いというなら、わたしに看病をさせてください!」
「駄目だ。身重のそなたが、『死』に近寄ってはならぬ」
千花はその言葉を無視し、侮蔑をこめて夫をにらんだ。やがて、小作りな肩を怒らせて、部屋を去っていく。
「陛下」
控えていた丁内侍が御簾の向こうから姿を現した。追うなら自分が連れ戻すとその顔に書いてあったが、賢宝《シアンバオ》は頭を振る。
「放っておけ、游莞。千花は、ああ見えて梃子でも動かぬ頑固者だ。余の言葉に従わぬなら、あとは力ずくしかない。余はそれを望んでおらぬ」
「御意にございます」
深々と礼をとる丁内侍を前に、賢宝《シアンバオ》は仰いだ顔を両手でおおった。
――暗君になりたいのか? 理で治めろ。
自分の気が晴れても、同時に取り返しのつかないほどの信頼を失う。しかし、念じてもなかなか冷静になれず、すがる思いで千花の指を撫でた。すっと怒りが収まる。
頃合いを見計らっていた内侍長が、静かな声で話を再開した。
「皇太后さまのご命令により、王貴妃様は牢にうつされ、側室様方は各宮にて謹慎中でございます」
「あい、分かった。貴妃は石黄の出どころについて白状したか?」
「名前も知らぬ宮女から、手渡されたそうです」
「……やけに警戒心がないな」
それは、千花をいじめた崔瞳絹の件を彷彿とさせる。あれも金を渡された相手の顔を見ていなかった。だが、内侍長は言いにくそうに背中を丸めたのだ。
「閨ごとの指南を受けただけで、どこの誰とも知らぬとのことでした」
ああ、と賢宝《シアンバオ》は納得した。王貴妃はおそらく宮女の技にほだされて、冷静な判断を失くしてしまったのだ。過去の歴史を振り返って、皇帝に放置された妃が女官や宦官に慰めを見出すことは珍しくなかった。
「貴妃は浅慮なところもあるが、裏表のない女で嘘はつかぬはずだ。その宮女とやらを一刻も早く探せ。石黄の入手経路もおのずと知れるだろう」
「御意にございます」
「恵嬪の様子はどうだ?」
「嘔吐と下痢がおさまり、今は発疹と意識混濁が続いています。しかし、毒のすべてが排出されたかは分からず、お命の保証はできないと、医務官から報告を受けています」
「慣例通りにすれば、恵嬪はどうなる?」
内侍長は深く頭を下げた。
「残念ながら、ヒ素は猛毒です。慣例通りならば、あとは内侍で処理いたします。ご遺体は、両親のもとに返されることになり、英明宮には新しい恵嬪様が入内します」
それを聞いた千花が、短く叫んだ。賢宝《シアンバオ》は、「よい、続けろ」と先を促す。
「……陛下がおのぞみでしたら、黄恵嬪様を御陵に埋葬いたします。――ですが、今は医女に最善を尽くさせます。陛下と勇安嬪様のためにも」
「そうか。ご苦労だった」
内侍長が一礼して去ると、千花は黙って立ち上がった。賢宝《シアンバオ》が握りしめていた手は、無情にも振り払われる。
「どこへ行く?」
あおぎみた顔は、焦燥、怒りといった様々な感情をはらんでいた。普段は鈴のように響く声が、賢宝《シアンバオ》が不安になるほど硬かった。
「溪蓀様のもとにまいります。せめて、お顔だけでも拝見しとうございます」
「英明宮は医女以外入れぬぞ。専属の女官や宮女さえも締めだしている有様だ」
「溪蓀様は、わたしのせいで毒を飲む羽目におちいったのです。ここでじっとしておけとおっしゃるのですか?」
「恵嬪は自分の身を挺して、そなたを守ったのだ。おとなしくしておれ。恵嬪には、医女に代わり内侍たちが付きそうから心配は無用だ」
すると、千花は目をむいて感情を荒げた。
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「駄目だ。身重のそなたが、『死』に近寄ってはならぬ」
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「陛下」
控えていた丁内侍が御簾の向こうから姿を現した。追うなら自分が連れ戻すとその顔に書いてあったが、賢宝《シアンバオ》は頭を振る。
「放っておけ、游莞。千花は、ああ見えて梃子でも動かぬ頑固者だ。余の言葉に従わぬなら、あとは力ずくしかない。余はそれを望んでおらぬ」
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