ロザリオと嗅ぎ煙草

柿崎まつる

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花道(1)

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 思えば、ギーゼラは今まで身体的な痛みとは無縁だった。
 心底痛いと思ったのは、国王に伸し掛かられた何度かだけ。あとは、せいぜい刺繍糸が指先を刺すか、包丁で傷つけるかの些細な事だ。痛みを舐めていた。クリストフの屋敷に移されると聞かされ、監獄で拷問される方がまし、と口走った自分は本当に馬鹿だ。

 前を歩く兵士に引っ張られる手首の縄ですら、喰い込んで痛い。額には投げられた石が当たって、血が出ている。
ここが一番痛い。心臓が額に移動したみたいに血が脈打っている。肩や髪には泥や汚物がぶつけられ、巻き込まれた兵士が何とか止めさせようとしても止まらない。ギーゼラは、姿勢を保って歩くのがだんだん難しくなってきた。
身体が重いし、臭いし、とても痛い。

 クルトは最初から何もかも知っていた。

「死ぬ前に、好きな相手に会わせてあげるよ」

 馬車の中で侍女マリーを自らの間諜であると匂わせ、悪魔の言葉を囁いた。

「クリストフは出来たばかりの国を捨てようとしている。君が足枷になれば、彼は新政府の為に馬車馬のように働いてくれるだろうね」

 彼に恋文の差出人がギーゼラであることを明かし、慈悲を乞えという。この革命の筋書きを描いたのはクルトだ。
その中でギーゼラはまだ役割を全うしていないことを教えられた。彼は義理堅いから、恩人の助命の為にはクルトの話に乗るかもしれない。だが、操り手の思惑を外れる駒だって、たまには存在するのだ。

──彼の足枷なんて、死んでもならない。

 それが今や誉高き王女でもなく、一介の囚人の身となったギーゼラが示す、唯一の誇りだった。

 あの屋敷で唱えた祈りは終始上の空で、口遊んでいるだけだった。クリストフから向けられる視線は、かつて宮殿で嫌というほど浴びせられたものと同じもの。色欲や所有欲だ。それを強く感じれば感じるほど、かつてのギーゼラは鈍感でいなければならなかった。
 だが、どうだろう。相手がクリストフと思えば、恋文を綴る時と同じ気持ちになれた。嬉しい。恥ずかしい。でも、受け入れたい。

 会話もしたことにない相手から閨の相手に昇格して、どんなに嬉しかったか。肌を重ねるのに気軽な相手と思われ、この時ほど自分の悪い噂に感謝したことはない。淫婦の誤解は解けたが、恋人の様に優しく扱われた。
狂おしいほど、女の歓びを教えられた。叔父から受けた屈辱は消え失せ、ギーゼラの身体には愛された記憶だけが残った。
 クリストフの歓びはギーゼラの歓びになった。すなわち彼が望み通り新天地に向かう事だけが、彼女の希望なのだ。彼が家庭を持って幸せになれるなら、本当はそうして欲しかった。初めて間近で見たクリストフは、なんだか寂しそうだったから。
 その役目が自分に果たせないのが心残りといえば、多分そうなのだ。

「クリスティーナ、あんた、クリスティーナじゃないか!」

 聞き覚えのある声に、ふと視線を彷徨わせる。たくさんの見物人に交じって、炊き出しで知り合った金物屋の女将と目が合った。お湯の沸かし方も知らないギーゼラに料理を仕込んでくれた人だ。

「ちょっと、衛兵間違えているよ!それはギーゼラじゃない!私たちのクリスティーナだ!」

 女将が声を張り上げれば、周囲の観衆もギーゼラを凝視した。

「クリスティーナ? 本当だ!」
「国王の愛人じゃないぞっ! 兵士たち、彼女を離せっ!」
「俺たちのクリスティーナを奪い返せっ!」

 見た事のある人々が声を発し、次々に兵士たちに襲い掛かる。兵士たちは丸腰相手に発砲することも出来ず、仕方なく銃を振り回して群衆を追い払おうとしていた。その騒ぎに人が群がり、通りを埋め尽くしていた。だが、こんな場所で誰かが傷つくのは自分が嫌なのだ。
 ギーゼラは、出せ得る限りの声で叫んだ。

「いいえ、私がギーゼラよ!」

 自分でも驚くほど、強い言葉が出た。群衆の動きが止まり、女将が茫然と名前を呼ぶ。

「クリスティーナ……」

 信じられない、と顔に描いてある。ギーゼラは頭を振った。

「クリスティーナは、最初からいないわ、いない者を助けようとしないでっ!」

 すると、それまで傍観していた観衆の一人が叫ぶ。

「この女はまちがいなく毒婦だ!」
「そうだ!聖女のはずがない!」

──そうよ。私が毒婦でなければ、彼らは誰に憎しみをぶつければいいの? 新政府が軌道に乗るためには、かつての悪政の責任をとる人間が必要なのよ。私がその責を受けるから、裏切りの罪を昇華させてほしい。

 一人が始めれば、周囲は付和雷同する。それが、群衆だ。皆、拳を振り回し、声を限りに彼女を罵った。

「兵士ども!さっさと、ギロチン台に連れて行け!」
「魔女の首を切り落として、禊を済ませるんだ!」
「妖婦に死を!」
「新政府、万歳!」
「新政府、万歳!」

 辺りは熱気に包まれた。先程、クリスティーナを助けようとした人々も、不安げに周囲を見回す。もはや、多勢に無勢だ。

──そうよ、それでいいわ。今まで虚ろに生きてきた私の、最初で最後の晴れ舞台よ。花道を盛り上げて頂戴。

 ギーゼラは華々しく笑んだ。

「それでも、あんたは私たちのクリスティーナだよ。あんたが死にたがっても、あんたを助ける!」
 
 金物屋の女将の声は、ギーゼラの鼓膜を震わせ、喧騒に埋もれる。通りは滅茶苦茶だった。いつの間にか、宮殿の雇人たちの姿もあった。もはや、御仕着せを脱ぎ捨て、市井で逞しく生きている。

「ギーゼラ様をお助けしろっ」
「あの方は、淫婦じゃない!私たちを助けてくれたんだ!」

 ギーゼラを助けようとする集団と、排そうとする集団。兵士たちが三つ巴になって、押し合いへし合いの騒ぎになった。混乱の中、ギーゼラの身は一時兵士から離され、もみくちゃにされる。
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