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最終話 「アンにとって兄さんが土なら、僕は水と風と光になります」
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「地元の名士を招いて、ささやかな慰労パーティをすることにしました。ぜひ来てくださいね」
エサイアスが招待状を持ってきたのは、この寒い土地にも短い春がやってきたころだった。
アンニーナが小さい頃からずっと夢見ていた桃色のドレス。ハイウエストのモスリン生地で、髪は緩やかな夜会巻きに結われている。白いデコルテを飾るのは光り輝く真珠のネックレスだ。
今、アンニーナは伯爵の城の化粧部屋で女性たち囲まれて、メイクや爪の手入れをしている。
「アンニーナちゃん、春の妖精みたいよ」
「可愛いねぇ。女性の髪を結うなんて、先の領主様のお母様以来だよ」
「あ、ありがとうございます。こんなに綺麗にしていただいて光栄です」
誉めそやされて、アンニーナは恐縮してしまう。鏡の向こうから、小柄で痩せ気味の女性がこちらを凝視していた。ハシバミ色の大きな瞳が印象的だ。華やかな装いをした彼女は満ち足りて幸せそうだ。
アットホームな使用人たちと入れ違いに、ラウリとエサイアスが入ってきた。二人とも髪を整え盛装して、いつも以上の二枚目を演出している。ラウリが愛おし気に、アイスブルーの瞳を細めた。
「可愛いな。よく似合ってる」
「あなたもステキです。こんなに可愛いドレスを贈ってくださって、ありがとうございます」
アンニーナが柔らかく笑うと、反対側からエサイアスが黄金の髪を揺らして覗き込んでくる。
「アン、僕はどうです?」
「エサイアス様も、もちろんステキですよ」
「次のパーティでは、僕がドレスを贈りますからね」
ラウリは野性的な官能美を纒い、エサイアスは神秘的な輝きに包まれていた。一人で立っているだけでも目が離せないのに、二人揃うと直視できないぐらい眩しい。そんな二人に愛されている自分の身が、まるで現実ではないように感じた。
――夢だったりして。
夢なら、いっそ自分が死ぬまで冷めないで欲しい。それにしても、とアンニーナは二人を見比べた。
――どうしてかしら? 今日は一段と二人が似ているように感じるわ。
おそらく服装のせいだ。エサイアスはジャケットとブリーチズ姿で、ラウリは軍服を着ているが、同じ藍色の生地で仕立てられている。エサイアスはピエティラ侯爵家の紋章である雄鹿をジャケットに、ラウリはパヤソン家の紋章である狼と鎖をマントに、それぞれ金糸で刺繍してあった。
アンニーナにはラウリの髭剃りをした日から、ことあるごとに二人が重なって見える。彼女のもの問いたげな視線に何を思ったのか、エサイアスが春の男神に劣らぬ微笑を浮かべた。
「そろそろ行きましょう。アン」
「ほら、行くぞ」
「は、はい」
二人がそれぞれ反対側の手を出す。アンニーナはドキドキしながら、ラウリの左手とエサイアスの右手を握った。誰もいない廊下をエスコートされながら進む。おかげで、高いヒールを履いていても転ぶことだけはなさそうだ。そのうえ、二人の手はどちらも彼女の手より冷たくて、緊張した心を落ち着かせてくれる。
ホールの扉の前で、エサイアスはラウリにアンニーナを委ねると、控える侍従たちに扉を開けさせた。伯爵家のホールは春の花が飾られ、思い思いのお洒落をした招待客たちが伯爵の挨拶を待っている。みな、アンニーナが知っている街や村の人たちだ。
「お集りの皆さん。本日は僕が主催する初めてのパーティに足を運んでくださり、ありがとうございます」
わぁっ! と若き美貌の伯爵を迎えて盛大な拍手が湧く。
「僕が来て間もなく、この平和なクルマラ伯爵領で思わぬ事件がありましたが、皆さんの助けがあって無事に解決できました」
エサイアスが胸に手を当て、事件のことを悼む。皆もそれにならって哀悼の意を表した。
先の領主が内縁の妻に階段から落とされ亡くなり、罪の意識から『修道士の眠り』を使用した内縁の妻が、妄想から人を操ってラウリの殺害を計画し、それが失敗に終わるや彼の妻のアンニーナを攫って見せしめに殺そうとした事件だ。エサイアスはその悲しい出来事を公表した。さすがに先の領主とその内縁の妻が『修道士の眠り』を王都で売り捌いたことや、現在の領主が『修道士の眠り』の製造者であることは内緒だが。
「改めて、今回の事件の功労者を紹介します。ラウリ・パヤソン補佐官とアンニーナ夫人です。お二人に拍手を!」
人に注目されることの少ないアンニーナは、ひきつった笑顔で喝采を受けた。ラウリの大きな手がそっと腰に回り、大丈夫だと支えてくれる。
「この場を借りて、僕はあることを発表します。皆さんも早くごちそうに手を付けたいでしょうが、もうすこしお時間を頂きますね」
エサイアスの冗談に、ホールでは笑いのさざ波が広がる。招待された子供たちは、それぞれのテーブルへと並べられた料理に興味津々なのだ。ラウリが助けた金物屋の子どもたちは今にもイチゴのショートケーキに指を突っ込みそうだった。若い両親が子供たちの両手を必死に掴んでいる。
エサイアスが突然、長身のラウリの肩を抱かんばかりの勢いで片手をあげ、皆の注目を集めた。
「僕とパヤソン補佐官を見比べてください。いずれも劣らぬ美男子ぶりでしょ? 僕の方が若い分、どうしても魅力では勝ってしまいますが」
ホールが再びどっと笑いに沸いた。皆は口々に言いあう。
「自分で言うかな? 領主様」
「あのお顔なら仕方ないよ。それにしても、お二人の恰好、今日はやけに似ていないかい?」
「ほんとうだ! 領主様と補佐官さん、よく似てるね!」
「顔もどことなく……? お二人はご親戚なのかな?」
「まさか! お貴族様と庶民だよ! そんなことあるわけ……」
エサイアスは招待客の反応に、にこにこと笑顔を浮かべた。アンニーナもそう思っていたところなので、彼が何を話すのかとても興味が惹かれる。
「みなさん、いい線いってますよ。それでは、真相をお話しましょう。――僕たちは、父親違いの兄弟なんです」
その発言は、ホール全体を驚きと興奮が包んだ。今日一番の騒がしさだ。
「え? え?」
アンニーナの視線も、隣のラウリと少し前にいるエサイアスの間をせわしなく行き来する。二人とも微塵もそんな空気を漂わせていなかったのに。
――ラウリのお母さんが前の侯爵様に監禁されたとき、エサイアス様を妊娠したということかしら?
晴天の霹靂というものだ。しかも、お互いの話を聞いているアンニーナには驚きだけではすまなくて、二人の関係はみるからに複雑そうでどう反応していいのか困る。
そして、少しばかり学のある人なら、この発表にどんな意図があるか考えるだろう。私生児の存在は貴族にとって醜聞で夫人の実子として育てるか、あるいは母親に手切れ金を渡して母子ともに縁を切るかのどちらかだ。一般に公表して得をすることはない。
――どうして、エサイアス様は公にしたのかしら?
当の伯爵は天使の微笑をたたえ、ラウリも営業スマイルを浮かべている。ただし、夫は若干頬の筋肉をひくひくさせていたが。
驚きと興奮から始まった慰労会もその後は落ち着いて、招待客は思い思いに楽しんでいる。先代の伯爵の頃にはなかったこのパーティが、これから度々催されることを誰しもが願ったことだろう。
アンニーナが一通り挨拶を済ませバルコニーで一人涼んでいると、多忙なはずの伯爵がグラスを差し出してきた。
「会場の熱気で、喉が渇いたでしょう?」
「エサイアス様、……ありがとうございます」
衝撃的な話を聞いた直後で、そのことに触れていいのか分からないし、かける言葉も見つからない。アンニーナの逡巡に気づいたのか、伯爵は美しい口角を上げた。
「驚きましたか?」
「はい……とても」
これ以上は何も言えない。そんな彼女に、エサイアスはグラスを目線まで掲げてみせる。
「アンは優しいですね。とりあえず、僕とアンの喜ばしい出会いに乾杯しましょう」
アンニーナも倣ってグラスを持ち上げ、『乾杯』と声をかける。冷たいレモネードは乾燥した喉を潤してくれた。エサイアスと初めて会った時に、飲んだものと同じ味がする。彼女は伯爵との出会いを思い出しながら、夜空を見上げた。
「エサイアス様のお立場が悪くなるのではないのかと心配です」
「この土地で暮らしている以上、なにも不都合はないですよ。社交シーズンに王都へ行くつもりもないので、他の貴族に会うことはないでしょう。何かあれば、ウーノ兄さんが教えてくれますし」
「でも……」
適齢期のエサイアスが社交シーズンに王都へ行かないというのは、彼が妻を娶る気がないということだ。それはつまりアンニーナに貞操を捧げているからで、そう考えると罪悪感にかられる半面嬉しさで胸が熱くなってしまう。
「今回のことは、二人で話し合って決めたんだ」
耳当たりの良いバリトンボイスに振り向くと、ラウリが果物やサンドイッチを盛った皿をアンニーナに差し出してきた。
「昼から何も食べてないだろ。少しは腹に入れておけよ」
アンニーナは夫にお礼を言い、皿を受け取る。言われてみれば、お腹が空いているような気もした。二人とも今日の主役で忙しいのに、自分のことまで気にかけてくれる。こういう気遣いを受けるたびに、アンニーナの心に愛情の芽が吹いていつか満開の花でいっぱいになりそうな予感がした。幸せになりすぎて、怖い。
もしかして、とエサイアスのほうを向く。
「今日の発表は、わたしのためですか?」
すると、彼には珍しい、ミステリアスな微笑みを浮かべた。
「こうしておけば、僕がちょくちょくアンの家に通っても『美しき兄弟愛』とうけとられるだけですからね」
「何が、美しきだ。喜色悪い。おまえがうちに来なければいいだけだろ」
「ふふ。兄さんにもし万が一のことがあってもアンには僕がいますから、その点は安心して職務に邁進してください。頼りにしていますよ、補佐官」
ラウリの露骨にイヤそうな態度に、エサイアスはいっそう笑みを深ませる。『こいつは意図的に万が一を演出して、俺を殉職させかねない奴だ』とラウリに血の気を引かせたが、そんなことはアンニーナにはわかりっこなかった。
「アンにとって兄さんが土なら、僕はあなたの水と風と光になります」
「おまえの役割、多すぎないか?」
エサイアスは、ラウリの突っ込みを意図的に無視した。
「さあ、戻りましょうか。そろそろパーティを締めて、僕たちも愉しまないと」
意味深な言葉に、彼女の胸の内が熱くなる。二人に手を伸ばされ、アンニーナは躊躇いなく片方ずつ同時に手を添えた。
エサイアスが招待状を持ってきたのは、この寒い土地にも短い春がやってきたころだった。
アンニーナが小さい頃からずっと夢見ていた桃色のドレス。ハイウエストのモスリン生地で、髪は緩やかな夜会巻きに結われている。白いデコルテを飾るのは光り輝く真珠のネックレスだ。
今、アンニーナは伯爵の城の化粧部屋で女性たち囲まれて、メイクや爪の手入れをしている。
「アンニーナちゃん、春の妖精みたいよ」
「可愛いねぇ。女性の髪を結うなんて、先の領主様のお母様以来だよ」
「あ、ありがとうございます。こんなに綺麗にしていただいて光栄です」
誉めそやされて、アンニーナは恐縮してしまう。鏡の向こうから、小柄で痩せ気味の女性がこちらを凝視していた。ハシバミ色の大きな瞳が印象的だ。華やかな装いをした彼女は満ち足りて幸せそうだ。
アットホームな使用人たちと入れ違いに、ラウリとエサイアスが入ってきた。二人とも髪を整え盛装して、いつも以上の二枚目を演出している。ラウリが愛おし気に、アイスブルーの瞳を細めた。
「可愛いな。よく似合ってる」
「あなたもステキです。こんなに可愛いドレスを贈ってくださって、ありがとうございます」
アンニーナが柔らかく笑うと、反対側からエサイアスが黄金の髪を揺らして覗き込んでくる。
「アン、僕はどうです?」
「エサイアス様も、もちろんステキですよ」
「次のパーティでは、僕がドレスを贈りますからね」
ラウリは野性的な官能美を纒い、エサイアスは神秘的な輝きに包まれていた。一人で立っているだけでも目が離せないのに、二人揃うと直視できないぐらい眩しい。そんな二人に愛されている自分の身が、まるで現実ではないように感じた。
――夢だったりして。
夢なら、いっそ自分が死ぬまで冷めないで欲しい。それにしても、とアンニーナは二人を見比べた。
――どうしてかしら? 今日は一段と二人が似ているように感じるわ。
おそらく服装のせいだ。エサイアスはジャケットとブリーチズ姿で、ラウリは軍服を着ているが、同じ藍色の生地で仕立てられている。エサイアスはピエティラ侯爵家の紋章である雄鹿をジャケットに、ラウリはパヤソン家の紋章である狼と鎖をマントに、それぞれ金糸で刺繍してあった。
アンニーナにはラウリの髭剃りをした日から、ことあるごとに二人が重なって見える。彼女のもの問いたげな視線に何を思ったのか、エサイアスが春の男神に劣らぬ微笑を浮かべた。
「そろそろ行きましょう。アン」
「ほら、行くぞ」
「は、はい」
二人がそれぞれ反対側の手を出す。アンニーナはドキドキしながら、ラウリの左手とエサイアスの右手を握った。誰もいない廊下をエスコートされながら進む。おかげで、高いヒールを履いていても転ぶことだけはなさそうだ。そのうえ、二人の手はどちらも彼女の手より冷たくて、緊張した心を落ち着かせてくれる。
ホールの扉の前で、エサイアスはラウリにアンニーナを委ねると、控える侍従たちに扉を開けさせた。伯爵家のホールは春の花が飾られ、思い思いのお洒落をした招待客たちが伯爵の挨拶を待っている。みな、アンニーナが知っている街や村の人たちだ。
「お集りの皆さん。本日は僕が主催する初めてのパーティに足を運んでくださり、ありがとうございます」
わぁっ! と若き美貌の伯爵を迎えて盛大な拍手が湧く。
「僕が来て間もなく、この平和なクルマラ伯爵領で思わぬ事件がありましたが、皆さんの助けがあって無事に解決できました」
エサイアスが胸に手を当て、事件のことを悼む。皆もそれにならって哀悼の意を表した。
先の領主が内縁の妻に階段から落とされ亡くなり、罪の意識から『修道士の眠り』を使用した内縁の妻が、妄想から人を操ってラウリの殺害を計画し、それが失敗に終わるや彼の妻のアンニーナを攫って見せしめに殺そうとした事件だ。エサイアスはその悲しい出来事を公表した。さすがに先の領主とその内縁の妻が『修道士の眠り』を王都で売り捌いたことや、現在の領主が『修道士の眠り』の製造者であることは内緒だが。
「改めて、今回の事件の功労者を紹介します。ラウリ・パヤソン補佐官とアンニーナ夫人です。お二人に拍手を!」
人に注目されることの少ないアンニーナは、ひきつった笑顔で喝采を受けた。ラウリの大きな手がそっと腰に回り、大丈夫だと支えてくれる。
「この場を借りて、僕はあることを発表します。皆さんも早くごちそうに手を付けたいでしょうが、もうすこしお時間を頂きますね」
エサイアスの冗談に、ホールでは笑いのさざ波が広がる。招待された子供たちは、それぞれのテーブルへと並べられた料理に興味津々なのだ。ラウリが助けた金物屋の子どもたちは今にもイチゴのショートケーキに指を突っ込みそうだった。若い両親が子供たちの両手を必死に掴んでいる。
エサイアスが突然、長身のラウリの肩を抱かんばかりの勢いで片手をあげ、皆の注目を集めた。
「僕とパヤソン補佐官を見比べてください。いずれも劣らぬ美男子ぶりでしょ? 僕の方が若い分、どうしても魅力では勝ってしまいますが」
ホールが再びどっと笑いに沸いた。皆は口々に言いあう。
「自分で言うかな? 領主様」
「あのお顔なら仕方ないよ。それにしても、お二人の恰好、今日はやけに似ていないかい?」
「ほんとうだ! 領主様と補佐官さん、よく似てるね!」
「顔もどことなく……? お二人はご親戚なのかな?」
「まさか! お貴族様と庶民だよ! そんなことあるわけ……」
エサイアスは招待客の反応に、にこにこと笑顔を浮かべた。アンニーナもそう思っていたところなので、彼が何を話すのかとても興味が惹かれる。
「みなさん、いい線いってますよ。それでは、真相をお話しましょう。――僕たちは、父親違いの兄弟なんです」
その発言は、ホール全体を驚きと興奮が包んだ。今日一番の騒がしさだ。
「え? え?」
アンニーナの視線も、隣のラウリと少し前にいるエサイアスの間をせわしなく行き来する。二人とも微塵もそんな空気を漂わせていなかったのに。
――ラウリのお母さんが前の侯爵様に監禁されたとき、エサイアス様を妊娠したということかしら?
晴天の霹靂というものだ。しかも、お互いの話を聞いているアンニーナには驚きだけではすまなくて、二人の関係はみるからに複雑そうでどう反応していいのか困る。
そして、少しばかり学のある人なら、この発表にどんな意図があるか考えるだろう。私生児の存在は貴族にとって醜聞で夫人の実子として育てるか、あるいは母親に手切れ金を渡して母子ともに縁を切るかのどちらかだ。一般に公表して得をすることはない。
――どうして、エサイアス様は公にしたのかしら?
当の伯爵は天使の微笑をたたえ、ラウリも営業スマイルを浮かべている。ただし、夫は若干頬の筋肉をひくひくさせていたが。
驚きと興奮から始まった慰労会もその後は落ち着いて、招待客は思い思いに楽しんでいる。先代の伯爵の頃にはなかったこのパーティが、これから度々催されることを誰しもが願ったことだろう。
アンニーナが一通り挨拶を済ませバルコニーで一人涼んでいると、多忙なはずの伯爵がグラスを差し出してきた。
「会場の熱気で、喉が渇いたでしょう?」
「エサイアス様、……ありがとうございます」
衝撃的な話を聞いた直後で、そのことに触れていいのか分からないし、かける言葉も見つからない。アンニーナの逡巡に気づいたのか、伯爵は美しい口角を上げた。
「驚きましたか?」
「はい……とても」
これ以上は何も言えない。そんな彼女に、エサイアスはグラスを目線まで掲げてみせる。
「アンは優しいですね。とりあえず、僕とアンの喜ばしい出会いに乾杯しましょう」
アンニーナも倣ってグラスを持ち上げ、『乾杯』と声をかける。冷たいレモネードは乾燥した喉を潤してくれた。エサイアスと初めて会った時に、飲んだものと同じ味がする。彼女は伯爵との出会いを思い出しながら、夜空を見上げた。
「エサイアス様のお立場が悪くなるのではないのかと心配です」
「この土地で暮らしている以上、なにも不都合はないですよ。社交シーズンに王都へ行くつもりもないので、他の貴族に会うことはないでしょう。何かあれば、ウーノ兄さんが教えてくれますし」
「でも……」
適齢期のエサイアスが社交シーズンに王都へ行かないというのは、彼が妻を娶る気がないということだ。それはつまりアンニーナに貞操を捧げているからで、そう考えると罪悪感にかられる半面嬉しさで胸が熱くなってしまう。
「今回のことは、二人で話し合って決めたんだ」
耳当たりの良いバリトンボイスに振り向くと、ラウリが果物やサンドイッチを盛った皿をアンニーナに差し出してきた。
「昼から何も食べてないだろ。少しは腹に入れておけよ」
アンニーナは夫にお礼を言い、皿を受け取る。言われてみれば、お腹が空いているような気もした。二人とも今日の主役で忙しいのに、自分のことまで気にかけてくれる。こういう気遣いを受けるたびに、アンニーナの心に愛情の芽が吹いていつか満開の花でいっぱいになりそうな予感がした。幸せになりすぎて、怖い。
もしかして、とエサイアスのほうを向く。
「今日の発表は、わたしのためですか?」
すると、彼には珍しい、ミステリアスな微笑みを浮かべた。
「こうしておけば、僕がちょくちょくアンの家に通っても『美しき兄弟愛』とうけとられるだけですからね」
「何が、美しきだ。喜色悪い。おまえがうちに来なければいいだけだろ」
「ふふ。兄さんにもし万が一のことがあってもアンには僕がいますから、その点は安心して職務に邁進してください。頼りにしていますよ、補佐官」
ラウリの露骨にイヤそうな態度に、エサイアスはいっそう笑みを深ませる。『こいつは意図的に万が一を演出して、俺を殉職させかねない奴だ』とラウリに血の気を引かせたが、そんなことはアンニーナにはわかりっこなかった。
「アンにとって兄さんが土なら、僕はあなたの水と風と光になります」
「おまえの役割、多すぎないか?」
エサイアスは、ラウリの突っ込みを意図的に無視した。
「さあ、戻りましょうか。そろそろパーティを締めて、僕たちも愉しまないと」
意味深な言葉に、彼女の胸の内が熱くなる。二人に手を伸ばされ、アンニーナは躊躇いなく片方ずつ同時に手を添えた。
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