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第三十四話 「毎日少しずつ壊れている」

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 夢の中で、場面が替わる。
 あれはたしか、ラウリが十四歳の夏休み明けのことだった。
 寄宿学校に戻るため、ピエティラ侯爵邸の馬車寄せでウーノを待っていた。ラウリはピエティラ侯爵邸に入る許しを得ていない。かれこれ約束の時刻から一時間たっているが、ウーノは一向に現れる様子がなかった。
 
 ウーノのお目付け役になってから二年たつが、天使のように愛らしい主人の本性が実はクズじみていることは嫌というほど身に染みた。またろくでもない理由で、自分は待たされているに違いない。
 そのとき、ウーノの兄のジュリアンがエントランスから出て来た。十九歳のピエティラ侯爵はウーノと同じくらいキラキラした顔立ちをしていたが、病気がちのせいか生地の薄い陶器人形のような印象を受ける。
 
「おはようございます。旦那様」

 ラウリは、胸に手を当て臣下の礼をとった。
 
「おはよう、ラウリ君。いつもウーノの面倒を見てもらって悪いね」
「いいえ。滅相もありません」
「弟はまだ支度が済んでいないんだ。ラウリ君、少し私と話をしないかい?」

 ウーノの侍従の自分が否と言えるはずもなく、当然のように歩きだしたジュリアンのあとをついて行く。何度か顔を合わせたが、こんなことは初めてだった。短い夏を満喫するための東屋で、サンドイッチとジュースを振る舞われる。育ち盛りの胃を刺激されたが、ラウリは本来当主と向かい合って食事ができる立場ではなかった。
 
「君はお母君のことを覚えているかい?」

 いきなり振られた話題に、心臓が止まりそうになる。ラウリは平常心をかき集め、何とか答えた。
 
「いいえ、覚えていません」

 いいや、覚えている。この建物を仰ぐたびに、母の死に顔が脳裏に浮かぶ。幼いラウリを捨て、先代の侯爵の愛人になった母親。亡き父を裏切り侯爵との間に子どもまで儲け、何の断りもなく死んだ。ラウリは誰にも打ち明けられないまま、ずっと母への恨みを抱き続けてきたのだ。
 そんなラウリをジュリアンはじっと観察していたが、長い足を組んで紅茶を口に含む。

「君はエサイアスに会ったかい?」
「はい。神学校へ向かわれる前にお会いしました」

 夏休みに入りウーノを屋敷へと送ったあと、この馬車止めのところで出会った。宗教画に描かれているような天使そのもの。六歳の美少年はブレザーと半ズボンを穿いた貴族の子弟の装いをしていたが、将来はトンスラ頭の坊様になると確定している。聖職者は一生童貞で、子どもを持つことも許されない。そう思えば哀れだ。侯爵家の庶子に生まれたのは、この子どものせいではないのに。親の罪は、親が被るべきなのに。
 膝をついて挨拶したラウリを、エサイアスはガラス玉みたいな碧い瞳でのぞき込んできた。

『パヤソン? ぼくを産んだひとが、その前に産んだひとですか?』

 子どもらしくはないが大人のようだとは言えない、奇妙な話し方。それを聞いた瞬間、ラウリはどうしようもない怒気に襲われた。エサイアスは母の命と引き換えに生まれたのに、何故まるで知らぬ人間のように母を語るのだ? 子どもに母親の記憶がないのはわかっているのに、ラウリは爪が皮膚を傷つけかねない勢いで拳を握った。顔だけ柔らかな表情を作る。
 
『そうです、エサイアス様』
『ぼくたち、あまり似ていませんね』
 
 ちょうど神学校に向かう馬車が来て、会話はそれっきり。あっけない兄弟の邂逅だった。そのときのことを思い出して、ラウリはへたり込むような虚脱感に襲われる。夏の生暖かい風が、彼の前髪を撫でた。

「あの子は、少し変わっているんだ」
 
 そう言ったジュリアンが優雅にカップをソーサーに戻すと、こちらからもそのカップの中身がよく見える。液体はローズヒップ系なのか赤みがかっていた。どうしてか、ラウリにはそれが赤い血に見えて、胃の底がぞっとする。
 
「君の父君は何度も私の父の命を救い、最期は父を庇って亡くなったそうだね」
「臣下なら当然のことです」
「素晴らしい父君だ。その忠義、わが家門の誉れだ」
「もったいないお言葉にございます」

 そのとおり。会ったこともない父は、母親のことで挫けたラウリには唯一の誇りだ。自分によく似ていたという父親。ハンサムなムードメーカーで、誰からも慕われていたそうだ。よもや、自分が命と引き換えに救った主君の愛人に、いづれ妻が収まるとは考えていなかったはず。ラウリは平静を保とうと、手のひらを口に当てる。

「君に謝らなくてはいけないことがある」
「謝らなくてはいけないこと……?」

 ラウリはこれ以上の苦しみは要らないと拒否したい気持ちでいっぱいだった。どうも、ジュリアンに見つめられると嫌な汗が出る。

 ――この人、苦手だ。
 
「当時、母はパヤソン夫人が一刻も早く家に帰りたがっていることに気が付かなかった。てっきり、彼女が望んで父の愛人になったと思い込んでいたんだ。本当は乳母の任期が明けて帰り支度を急ぐ彼女を、父は無理やり別邸に秘密裏に監禁し、同意も得ずにエサイアスを妊娠させた」

 ジュリアンの声は決して大きくはなかったが、破壊力は絶大だった。ラウリの全身から熱という熱が奪われ、手足は感覚を失う。

 ――この人は、何を言ってるんだ?

 凍り付いたラウリの視線を浴びながら、ジュリアンは淡々と言葉を重ねる。
 
「母は、六歳の君に夫人への見当違いな不満を聞かせてしまったことを今でも後悔している。どうか許してやってくれないだろうか?」

 何をどう許してくれと? 侯爵夫人が母を罵ったことをラウリが許そうとも、本当の罪の前では無意味なことだ。前のピエティラ侯爵がラウリの母親を無理やり犯して果てに死なせてしまった事実はどうしようもない。だから、ラウリは捨て鉢になった。
 
に許す許さないの権利はあるんでしょうか?」

 ジュリアンは、陶器人形のような面に酷薄さをしのばせる。
 
「まさにそうだね、君は使用人の一人にすぎず、わたしはこの家の主だ。だが、わたしにも良心はある」

 ピエティラ侯爵は一見儚い美しさを漂わせながら、実は腐った水のような匂いがする相手だった。彼は続ける。
 
「母はパヤソン夫人と姉妹のように仲良くしながら、一方で夫人の美しさを嫉んでいた。そして、夫人が父の愛人になったことで、その関係が脆くも崩れさってしまったんだ。父は外見だけは完璧だったから『自分たち二人は愛し合っている』と言われれば、容姿に自信のない母は引き下がるしかなかった。変わり果てた夫人の葬式以来、母は罪悪感に打ちのめされて、毎日少しずつ壊れている」

 ラウリは、ウーノの母親が壊れよう壊れまいが関心がなかった。そんなことより、ラウリの母親がラウリを捨てたわけではないこと問題だった。死ぬ寸前まで、彼に会いたがっていた。なのに、ラウリは母のことを誤解して嫌悪して憎み続けた。それも六年。何を、どう考えていいのか分からない。長年抱き続けた母への憎しみがまさか見当違いだったとは。
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