不可侵領域

千木

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 受付の人に軽く挨拶をして、清潔感のある白い廊下を歩く。手にはそれぞれ鞄が一つずつ。慣れた足取りで真っ直ぐに目的の病室へ向かう。
 ふと、立ち話をしていた病衣姿の男性二人が、会話をやめてセイを見る。セイにとってやはり良い気はしないが、教会の神父たちのような、ねっとりとした下心はあまり感じない。何故か、と少し考えてから、身体ではなく顔に視線を送られていることに気がついた。
 身体を丈の長い外套で覆っているからかもしれないし、ウインプルを外しているから、傍目にはシスターだとわからないのも理由かもしれない。すれ違いざまににっこりと会釈をすると、二人とも腑抜けた顔でぺこぺこと頭を下げた。
 病室の扉の前で立ち止まり、ノックをする。すぐに中から愛しい人の声が返ってきて、セイはにこやかに扉を開けた。

「おはようございます。神父様」
「おはよう、セイ」

 ベッドから起き上がって此方を向くレンの顔に、包帯は無い。目を細めて笑いかけてくれる彼に近寄り、荷物を置いてキスを一つ。

「いつも通り、替えの服をお持ちしました。それから、頼まれた本と消耗品のストック。全ていつもの場所に置きますね」
「ありがとう。毎日世話を掛けて、ごめんね」
「私はその為にいるのですよ?謝らないでください」

 鞄から各々取り出しては、慣れた手つきでベッド傍のチェストにしまっていく。少しするとノック音がして、レンが応じる。二人とさほど歳の変わらない医師が、笑みを浮かべながら扉を開けた。

「おはよう、レンさん。奥さんも。もしかして邪魔しちゃったかな?」
「何を仰るのですか。此処まで優遇していただいて、文句の一つもありませんのに」
「優遇なんてしてないよ~?患者さんが出来るだけ穏やかであるよう、努力するのは医者のつとめでしょ?」

 へにゃりと笑ってから、医師はカルテを持ち直して検診を始める。“奥さん"と呼ばれることにむず痒さを感じながら、セイは邪魔をしないよう、窓際に移動してそれを見守った。

**

 初診の時、丁寧に挨拶をしてくれた医師は、すぐに検査の結果を伝えた。不明なままでいた盲目の原因が思っていたよりもすんなりと明確になり、わかりやすく説明される。さほど興味無く聞いていたレンを、隣でメモをとりながら聞くセイが時々肘でつついていた。
 しかしあまり前例の無いこの症状は、現段階での医療では治しきることが出来ないと医師は続けた。手術を施してやっと、ぼんやりと見えるようになる程度だと。目への負荷を考えても、追加での手術は効果の期待出来ないと。
 まだ不明な点が多いこの症状を調べたいと、医師は入院をすすめた。二人でいられる時間が少なくなることからレンは躊躇ったが、セイは医師の言葉にすぐに同意した。一緒にいたいのはセイも同じだったが、教会から手配されたアパートの一室は想定以上に程度が低く、とても狭かった。綺麗な病院にいてくれた方が、セイとしては安心なのだ。それに、入院ともなれば番探しなど満足に出来はしない。伝えられた主任が唇を噛むだろうと考えると愉快だった。

「毎日会いに来ますから」

 手を握りながらそう言うと、レンは渋々頷いた。すると二人の様子を見ていた医師が、世間話をするような口ぶりで問い掛けた。

「失礼だけど、二人は恋人?」
「はい。……番では、ありませんが」

 セイの言葉に、医師は首を傾げて、しかしすぐにことを理解したらしく大きく頷いた。それから主任の息が掛かっていることが事実であることを隠さず話した上で、こう続けた。

「受診の内容や経過は適宜伝えなくちゃいけないけど、僕は番探しについては否定的なんだ。それを強要するなんてもってのほか。だからね、此処では隠さなくて良いんだよ。愛し合ってることを隠す必要なんてないし、番でないことに後ろめたさを感じる必要も無いんだから。当たり前だけどね」

 二人にとってそれは衝撃的だった。そして求めていた言葉であり、外を実感出来る言葉だった。
 医師は言葉だけでなく、レンに一人部屋を当てがってくれた。面会時間の初めから終わりまで、好きなだけ一緒に居られるだろうと。そんな粋な計らいに甘んじて、セイが毎日通い妻をするような形で、教会にいる時よりずっと二人の時間を得て、十分に満喫していた。

**

 やがて検査をする為にレンと医師が病室を出て行くのを見送ると、セイはそっと椅子に座り、鞄を手にとった。レンの私物を入れていたものより、一回り小さなもう一つの鞄。膝に乗せてその中身を取り出し、サイドテーブルに並べると、黙々と作業を始める。
 全て同じ内容が書かれた紙束から一枚一枚、丁寧に折り畳んでは封筒に入れていく。出来たものは複数枚ごとに束ねて、鞄に戻す。それを繰り返すだけの内職。
 此処に来てすぐに、レンの見舞いを怠ることなく出来る仕事を探した。単調な仕事だが、今までもこういうちまちまとした作業をすることが多かったセイには割と合っていた。治療中はともかく、三ヶ月しか猶予は無い。番を見つけることなどもちろんしないので、教会に戻ることはまず無理だろう。その先をどうするか、まだはっきりとはしていない。そもそもそこは曖昧だと理解した上で飛び出してきたのだから、仕方のないことだった。
 だからせめて、少しでも手持ちを増やそうと。しかしレンに言えば気を揉んでしまうだろうから、今のところは内緒にしている。勝手にしていることなのだし気にしなければ良いのだが、彼はそういう人なのだ。

「相変わらず健気っすねぇ」
「ッ!?……ノノさん、驚かさないでください」

 急に声を掛けられ、肩が跳ねる。いつの間にか背後に看護師が立っていて、手元を覗いていた。いつ入ってきたのかまるでわからない。集中してしまうと周りが見えなくなってしまうことを、最近ようやく自覚した。困ったように眉を下げて笑うと、セイは人差し指を自身の口元に置く。

「神父様には、内密に…」
「チクりませんよ、別に。でも、扉が半分開きっぱなしなことには気づくべきじゃないっすか?バレちゃいますよ?」

 ノノ、という名前の看護師はけらけらと笑う。レンの担当をしてくれている彼女は独特の口調で、ある意味で看護師らしからぬ言動が多い。しかしそのフランクさがセイには好印象で、歳も近かったこともあり、いつの間にか気兼ねなく話せる間柄になっていた。今まで人に話せなかった胸の内や、なんてことない惚気話まで、仕事の合間に聞いてくれる。口調の割には根が真面目なようで、時に真剣に、或いは揶揄いながら話し相手になってくれる彼女は、交友関係が希薄なセイにとってはありがたい存在だった。

「そだ。奥さん、これより良い稼ぎのバイトあるけど、やらないっすか?」
「……なんでしょう。凄く嫌らしい響きですね」
「そんな怪しいバイトを、看護師が勧めてたら大問題なんですけど……。とりあえず見てみません?すぐそこなんで」

 すぐそこ、と聞いてセイは首を傾げたが、とりあえず荷物を片付けてついていく。何気ない話をしながら、着いた先は病院内の庭だった。教会の中庭よりずっと広く、噴水まである。手入れが行き届いたガーデンアーチの向こうに、病衣を着た子供たちが集まっているのが見えた。誰もいないベンチの前に整然と座っていた彼らは、二人が近寄ると揃って振り向いた。

「ノノー!今日は上手い人がいいよー!」
「呼び捨てやめろクソガキー。一丁前に人を選びおって」
「だってこの前のおばちゃん、何言ってるかわかんなかったんだもん!」

 服の裾を引っ張る子供たちと同じレベルで話すノノに苦笑しながら、セイは子供たちに目をやる。それぞれ絵本を抱えていて、一部は既にセイを期待を込めた眼差しで見つめていた。

「読み聞かせ、ですか?」
「そうっす。上手くやればいい具合の金が出ますよ。辛口評価の奴らばっかで、結構な大人が泣かされてるんで」
「は、はぁ……」

 確かに子供たちは、歯に衣着せぬ物言いをすることが多い。教会の子供たちもそうだった、と思いを馳せた。少し違うが、二人が出て行くとなって、少しは泣いてくれるかと思えば「駆け落ちだ!」「頑張ってね!」と言われたことは忘れていない。言葉の意味を理解しているのかわからないし、一応、レンの治療に出掛けるという名目だから、帰ってくると思っているのかもしれない。そうなれば茶化しもあるだろうか。それにしても……。

「で、やります?」
「……まぁ、ご希望にそえるかはわかりませんが」

 ノノに問われ、セイは頷いた。おそらくこういうことはレンの方が向いているだろうが、本を読むことぐらいなら、何度かしたことはある。ベンチに腰掛けると、わらわらと子供たちが集まり、それぞれの本を差し出した。それを優しく制して、端にいた女の子から絵本を受け取る。

「同時は無理ですから、そうですね。順番に読みましょう」
「お姉ちゃん、はっきり話してね!」
「はい、頑張りますね」

 微笑んでから、セイはすっと息を吸う。そして、見たことのない絵本の表紙を開いた。

ーー。

「うーん、やっぱり難しいかな。これ以上の引き延ばしは……」

 検査が終わり、レンは廊下を歩いていた。ガラス窓から差し込む日光があたたかい。隣で唸る医師に、「やっぱり」と思いつつ笑って言葉を返した。

「十分な時間はもらったよ。本当は、入院は必要なかったんじゃない?」
「そんなことないよ~。データが欲しいのは事実だもん」
「でも、主任からの圧力が凄いんでしょう?」
「そりゃもう。毎日電話でお小言を散々ね~」

 セイとノノが仲良くなるのと同じくして、レンと医師もそれなりに親密になっていた。そして、レンは医師が出来るだけ治療の時間を伸ばしてくれていることを知っていた。前例のない症状のデータ取り、という現実を織り交ぜた名目で。それが独断で行えるとなると、年齢があまり変わらないというのに、彼はかなり上の立場にいるようだった。

「いつになりゃ手術するんだーってね。まぁデータ云々もとれるものはとれたし、そろそろ厳しいとは思ってたんだけど」
「最初から思っていたのだけれど、君、結構肩入れしてくれるよね。どうして?」
「別に理由は無いよ?僕は君たちに対して、出来ることをしてるだけだし。僕はおじさんの圧に負けるほどじゃないしね~」

 へらへらと笑う医師。自分たちだけでなく、診る人全員にそうしているのだろうか。全員とはいかないかもしれないが、どんな人にも、彼は自分の出来る精一杯を惜しまないのだろう。それは《医師として》を超えている気がして、レンは素直に感心した。

「手術すれば終わりじゃないし、そこから経過観察しなきゃいけないし、まず手術が成功するかは立場上百パーセントとは言えないよ?でも、伸ばせるとしたらここだったんだ。二人が幸せそうなのを見るたびに、そうして良かったって思うよ」
「うん。本当に、ありがとう」
「僕は治療を終えても、これまで通り相談に乗る。君たちが幸せに生きていけるように一緒に考えさせてね」
「うん」

 その言葉が、何の後ろ盾もないレンにとってどれだけ支えになるかは計り知れない。見えないが、きっと彼は優しい顔をしているのだろう。それがもうすぐ見えるようになるのかと、ふと考える。
 半端に見えるようになれば、今までの生き方が難しくなってしまうかもしれないと、前に医師は言った。無意識に不明瞭な視覚に頼ることで、他の研ぎ澄まされた感覚が鈍くなってしまうかもしれないと。それはレンも気にかけていて、果たして視力が手に入るが良いことなのか改めて考えた。今まで必要とせずに生きてきたのに、今更欲しいとはやはり思えなかったが……。

「そうか、彼女の顔が見られるようになるんだ」

 そう呟くと、医師が「今更?」と驚いた声を上げる。当たり前のことを、あまりの興味の無さに忘れていたのだ。その事実に、レン自身も呆れたように肩を竦める。

「そうか……。なら、嬉しいことかな」
「そうだよ~。奥さん、とっても美人なんだから。きっと見惚れちゃうよ?」
「そんなに?」
「そりゃあもう。僕もあんな奥さん欲しいな~」
「セイにはやめてね」
「僕が奥さんに相手にされないと思うよ」

 二人の笑い声が重なる。レンもまた、友好関係に乏しく生きてきたから、こうやって冗談を言い合える人間はとても貴重だった。それに、彼のお陰でただベッドに横になっているだけでなく、様々な情報を得るために病院をうろつくことも出来た。本当に彼との出会いは、ノープランで此処まで来たレンにとって幸運でしかない。
 病室の近くまで来たところで、医師があ、と声を上げる。足を止めると、彼は窓の方へと移動した。

「奥さん、庭にいるじゃない」
「庭?」
「多分ノノちゃんが引っ張っていったんじゃないかなぁ。行く?」
「うん」

 なるほど確かに、この下がちょうど庭だとレンは一人で納得する。ガラス張りの景色の向こうに、姿が見えたのだろう。医師に引っ張ってもらうようにして、レンは再び歩き出す。
 建物から出た途端、日の光のあたたかさを直に感じた。馴染みのある花の香りがする。それが百合だとわかると、自分が花壇に植えたものを思い出した。教会に置いてきてしまったのは少しばかり残念だったが、自分たちを見送るように、当日一輪だけ咲いてくれた。その花の輪郭を、香りを、まだ覚えている。他のものも、きっと今頃シスター長と子供たちがしっかり世話をしてくれているだろう。
 花の香りに誘われるように歩を進めると、セイの声が近くなった。話をしている?と思ったが、そうではないことはすぐにわかった。

「(読み聞かせ……)」
「わぁ、びっくり。大人しく聞いてる……」
「あっ、先生、しっ!」

 足元に小さな気配、子供たちだろう。複数人が座っている。少しだけセイの視線を感じたが、すぐに逸れた。優しい風に乗って、彼女の声が心地よく鼓膜を震わせ続けている。

「……声が良いんだか、読み方が上手いんだか、むちゃくちゃ大人しいんすよ。もう四冊目っす」
「えぇー……凄いなぁ」

 こそこそと話す二人の声を拾いながら、レンも子供たちと同じようにセイの読み聞かせに耳を澄ませる。これは、教会の子も泣き止む筈だ。ヒーリングミュージックにもなり得そうな、なんとも丁度良い声音。彼女の優しさが滲み出ている、なんて言ったら、きっと不貞腐れてしまうだろうか。

「(そんな愛しい君の顔が、もうすぐ見られるんだね)」

 微笑みながら、紡がれる物語に聴き惚れる。彼女が終わりを告げるまで、庭の片隅には穏やかな時間が流れ続けた。
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