20 / 23
花道(1)
しおりを挟む
思えば、ギーゼラは今まで身体的な痛みとは無縁だった。
心底痛いと思ったのは、国王に伸し掛かられた何度かだけ。あとは、せいぜい刺繍糸が指先を刺すか、包丁で傷つけるかの些細な事だ。痛みを舐めていた。クリストフの屋敷に移されると聞かされ、監獄で拷問される方がまし、と口走った自分は本当に馬鹿だ。
前を歩く兵士に引っ張られる手首の縄ですら、喰い込んで痛い。額には投げられた石が当たって、血が出ている。
ここが一番痛い。心臓が額に移動したみたいに血が脈打っている。肩や髪には泥や汚物がぶつけられ、巻き込まれた兵士が何とか止めさせようとしても止まらない。ギーゼラは、姿勢を保って歩くのがだんだん難しくなってきた。
身体が重いし、臭いし、とても痛い。
クルトは最初から何もかも知っていた。
「死ぬ前に、好きな相手に会わせてあげるよ」
馬車の中で侍女マリーを自らの間諜であると匂わせ、悪魔の言葉を囁いた。
「クリストフは出来たばかりの国を捨てようとしている。君が足枷になれば、彼は新政府の為に馬車馬のように働いてくれるだろうね」
彼に恋文の差出人がギーゼラであることを明かし、慈悲を乞えという。この革命の筋書きを描いたのはクルトだ。
その中でギーゼラはまだ役割を全うしていないことを教えられた。彼は義理堅いから、恩人の助命の為にはクルトの話に乗るかもしれない。だが、操り手の思惑を外れる駒だって、たまには存在するのだ。
──彼の足枷なんて、死んでもならない。
それが今や誉高き王女でもなく、一介の囚人の身となったギーゼラが示す、唯一の誇りだった。
あの屋敷で唱えた祈りは終始上の空で、口遊んでいるだけだった。クリストフから向けられる視線は、かつて宮殿で嫌というほど浴びせられたものと同じもの。色欲や所有欲だ。それを強く感じれば感じるほど、かつてのギーゼラは鈍感でいなければならなかった。
だが、どうだろう。相手がクリストフと思えば、恋文を綴る時と同じ気持ちになれた。嬉しい。恥ずかしい。でも、受け入れたい。
会話もしたことにない相手から閨の相手に昇格して、どんなに嬉しかったか。肌を重ねるのに気軽な相手と思われ、この時ほど自分の悪い噂に感謝したことはない。淫婦の誤解は解けたが、恋人の様に優しく扱われた。
狂おしいほど、女の歓びを教えられた。叔父から受けた屈辱は消え失せ、ギーゼラの身体には愛された記憶だけが残った。
クリストフの歓びはギーゼラの歓びになった。すなわち彼が望み通り新天地に向かう事だけが、彼女の希望なのだ。彼が家庭を持って幸せになれるなら、本当はそうして欲しかった。初めて間近で見たクリストフは、なんだか寂しそうだったから。
その役目が自分に果たせないのが心残りといえば、多分そうなのだ。
「クリスティーナ、あんた、クリスティーナじゃないか!」
聞き覚えのある声に、ふと視線を彷徨わせる。たくさんの見物人に交じって、炊き出しで知り合った金物屋の女将と目が合った。お湯の沸かし方も知らないギーゼラに料理を仕込んでくれた人だ。
「ちょっと、衛兵間違えているよ!それはギーゼラじゃない!私たちのクリスティーナだ!」
女将が声を張り上げれば、周囲の観衆もギーゼラを凝視した。
「クリスティーナ? 本当だ!」
「国王の愛人じゃないぞっ! 兵士たち、彼女を離せっ!」
「俺たちのクリスティーナを奪い返せっ!」
見た事のある人々が声を発し、次々に兵士たちに襲い掛かる。兵士たちは丸腰相手に発砲することも出来ず、仕方なく銃を振り回して群衆を追い払おうとしていた。その騒ぎに人が群がり、通りを埋め尽くしていた。だが、こんな場所で誰かが傷つくのは自分が嫌なのだ。
ギーゼラは、出せ得る限りの声で叫んだ。
「いいえ、私がギーゼラよ!」
自分でも驚くほど、強い言葉が出た。群衆の動きが止まり、女将が茫然と名前を呼ぶ。
「クリスティーナ……」
信じられない、と顔に描いてある。ギーゼラは頭を振った。
「クリスティーナは、最初からいないわ、いない者を助けようとしないでっ!」
すると、それまで傍観していた観衆の一人が叫ぶ。
「この女はまちがいなく毒婦だ!」
「そうだ!聖女のはずがない!」
──そうよ。私が毒婦でなければ、彼らは誰に憎しみをぶつければいいの? 新政府が軌道に乗るためには、かつての悪政の責任をとる人間が必要なのよ。私がその責を受けるから、裏切りの罪を昇華させてほしい。
一人が始めれば、周囲は付和雷同する。それが、群衆だ。皆、拳を振り回し、声を限りに彼女を罵った。
「兵士ども!さっさと、ギロチン台に連れて行け!」
「魔女の首を切り落として、禊を済ませるんだ!」
「妖婦に死を!」
「新政府、万歳!」
「新政府、万歳!」
辺りは熱気に包まれた。先程、クリスティーナを助けようとした人々も、不安げに周囲を見回す。もはや、多勢に無勢だ。
──そうよ、それでいいわ。今まで虚ろに生きてきた私の、最初で最後の晴れ舞台よ。花道を盛り上げて頂戴。
ギーゼラは華々しく笑んだ。
「それでも、あんたは私たちのクリスティーナだよ。あんたが死にたがっても、あんたを助ける!」
金物屋の女将の声は、ギーゼラの鼓膜を震わせ、喧騒に埋もれる。通りは滅茶苦茶だった。いつの間にか、宮殿の雇人たちの姿もあった。もはや、御仕着せを脱ぎ捨て、市井で逞しく生きている。
「ギーゼラ様をお助けしろっ」
「あの方は、淫婦じゃない!私たちを助けてくれたんだ!」
ギーゼラを助けようとする集団と、排そうとする集団。兵士たちが三つ巴になって、押し合いへし合いの騒ぎになった。混乱の中、ギーゼラの身は一時兵士から離され、もみくちゃにされる。
心底痛いと思ったのは、国王に伸し掛かられた何度かだけ。あとは、せいぜい刺繍糸が指先を刺すか、包丁で傷つけるかの些細な事だ。痛みを舐めていた。クリストフの屋敷に移されると聞かされ、監獄で拷問される方がまし、と口走った自分は本当に馬鹿だ。
前を歩く兵士に引っ張られる手首の縄ですら、喰い込んで痛い。額には投げられた石が当たって、血が出ている。
ここが一番痛い。心臓が額に移動したみたいに血が脈打っている。肩や髪には泥や汚物がぶつけられ、巻き込まれた兵士が何とか止めさせようとしても止まらない。ギーゼラは、姿勢を保って歩くのがだんだん難しくなってきた。
身体が重いし、臭いし、とても痛い。
クルトは最初から何もかも知っていた。
「死ぬ前に、好きな相手に会わせてあげるよ」
馬車の中で侍女マリーを自らの間諜であると匂わせ、悪魔の言葉を囁いた。
「クリストフは出来たばかりの国を捨てようとしている。君が足枷になれば、彼は新政府の為に馬車馬のように働いてくれるだろうね」
彼に恋文の差出人がギーゼラであることを明かし、慈悲を乞えという。この革命の筋書きを描いたのはクルトだ。
その中でギーゼラはまだ役割を全うしていないことを教えられた。彼は義理堅いから、恩人の助命の為にはクルトの話に乗るかもしれない。だが、操り手の思惑を外れる駒だって、たまには存在するのだ。
──彼の足枷なんて、死んでもならない。
それが今や誉高き王女でもなく、一介の囚人の身となったギーゼラが示す、唯一の誇りだった。
あの屋敷で唱えた祈りは終始上の空で、口遊んでいるだけだった。クリストフから向けられる視線は、かつて宮殿で嫌というほど浴びせられたものと同じもの。色欲や所有欲だ。それを強く感じれば感じるほど、かつてのギーゼラは鈍感でいなければならなかった。
だが、どうだろう。相手がクリストフと思えば、恋文を綴る時と同じ気持ちになれた。嬉しい。恥ずかしい。でも、受け入れたい。
会話もしたことにない相手から閨の相手に昇格して、どんなに嬉しかったか。肌を重ねるのに気軽な相手と思われ、この時ほど自分の悪い噂に感謝したことはない。淫婦の誤解は解けたが、恋人の様に優しく扱われた。
狂おしいほど、女の歓びを教えられた。叔父から受けた屈辱は消え失せ、ギーゼラの身体には愛された記憶だけが残った。
クリストフの歓びはギーゼラの歓びになった。すなわち彼が望み通り新天地に向かう事だけが、彼女の希望なのだ。彼が家庭を持って幸せになれるなら、本当はそうして欲しかった。初めて間近で見たクリストフは、なんだか寂しそうだったから。
その役目が自分に果たせないのが心残りといえば、多分そうなのだ。
「クリスティーナ、あんた、クリスティーナじゃないか!」
聞き覚えのある声に、ふと視線を彷徨わせる。たくさんの見物人に交じって、炊き出しで知り合った金物屋の女将と目が合った。お湯の沸かし方も知らないギーゼラに料理を仕込んでくれた人だ。
「ちょっと、衛兵間違えているよ!それはギーゼラじゃない!私たちのクリスティーナだ!」
女将が声を張り上げれば、周囲の観衆もギーゼラを凝視した。
「クリスティーナ? 本当だ!」
「国王の愛人じゃないぞっ! 兵士たち、彼女を離せっ!」
「俺たちのクリスティーナを奪い返せっ!」
見た事のある人々が声を発し、次々に兵士たちに襲い掛かる。兵士たちは丸腰相手に発砲することも出来ず、仕方なく銃を振り回して群衆を追い払おうとしていた。その騒ぎに人が群がり、通りを埋め尽くしていた。だが、こんな場所で誰かが傷つくのは自分が嫌なのだ。
ギーゼラは、出せ得る限りの声で叫んだ。
「いいえ、私がギーゼラよ!」
自分でも驚くほど、強い言葉が出た。群衆の動きが止まり、女将が茫然と名前を呼ぶ。
「クリスティーナ……」
信じられない、と顔に描いてある。ギーゼラは頭を振った。
「クリスティーナは、最初からいないわ、いない者を助けようとしないでっ!」
すると、それまで傍観していた観衆の一人が叫ぶ。
「この女はまちがいなく毒婦だ!」
「そうだ!聖女のはずがない!」
──そうよ。私が毒婦でなければ、彼らは誰に憎しみをぶつければいいの? 新政府が軌道に乗るためには、かつての悪政の責任をとる人間が必要なのよ。私がその責を受けるから、裏切りの罪を昇華させてほしい。
一人が始めれば、周囲は付和雷同する。それが、群衆だ。皆、拳を振り回し、声を限りに彼女を罵った。
「兵士ども!さっさと、ギロチン台に連れて行け!」
「魔女の首を切り落として、禊を済ませるんだ!」
「妖婦に死を!」
「新政府、万歳!」
「新政府、万歳!」
辺りは熱気に包まれた。先程、クリスティーナを助けようとした人々も、不安げに周囲を見回す。もはや、多勢に無勢だ。
──そうよ、それでいいわ。今まで虚ろに生きてきた私の、最初で最後の晴れ舞台よ。花道を盛り上げて頂戴。
ギーゼラは華々しく笑んだ。
「それでも、あんたは私たちのクリスティーナだよ。あんたが死にたがっても、あんたを助ける!」
金物屋の女将の声は、ギーゼラの鼓膜を震わせ、喧騒に埋もれる。通りは滅茶苦茶だった。いつの間にか、宮殿の雇人たちの姿もあった。もはや、御仕着せを脱ぎ捨て、市井で逞しく生きている。
「ギーゼラ様をお助けしろっ」
「あの方は、淫婦じゃない!私たちを助けてくれたんだ!」
ギーゼラを助けようとする集団と、排そうとする集団。兵士たちが三つ巴になって、押し合いへし合いの騒ぎになった。混乱の中、ギーゼラの身は一時兵士から離され、もみくちゃにされる。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
19
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる