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淫婦ギーゼラ(1)
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「最後に、頼みがあるんだよ」
一月前、腐敗した王政がついに崩壊した。
少ない領土を取り合うため大量に造られた火器。それが、被支配階層に横流しされ、農民が鋤の代わりに銃を握ればどうしたって避けられない。クルタンの戦いの英雄にして、元・第三連隊連隊長クリストフ・ド・ボーニンは、胸に落ちた嗅ぎ煙草のくずを手で払いのけた。
「おいおい、まだ働かせるのかよ。俺はもう自由の身の筈だぜ」
「わかっているよ。別に断ってもらっても構わない」
断られても構わない頼みとは可笑しなものだ。新政府の立役者の一人であるクルトは、古くからの友人であり同志だ。王政を屠るだけで離脱したクリストフと違い、新しい国づくりに寝る暇もない。そんな人間が、わざわざ屋敷を訪ねてきたのだ。話ぐらいは聞いてやらねばならない。
「要件を言え」
「話が早くて助かるよ。その嗅ぎ煙草さえなければ、本当にいい男なのにね」
「うるさい」
十代の頃に戦場で覚えて以来、嗅ぎ煙草は手放せない。背中を丸めて片鼻に煙草を吸い込む仕草は、正直見られたものではない。だが、年取った使用人達と主人だけの屋敷に配慮する相手はいなかった。
「国王の姪にあたるギーゼラを覚えている?」
「覚えているも何も、くそ王の愛人の筆頭だろう?」
ギーゼラ。
この国では、淫婦の代名詞だ。叔父である国王と不義の過ちを犯し、その美貌でもって宮廷をほしいままにした女。王を堕落させ、国を破滅に追い込んだ、傾城の美女。国王一家は毒を以って自死したが、王女は死にきれず捕らえられた。どちらにしろ、死んだ国王の代わりに見せしめが必要だ。ギロチン台に送られるのは必至だった。
「そうだ。彼女を処刑まで預かって欲しいんだよ」
「なんで、俺が?」
「念のため、監視が要る。信頼できる人間はみな多忙で、一人に構ってはいられないんだよ」
「獄舎に繋げばいいだろう?」
「んー。処刑の日までに死んじゃうかもしれないよ」
それはそうだろう、絶対悪の象徴のような女だ。看守や兵士は反抗的な囚人を従わせる為に体罰を施しても良いことになっており、貧困と抑圧で人心は乱れている。生まれたばかりの政府にそこまでの統率力はなかった。
「すぐに処刑すればいい。お前たちも先代の王の娘に、いつまでも生きていられては迷惑だろう」
新政府に不満を持つものが出てきたら、王政復古の大義名分になる。ギーゼラを長らく生かせば、どこかで男児を産むかもしれなかった。自死した王は糞みたいな男だったが、先王は時代に翻弄されながらも、なかなかの人格者を貫いていた。賢王の孫と看板があれば、担ぎ出すには丁度いい。王女を一日でも生かす理由はないのだ。
「そう思っていたんだけど、ちょっと事情が変わったんだ。君は一切の仕事から解放されて、今暇でしょ?」
「暇じゃねぇ」
クルトはおや? と首を傾げた。そこにお茶を持った執事が入り、二人は立ったまま会話していたことに今更気が付いた。
「手紙の差出人の目星は付いたの?」
「まあな。マリーという名前の侍女だ。割に国王に近いところにいた」
「へえ」
すごいじゃん、とクルトは目を細めてお茶を飲む。この男は最近座って茶を楽しむ事はなかっただろうと、クリストフは思った。心なしか、痩せたようだ。だが、情けは禁物だ。
労いの言葉でもかけようものなら、我が意を得たりとにやりと笑う。二の腕を掴まれ強引に新政府のポストにでも就けられかねないことは、長年の付き合いで痛いほどわかっている。
今もこちらの意思とは無関係に、厄介事を押し付けようとしているではないか。
「ギーゼラはああ見えて、敬虔なカトリックだから自殺はしないよ」
「おい」
「あの通りの美人だし置物みたいに大人しいから、観賞用に一度置いてみてよ」
「おいおい」
「あ、餌はやってね」
強引に物品を送り付ける、詐欺師のような口振りに頭を抱える。まさか、既に連れて来てはいないだろうな。窓の外を覗くと、玄関に堅牢な馬車とそれを取り囲む物々しい数の兵士を見つけ、天を仰ぐ。
一月前、腐敗した王政がついに崩壊した。
少ない領土を取り合うため大量に造られた火器。それが、被支配階層に横流しされ、農民が鋤の代わりに銃を握ればどうしたって避けられない。クルタンの戦いの英雄にして、元・第三連隊連隊長クリストフ・ド・ボーニンは、胸に落ちた嗅ぎ煙草のくずを手で払いのけた。
「おいおい、まだ働かせるのかよ。俺はもう自由の身の筈だぜ」
「わかっているよ。別に断ってもらっても構わない」
断られても構わない頼みとは可笑しなものだ。新政府の立役者の一人であるクルトは、古くからの友人であり同志だ。王政を屠るだけで離脱したクリストフと違い、新しい国づくりに寝る暇もない。そんな人間が、わざわざ屋敷を訪ねてきたのだ。話ぐらいは聞いてやらねばならない。
「要件を言え」
「話が早くて助かるよ。その嗅ぎ煙草さえなければ、本当にいい男なのにね」
「うるさい」
十代の頃に戦場で覚えて以来、嗅ぎ煙草は手放せない。背中を丸めて片鼻に煙草を吸い込む仕草は、正直見られたものではない。だが、年取った使用人達と主人だけの屋敷に配慮する相手はいなかった。
「国王の姪にあたるギーゼラを覚えている?」
「覚えているも何も、くそ王の愛人の筆頭だろう?」
ギーゼラ。
この国では、淫婦の代名詞だ。叔父である国王と不義の過ちを犯し、その美貌でもって宮廷をほしいままにした女。王を堕落させ、国を破滅に追い込んだ、傾城の美女。国王一家は毒を以って自死したが、王女は死にきれず捕らえられた。どちらにしろ、死んだ国王の代わりに見せしめが必要だ。ギロチン台に送られるのは必至だった。
「そうだ。彼女を処刑まで預かって欲しいんだよ」
「なんで、俺が?」
「念のため、監視が要る。信頼できる人間はみな多忙で、一人に構ってはいられないんだよ」
「獄舎に繋げばいいだろう?」
「んー。処刑の日までに死んじゃうかもしれないよ」
それはそうだろう、絶対悪の象徴のような女だ。看守や兵士は反抗的な囚人を従わせる為に体罰を施しても良いことになっており、貧困と抑圧で人心は乱れている。生まれたばかりの政府にそこまでの統率力はなかった。
「すぐに処刑すればいい。お前たちも先代の王の娘に、いつまでも生きていられては迷惑だろう」
新政府に不満を持つものが出てきたら、王政復古の大義名分になる。ギーゼラを長らく生かせば、どこかで男児を産むかもしれなかった。自死した王は糞みたいな男だったが、先王は時代に翻弄されながらも、なかなかの人格者を貫いていた。賢王の孫と看板があれば、担ぎ出すには丁度いい。王女を一日でも生かす理由はないのだ。
「そう思っていたんだけど、ちょっと事情が変わったんだ。君は一切の仕事から解放されて、今暇でしょ?」
「暇じゃねぇ」
クルトはおや? と首を傾げた。そこにお茶を持った執事が入り、二人は立ったまま会話していたことに今更気が付いた。
「手紙の差出人の目星は付いたの?」
「まあな。マリーという名前の侍女だ。割に国王に近いところにいた」
「へえ」
すごいじゃん、とクルトは目を細めてお茶を飲む。この男は最近座って茶を楽しむ事はなかっただろうと、クリストフは思った。心なしか、痩せたようだ。だが、情けは禁物だ。
労いの言葉でもかけようものなら、我が意を得たりとにやりと笑う。二の腕を掴まれ強引に新政府のポストにでも就けられかねないことは、長年の付き合いで痛いほどわかっている。
今もこちらの意思とは無関係に、厄介事を押し付けようとしているではないか。
「ギーゼラはああ見えて、敬虔なカトリックだから自殺はしないよ」
「おい」
「あの通りの美人だし置物みたいに大人しいから、観賞用に一度置いてみてよ」
「おいおい」
「あ、餌はやってね」
強引に物品を送り付ける、詐欺師のような口振りに頭を抱える。まさか、既に連れて来てはいないだろうな。窓の外を覗くと、玄関に堅牢な馬車とそれを取り囲む物々しい数の兵士を見つけ、天を仰ぐ。
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